人は、直ぐに損得、善悪で判断をしようとする。


その損得、善悪は、究極的には、個人の問題であるので、その人間が、生きることとか、人間とは何かということについて、どのように定義しているかによって、それぞれに変わってしまう。


例えば、AIを使うことについて、その奴隷になるのか、手段になるのかは、個々人による。


人類という存在の効率化という点において、得ではあるが、効率化の結果得られる世界が、人類にとって喜ばしい世界かどうかは、人間どのように定義するかによる。


その効率化の結果、人間的な部分を排するのであれば、その理想の世界のほとんどは人間ではなくなってしまうということになる。


誰もがAIが、そう言っているのであれば、仕方がないと疑わないのであれば、そこに争いも葛藤も生まれないある種理想的な世界が生まれる。


それは、人間の「思考」という特徴を効率化🟰外部委託した結果、従来人間的な特徴だった部分の一つを失ったとも言える。


しかしながら、AIはこういう結論を出した、なので、社会的に従うが、自分は「本当はこういう可能性もあるんじゃないか」と思考し、その思考の結果は社会的に決して得られないが、そのような非効率的なことを思考し続けて生きるというのは、とても人間らしいと私は思う。


これは、後悔をしているとか、思いを引きずっているとか、執着しているとかそういう重いものだけではなく(重くなってしまって良いが)、ある種の好奇心のように他の可能性を描き、想像する、思考するという行為が、果たして本当に「損」なのか、はたまた「非効率」なのかというのは、これからくる未来に対して、本来は分からないのである。


思考しているが故に、次の出来事において、スムーズに対応できることもあるし、その対応しているという意識すらなく対応していたということも起こり得る(本人にとってはさして大事と認識されないほどのものになっている)。


もちろん、その時はその時にAIに聞けばよいというのが、それらの世界では定石だろう。


しかしながら、この「思考」を携えた人間と再度AIに聞くという人間は、あきらかに違う『人間』だと言える。


この時、どちらが損な人間だろうか、どちらが良い人間だろうか。どちらが悪だろうか。


また、従来の社会制度で考えてみると、会社における組織という制度もAIに似た部分があるが、それとはどう違うのだろうか。


それは、上司と部下との関係において、命令に対して服従するという関係がある。


これは、AIにおける回答に従うという関係に似ている。


人対人が、機械対人になった。


とすると、今も昔もある種の奴隷(思考をやめ、死なない程度に飼われる状態)の状態にある人間は一定数いたと言える。


現代で言ってもかなり多いだろう。


これは、会社対会社、国対会社の関係でも起きているので、経営者だから違うということにはならない。


ある一定数にとってら、支配者が人から機械に変わるだけで、そのことにすら気付かないかもしれない。収入はすくなかったとしても、その便利さを「良いもの」「得する」という認識でいられれば、幸せとさえ言える。家畜にとって、支配者は誰かというのはあまり重要ではない。鶏や豚は、誰が餌を与えてくれようが、それが出てくれば食べるだけである。


また、人対人と機械対人における主従の関係の違いについては、本来は、その前提が異なるし、もしその前提が機械対人にも生まれることがあるとすれば、それはとても人間的な関係とも言えるのではないだろうか。


その前提とは、『お互いが独立した人間である』という尊敬である。


上記の類似点における前提は、機械と人間との関係における『お互いに独立した人間』という認識がなく、人と人との関係において、人を人として扱わないような関係を前提としている。


ここで、人間とは何かということが問題になってしまうが、分かりやすく言えば、大雑把に『相手にも心がある』ということに配慮できるかということで進めたいと思う。


『お互いが独立した心ある人間』であるという前提における主従関係においては、命令する側も受ける側も過酷な指示に対して、その結果を引き受けることになる。


この行動に対する心の葛藤が、葛藤の違いはあるにしろ、お互いに発生するその作用が、とても人間的であると言いたい。


葛藤というと、苦しいわけですが、ここでの苦しみは、新たなこと、分からないことへの挑戦がほとんどであり、新たな何かを生み出す際の起点となるエネルギーということも出来る。


それが、上司と部下両方で生まれるわけです。


今は、身体(環境を含む)この葛藤に耐えられないという感じでしょうか。


一昔前、みんなできていたからというと、おそらく今と同じく一部の優秀な方しかそういう生き方はできていなかったも思う。できない人はできないという領分を理解していたし、自らの家系に与えられた環境に生きれば、最低限のこと(十分(じゅうぶ))は、達成できる仕組みがあった。

しかしながら、現代は、全ての人が平等であるということになってしまったし、あらゆる情報が解放されてしまったために、地域性があった道徳や仕組みが崩壊してしまった。

隣を見れば、どこまでも青く、また、荒野もみえ、かつての長老、賢老はいなくなってしまった。


これは、ある種の悲観的な作用の見方である。


「過去は良かった」と懐かしさからみるとすれば、みることのできない未来は薄暗く見える。


多面的にみるのであれば


平等になり、情報が解放されてた状態は、『何でも知ることができ、誰とでも出会うことができる』と言える。


これもまた、良くも悪くもあり、損も得もある。


ちゃぶ台がひっくり返った感じ。


かつての人対人との関係にあった人間らしい心の作用は、これから近くの人とだけでなく、遠くの誰かとの間にも生まれ、情報については、主体的に必要ものといらないものを選ぶことになるだろう。


『知らないことの権利』というものが言われるのも時間の問題ではないだろうか。

余分なことを知らせるなということである。


知らないことは、デメリットではなく、メリットになる。


ただこれは、もともとあったメリットにフォーカスされることにより、認識されるメリットに過ぎない。


人間は過去の偉人の話から、これしかできなかった、知らなかったということから、極めて偉人として名を残すほどになった人を知っているはず。


名は残さずとも、職人と言われるひとにこういう人が多いことは知っているのではないだろうか。


情報があることが、良いわけでも正しいわけでもない。

自らの経験と研鑽を伴わないものは、あまり意味がない。


ここで本質的に大事なことは、情報があろうがなかろうが、仕組みや制度があろうがなかろうが、『私にはこれしかなかった』『私にはこれがあった』と掴めるかどうか。

あまりにも平等で情報が多すぎる現代は、目に見えて制限がある過去に比べて、この大事なことが非常に分かりづらく、自分の運命を生きづらくなっているのは、致し方ないだろう。