・自我が使う防衛手段のひとつは、こうした痛みのデータを世界や他人に投影することで自分のものとしないことです。
・元々の起源は内側にあるにもかかわらず世界は憎むべき敵でいっぱいとなり、自我はいまや内側ではなく外側からの攻撃に怯えることになります。被害妄想は自我があることから生じるのです。
・繰り返しますが、謙虚さは、何度行っても足りないほど重要な事実を受け入れる姿勢をつくります―その事実とは、間の心は真偽を見分けることができない、ということです。
・此の世の執着を手放し、誘惑の多い世間から身を引いて、静かで落ち着いたライフスタイルを送ることのできるばよに移ることもよくあります。最も広くかつ基本的な意味において、放棄とは、真理の実現と「神の真実」を遠ざける、あらゆる幻想や障害を捨て去るということです。
・虚偽を放棄し、愛と平和、神聖さ、思いやり、赦し、慈悲、慈善の道に寄与するということです。
・無知の代わりに「真理」を、闇の代わりに「光」を選択し、憎しみ、怒り、プライお、悪意、欲、利己心を放棄するということです。さらに放棄とは、非難がましい二元性の誘惑をしりぞけ、二元論に陥ることなく、”対立する極”という立ち位置の罠から自由になるということです。
・最もシンプルな放棄は、辞退あるいは余計なものを受け取らないことから始まります。”上昇する”ことは”下降するものと戦う”ことではなく、単にそれ以外のものをしりぞけることにほかなりません。
十牛図
十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの[1]。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者[2])の姿で表されている[3][注釈 1][注釈 2]。十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)[要出典]や牧牛図ともいう[3][注釈 3]。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)[1][5]。
廓庵以降、十牛図は世の中に広まっていたとみられるが、十牛図の作例はそれほど多くないとされる[1]。よく知られている作例としては室町時代前期の禅僧の絶海中津が描いた十牛図(相国寺蔵)、室町時代中期の画僧の周文が描いたと伝えられる十牛図(相国寺蔵)がある[1]。
目次
1 構成と内容
1.1 序
1.2 第一図から第十図
2 作例
2.1 伝 周文 筆(相国寺蔵)
3 解釈
3.1 各図の解釈
3.2 牛が描かれる理由と本質
3.3 十波羅蜜・菩薩との関係
3.4 日本の禅宗における解釈
3.5 哲学者・神学者による評価
4 フィクションにおける扱い
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
構成と内容
十牛図は十枚の図と詩からなる[1][6][7]。実際の図は#作例を参照。解釈については#解釈を参照。
序
廓庵の十牛図には弟子の慈遠によって次のような意味の序が付けられている[1]。
どんな人にも仏の真源、仏性が備わっているが、迷いの世界に入り込みもがき苦しんでいるので、そこから逃れる方途をこれまでも示されてはきたがそれらは不十分であったので、新たに廓庵禅師は牧牛によってその方途を示された。
第一図から第十図
尋牛(じんぎゅう)
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見跡(けんぜき/けんせき)
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見牛(けんぎゅう)
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得牛(とくぎゅう)
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牧牛(ぼくぎゅう)
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騎牛帰家(きぎゅうきか)
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忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
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人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
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返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
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入鄽垂手(にってんすいしゅ)
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解釈
各図の解釈
尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況[1]。人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる[1]。
見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない[1]。
見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位[8]。
得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます[1]。
牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要[1]。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる[1]。
騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない[1]。
忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる[1]。
人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる[1]。忘れるということもなくなる世界[1]。
返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る[1]。
入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益[1]。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある[1]。
牛が描かれる理由と本質
上田閑照は、「真の自己」が牛の姿で表されるのは、インド以来の聖牛という考え方と、農耕民族としての中国人には牛が実際生活の支えであったためであろうとしている[3]。
上田によれば、十牛図において本質的なことは、牛が真の自己を象徴することよりも、野牛を捕まえて牧い馴らしてゆくという牧人と牛との動的な関わりが「自己の自己への関わり」のリアルな類比になっている点であるという[3]。
十波羅蜜・菩薩との関係
廓庵の『十牛図』に付けられた序によれば、もがき苦しむ迷いの世界から逃れる方途を牧牛の喩えによって示したとされること[1]、牧牛者が童子とされることなどから、[要検証 – ノート]十牛図は十波羅蜜や菩薩十地を図象化したものとする説がある[9][要ページ番号]。
日本の禅宗における解釈
日本の禅宗は独自の解釈や提唱を示すことがあり、「1) 尋牛」を自れを探求する大願、「2) 見跡」を釈迦の正法/禅の大綱の会得、「3) 見牛」を見性大悟、「4) 得牛」を大悟徹底と聖胎長養、「5) 牧牛」を悟後の修行、「6) 騎牛帰家」を山の中の庵へと帰ること、「7) 忘牛存人」を仏法を捨て切ること、「8) 人牛倶忘」を一点の曇りもない澄んだ境地、「9) 返本還源」を大円境地、「10) 入鄽垂手」を遷化、とする説[10][要ページ番号]などが唱えられる。
哲学者・神学者による評価
十牛図は1958年にドイツ語訳され、マルティン・ハイデッガーは第九図とその偈に感動し、アンゲールス・ジレジウス(英語版)の詩のようだと述べたという[5]。神学者のルドルフ・カール・ブルトマンは第八図の円相に関心をもち、ここに、対象的に有るものではない「私の神」(mein Gott)への対応を見たという[5]。
真実と主観性 第4章 自我と社会
・わたしたちは自己とアイデンティティという感覚を発達させなければなりません。あらゆる決断をするためには、中心となる自己像を形成しなければならないのです。そしてこの自己がすべての目標と理想を結集して、道徳的な立ち位置と融合します。しかし知らないうちに、自己の一部が分裂して、被害者/加害者、罪悪感や後悔、畏れ、厳格な自己審判の著者といった内なる敵になります。
・最も進化したコンピューターでさえ、一人の人間であることの任務に匹敵するものはありません。その明白な証拠に、人間はコンピューターを入れることができる意識的なデータだけでなく、無意識的なデータと、皆目見当もつかないようなエネルギーフィールド、個人と集団のカルマ傾向を取り扱わなければなりません。
・したがって大部分の最も重要なデータが抜けているので、どんなコンピューターもそのようにプログラミングすることはできません。結果として、人間は膨大な任務を遂行しなければならないのです。そして遂行するにも、脳の機能的、構造的な制限に加え、報酬/快楽回路と、簡単にプログラミングできてしまう単純なソフトウェアを内蔵しているという障害もあります。心は複雑なデータを処理するために、それを分類や論理アルゴリズムに一括するというショートカット機能を利用します。したがって、入ってくる情報のすべてが他のデータと類似しているかいないかを瞬時に決定しなければなりません。
・さらに心とそのソフトウェアは、こうした複雑性に対応するだけでなくそれを徹底的に”経験”しなければならないのです。そして分析する間もなく、心は経験を自動的に偏執してメモリのデータバンクの中にファイリングし、それをパッケージにして提供します。データは携帯だけでなく、より重要な要素として、感情の微妙なグラデーションによって、どこに保存されるかが決定されます。いくつかのデータは呼び出すことができますが、そのほとんどが埋もれてしまい、意識に浮上することはありません。
・たとえば、あるデータは「苦しい!思い出してはならない」というファイルに保存されています。いくつかのファイルは回復できない痛みのデータとなり、罪悪感や後悔、ひどい場合は自殺といった自己攻撃や痛々しい自虐性となる潜在的兵器として保存されています。そしてどんあ出来事も自己攻撃の引き金を引くことができ、自己懲罰という集中砲火を浴びせるのです。
・自我が使う防衛手段のひとつは、こうした痛みのデータを世界や他人に投影することで自分のものとしないことです。すると、元々の起源は内側にあるにもかかわらず世界は憎むべき敵でいっぱいとなり、自我はいまや内側ではなく外側からの攻撃に怯えることになります。被害妄想は自我があることから生じるのです。
・人間の事情をわかりやすくようやくしてみると、その制限された資源からいって、生存、幸福、成功がいかにはかないものであるかがわかります。大方の人々は生き延びることさえもできず、大勢の人がさまざまな苦境や災害によって命を落とします。たとえ個人的な問題を逃れたとしても、戦争や疫病、飢餓、事件などの社会的な自我の問題に絡みとられるのです。
・Q:たったひとつのミスが命取りになることもあるならば、この条件下でどのように生き残ることができるのでしょうか?
・A:個人的な自己だけでは、こうした内的外的両方の複雑さの中で、真に生き残ることも、まして繁栄することもできません。これまで描写してきたことは形の世界のことですが、人間とは脆弱な自我以上のもので、生命は霊の非線形的な領域のパワーによって支えられています。
・その決定的な霊の指針があるからこそ、正反対のことを主張する自我がいても生存が可能になっているのです。霊はエンジンの統括者です。統括者がいなければ、エンジンは自己崩壊してしまいます。意識の形を持った霊は、瞬間ごと膨大なデータ全体を統括し、瞬間ごとの人生の主観的な体験を出力しています。こうした霊の働きが、真偽を識別できないという自我の深刻な欠陥を相殺しているのです。
真実と主観性 6章 悟り
・Q:意識が進化するためには、自我も必要な段階であることがわかりました。しかし、形あるものの世界が解明され、研究しつくした後にわたしたちが進む次の段階は、その起源を探究することでしょうか?
・A:それは論理的な行程です。知性にとって、物理学や化学、天文学、宇宙学などで形あるものを探究することは非常に魅力的でした。そののちに人間が抱く疑問は、この宇宙がどこから生まれ、どこへ行くのかということです。
・実はこの疑問は、もうひとつのきわめて重要な人間の動物的本能を表しています。それは好奇心です。動物は、食料や交尾の相手や住まいを得るために常に本能的に探す習性があり、それが飽くなき好奇心となりました。
・探究心は人間の生まれ持った習性であり、その最も高度なレベルが霊的な探究となります。そしてそれは、わたしは誰なのか、わたしは何なのか、どこから来たのか、自己の起源と運命はどのようなものなのか、神とは何であり、どこにいるのか、といった疑問を生じさせるのです。
・謙虚さを持てば、好奇心は役に立つ家来となります。しかし分別のない人にとっては、深刻な落とし穴になりかねません。好奇心はナイーブな求道者を袋小路に誘いこみ、いらない妨害や誘惑をしたり、ひどい場合は致命的な罠に落とし居れます。だからこそ、わたしたちは真の教師を必要とします。
・繰り返しますが、謙虚さは、何度行っても足りないほど重要な事実を受け入れる姿勢をつくります―その事実とは、間の心は真偽を見分けることができない、ということです。
・この事実が誤りであれば、歴史に戦争はあり得ませんし、さまざまな社会問題も、無知も、貧困も生じていないはずです。人類はとっくに覚醒しているはずですし、何世紀もの間、意識レベルが190にとどまっているわけがありません。
・Q:どうしてわたしたちは真理に対して盲目になってしまったのでしょうか?
・A:動物は形の世界に生きています。生存のための基本的要素は、肉体であり、食料であり、敵を識別する能力です。そのため、動物の脳は知覚力を高める方向に進化しました。
・わたしたちが自我のコンテント(内容/中身)の先を見越したとき、覚醒を求める求道者にとって極めて重要な性質に向き合うことになりますーそれは、近くの基本的機能です。これは動物にとって必要不可欠な機能ですが、意識の領域においては、二元性を作り出してしまいました。
・その結果、場所や方向、時間などの感覚が生まれたのですが、これらはいずれも動物が生き残るために不可欠なものです。たとえば、餌を捕まえるために”ここ”と”あそこ”という二元的な近くが必要になります。しかし、このように感覚に依存するようになってから、形あるものの限界が生まれました。
・空間と距離の知覚が生じたために、自我はこの知覚が真実を表していると思い込んでしまったのです。動物にとって、これ以上に高次の真実が存在していると思わなければならない理由は何もありませんでした。というのも、彼らのニーズはすべて形とコンテントという領域の中に収まっていたからです。しかし、自我が思考の中でイメージを操ることを覚えると、人間はただ動いている動物でいることから進化し始めました。
・そしてイメージもまた洗練され、類似や相違を認識できるようになりました(古典的な、右脳/左脳、デジタル/アナログ/コンピュータ、などの類比)。今ではわたしたちの前脳は、抽象的な概念やシンボルや言語を処理できる、複雑なコンピュータのような働きをするまでに拡大しました。
・実はこの前脳は、古い動物的な脳に”追加”されたものです。ですから、この新しい脳には利点もありますが、古い脳との間には不利な点も生じています。このふたつの脳の間を断絶するスイッチがないため、怖れや怒りやよくといった動物的感情が知性の中に入り込んでしまうのです。また知性も、動物的欲動に関連する一連のイメージを作り出してしまいます。
・Q:自我のコンテントだけでなく、自我の構造そのものが主な障害となっているのでしょうか?
・A:その通りです。しかし、心がこのことをよく理解し、自我のコンテントを洗い直し、そのめかぬズムを認識することで、わたしたちは霊的に成長することができます。一度そのことに気づけば、もう二度と自我に”振り回される”ことはなくなります。この成長の様子は、あの有名な”禅”の”十牛図”にも描かれています。最初の図の中に登場する自我は、野生の動物そのものですが、次の場面では飼いならされて従順です。次の段階では、自我は超越され、最終場面では消えてなくなっています。
・Q:意識が覚醒の状態まで成長するために必要な条件をまとめてもらえますか?
・A:まずは、自我が習慣的に立ち位置を用いることを認識することです。けれども、ほとんどの初心者はそれに気がつきません。そして立ち位置は、自動的に対の二元性を作り出します。この時点で、心は近くの世界を創造し、それはレンズとなって物事の真意や重要性をゆがめたり、拡大したり、減じたりします。この知覚は、さまざまな価値観や信条の産物であり、不要なフィルターとなって働きます。
・こうして、二元的な立ち位置は本質を取り逃がしてしまうのです。また、内側にはソフトウェアが組み込まれており、入ってくる情報を瞬時に編集してしまいます。そして真実は不確かなものとなり、知覚のスクリーンの後ろに隠されてしまいます。このように自己は、知覚され編集をかけられた情報の中で生きているのです。この全行程は、わずか一万分の一秒で行われると観測されています。この知覚の編集機能は、知性や、とりわけ重要な働きをする記憶を総動員して、情報の意味を翻訳してしまいます。
P170
・Q:自我の複雑な構造や機能、また近くを自動的に編集するという習性を知ると、それを超越するのはほとんど不可能のように思えるのですが。
・A:自我の構造と機能がわかれば、その傾向が認識できるはずです。それは瞑想などによって、経験的に明らかになります。目撃者/観察者という非個人的な目線から、自我がどのように動いているのかを観察します。すると、<わたし>はプログラムのコンテントやデータではなく、コンテントの数段階前の非個人的なフィールドであるという気づきに至ります。
・わたしは当事者、あるいは主体というよりは、むしろ観察者だったことに気づくのです。何世紀にもわたって、数多くの霊的な実践法とテクニックが、自我と、その有限で知覚的な二元性の世界への同一化を断ち切るために開発されてきました。また、意識の霊的な本質についても明かされてきました。
・たったひとつの真実のッ情報でも、膨大な数の誤った概念や立ち位置を取り消す力を秘めています。こうした霊的な情報は、偉大な聖者や教師、アバターの「自己」から発する高波動のエネルギーに包まれてりうので、自我の脆弱なエネルギーフィールどよりもはるかに大きな力を持っているのです。「自己」がコンテクスト(文脈/状況)であり、自己がコンテント(内容/中身)だということを認識しただけでも飛躍的な進歩を遂げたことになります。
・ナイーブな探究者は、単にこのコンテントをいじくり回しているにすぎません。人生は、いつか(死後)どこか(天国)で、あるいは善徳やよいカルマを積んだ末の来世で待っていると信じられている神との約束を果たすため、自我と罪を克服するという奮闘のうちに費やされているのです。
P171
・Q:霊的な成長はゆっくりだったり突如早まったりと、まったく予想がつかないように思えます。
A:祈りとともに心から献身し、謙虚さを持つことで、成長を速めることができます。時間の経過が気になるのは、結果を求めるからです。また、自我nエネルギーから”切り離された”後でも、その影響が完全に消滅するまでにはしばらく時間がかかります。それはまるで、巨大なタンクを持った大型船が、エンジンを止めた後でも、本当に静止するまでのあいだに数マイル移動するようなものです。自我はたいてい、段階的に方かいするものです。
・自我が本当の自己であるという信念が消え始めたとき、自我の方かいは始まっています。自我に対する忠誠心が究極の神に向けられたとき、そこに空間ができます。その空間の中に、「聖霊」として、「神の恩寵」が流れ込むのです。
・:この世のものを放棄するとはどういうことでしょうか。霊的な教えの中には、それが必要な要素であると説くものもありますが。
・A:確かに霊的な探究には、通常の世界から完全に身を引いて隠遁したり、沈黙の行をしたり、修道士になるという伝統があります。また歴史を通じて、修道士(僧)や修道女(尼僧)の禁欲や質素さ、定説、謙虚さ、奉仕、簡潔さを要する霊的な献身生活に、人々は尊敬の念を抱いてきました。ふつうの霊的な探究者でさえ、リトリートに参加したときなど、さまざまな場面において、これらの一部分あるいはすべての要素を必要とします。
・此の世の執着を手放し、誘惑の多い世間から身を引いて、静かで落ち着いたライフスタイルを送ることのできるばよに移ることもよくあります。最も広くかつ基本的な意味において、放棄とは、真理の実現と「神の真実」を遠ざける、あらゆる幻想や障害を捨て去るということです。つまり神に続く道を歩むということは、虚偽を放棄し、愛と平和、神聖さ、思いやり、赦し、慈悲、慈善の道に寄与するということです。
・また、無知の代わりに「真理」を、闇の代わりに「光」を選択し、憎しみ、怒り、プライお、悪意、欲、利己心を放棄するということです。さらに放棄とは、非難がましい二元性の湯涌をしりぞけ、二元論に陥ることなく、”対立する極”という立ち位置の罠から自由になるということです。最もシンプルな放棄は、辞退あるいは余計なものを受け取らないことから始まります。”上昇する”ことは”下降するものと戦う”ことではなく、単にそれ以外のものをしりぞけることにほかなりません。
真実と主観性 7章 自己の根源的な真実
・神秘家に残された”人格”は、実際には非個人的なものです。その対外的な”ペルソナ”は、日常生活の営みに参加している分にはいたって正常に見えますが、実のところはただそのように観察されているだけで、そうふるまうがままにさせているだけです。また、これは義務ではありません。
・それは「自己」の便利な道具、ツールなのです。どの程度参加するかは任意であり、たいていはその時かぎりのものです。肉体と同様に、人格はそれほど重要ではありません。束の間で、気ままで、映画を観に行くような、ついでの行為なのです。映画ではいつ席を立っても自由です。
・参加することが求められれば、ペルソナは現れます肉体と同様に人格も”自己”と同一視されてはいません。それは使い勝手のよい”それ”にすぎません。活動が進行しているときは、ひとりでに人格が関わりますが、気をそらせばすぐになくなります。また、人格が適切にふるまうために、世間のものの見方やそれにどう順応すればよいかに関する記憶を呼び起こしたりもします。
・世の中は取るに足らないものに大騒ぎし、深遠なるものを無視する劇場のようい見えます。したがって、神秘家の発現はしばしば世間と矛盾し、彼らにとっては人生が”こっけいな劇場”のユーモアと化します。そのため、世間では大惨事と見なされる事柄に、神秘家はミステリアスな笑みを浮かべます。これはすべて「真実」と幻想とのギャップによるものです。
・神秘家は本質的な真実に気づいており、霊的な気づきを揺り起こす触媒となるような方法で反応します。「意識のスケール」を上るにつれえて備わるパワーの度合も増えますが、それ以上に重要なのは、レベルごとに代表する特質が変わるということです。たとえるならば、最後尾のレベルの情報が鉛で、最上付近の情報がプラチナであるようなものです。鉛は比較的不活性ですが、プラチナはごく微量でも、何トンもの鉱石の触媒となることができます。
・Q:霊的な情報の意味を理解するのは説きとして困難に思えるのですが。
A:霊的な真理は意味を超えています。それは何も”意味”してはいません。それはただ知られるのであり、しかも、そのものになることによってのみ知られているのです。意味とは、思考や定義の領域にあるものです。霊的な真理は主観的な気づきであり、本質的には知性を超えています。
・たとえば、美しい夕日は何を”意味”しているでしょうか?何も”意味”していません。それはただ、驚くほどにそれ自体で完全かつ完璧です。神は、直接的な気づきであり、経験であり、悟りであり、顕在であり、純然たる主観性の絶対的な完全性なのです。
P190
・Q:「自己」とはどのような感じなのでしょうか?
A:中心であり、確固としていてい、広大無辺かつ不動であり、非局所的、拡散的で、遍在していて、平和で平穏で、心地よく、安全で、非感情的な喜びで、無限の愛であり、保護的で、親密で、安らかで、完全に満たされていて、あまりにも身近な感じです。それは本質の極みであり、究極の”故郷”であり、「真実」と「気づき」の核となるものです。それは、始まりも終わりもない「存在するものすべて」の完全なる<わたし>であり、時間も場所も条件も超えています。
・心地よさ、温かさ、そして、完全で無条件かつ無限なる「愛」の安らかさそのものです。その無条件さは、いかなる痛みも弱さも寄せつけません。あらゆる知的作業、疑問、疑い、言葉、感情を超越しています。それは平和で、静寂で、不動で、深遠で、無限です。まさに神性の特性であり、きわめて自明的で、万物を包容しています。「神の愛とパワー」は同一です。