生まれた言葉をそのままに。


上手く表現できるか分からない。


絶賛、地球にて人間意識にある状況で


見えないところの情報を認識するという


ことに苦労している。


違和感は、以前からある。


この感覚は、もしかしたら皆んなあるのかもしれない。


おそらくはこの世界は、お互いの認識がずれたまま、進んでいくのだと思う。


確かにそこにいる誰かを物理的に認識はしているが、違う世界を生きている。


場合によっては、消えてしまうということも起きている。


消えてしまうというのは、一方的にではなく、双方的に、お互いに起きているとおもう。


会社で退職していなくなるというのが、わかりやすいが、なくなってしまうというのもあるかもしれない。


それは、私の世界からいなくなっただけで、相手は別の世界にいく、その建前が退職という自然な形か、死というショッキングな方法かというだけで、おそらく相手の世界ではまだ続いている。


私の中の可能性の一つが、なくなったという見方もできる。


相手に映る私のエネルギーの反射がなくなってしまった。つまりは、エネルギー的に共鳴する部分のノイズがなくなってしまったようなもの。


これは、物理的に書いているが。


電子的なやり取りにおいても同じ。


少し怖い言い方になるが、電子的なやりとりメールやLINEでの相手が、私と出会った頃の相手と同じという保証はどこにもない。下手したら文字や動画では会えるのに、物理的に会えない可能性すらある。


これは、物理的には共鳴していないが、次元的に共鳴しているという言い方があっているかもしれない。


次元的な共鳴なので、「今」やりとりをしているようで、実は相手の現在にとっては、かなり過去の出来事という可能性すらある。


さあ、何を言っているか怪しくなってきましたね。


続けます。


極論、天動説でも地動説でもその両方が、そうだと思う時代意識によって、形を変えているというのが、真実だと思う。


宇宙に行った人にとって、そこは宇宙であり、地球は丸く見えるなぜなら、そう信じてのぞいているわけだから、当然である。

その宇宙服越しに見えるものが、裸眼で見た場合とどうして同じだと思っているのだろう。

そのレンズの歪みは本当にないのだろうか。


宇宙から地球を見た場合、その距離、範囲はまだ地球のエネルギーの及ぶ範囲だ。もし、その範囲を超えているとしたら、おそらく人間死ぬ。

なぜなら、人間は地球の物質でできている地球のエネルギー(重力)の及ぶ範囲から離れれば、多分体の機能が低下するので、意識が飛ぶ。

その地球のエネルギーの範囲で意識をもって、地球を見るということは、地球圏における人間意識の総体の意識に影響を受けるので、天動説が支持されていればそうなるし、地動説が支持されていればそう見えると思う。


つまり、天動説、地動説はあんまり重要ではない。また、端っこがあろうとなかろうと、その人がいるところが中心であるから、世界の端っこに気づきようがない。

我々は2次元のゲームを俯瞰して見えるから、ゲームマップの世界の終わりを認識してしまうが、人間個々人は、どこまで行っても三次元?四次元にいるので、あったとしても認識はできない。

そのことを考えることは、必ずしも重要ではない。


重要なことは、生まれた血に刻まれた信念体系をセット(体)して生まれてきているということに気がつくこと。


そのセットは、制限であり、同時に可能性である。


何かが定められているという点において、制限であるが、現時点気が付いていないあらゆる能力や経験が刻まれているという点では可能性しかない。


教義の信じるということにおいては、人が他人に対して信じているものは、自らの中にある何かが相手において共鳴し認識できた部分のみであり、その部分が多いことで信じていると錯覚しているに過ぎない。だから、多くの場合、裏切られたとかという話になる。敢えて教義の信じると書いたのは、そういう意味あい。


本来の「信じる」は、そのひとの全てであり、自分が認識できないものも含めて、つまりは都合の悪いものも裏切られることの可能性も全て含めて相手を信じることを言う。


相手の可能性を信じることは、自らの可能性を信じることでもある。


自分のできない何かを体験している誰かは、どう考えても尊く、理解することはできないものであり、それは信じる以外ないと言える。


それは、すべての人に対して言えること。


自らの可能性以外の可能性の体現は、とても尊い。


私にセットされた血にある日本や日本人というものを考えるとき。


どうやっても取り戻せると言う感覚がある。


ただそれがどうやってかというのは、分からない。


少なくとも地球の時代のエネルギーは、変わってきているので。


これまで山を登ってきていたとして、今もう下っていることに気がついていないとしたら、大怪我しかないわけである。


山の登りを⇨大変(ネガティブ)と捉えても良いし、⇨登り調子(ポジティブ)に捉えても良いです。下りを⇨衰退(ネガティブ)、⇨一仕事終わった帰り道(ポジティブ)とどちらに捉えても良いです。


重要なことは、山において、登りと下りては筋肉の使い方や姿勢が変わるということ。


多分もう変わってるのに、いつまでも登っているつもりで歩いていたら、どうなるものか。


違和感に気がつくことの重要性がここにある。


気がついていたら、どんどん行けっていう人もいるみたいですが。


私はまだその辺がよくわからない。



見えない世界の捉え方や扱い方をいままでの思考とは違う方法で認識して、現実化していく。


ここのところがまあ、まだまだ。


という感じです。