例えば私たちの実存を規定する労働と言う概念があります。しかしバタイユはキリストのように、人はパンだけで生きるものにあらず、と言うふうにも考えたのでしょうか。

 例えば企画と言う概念があります。目的を立てて手順を組み立てて最小効率によって最大効果を、つまり最適解を求める方程式です。格段 このように角張った言い方をしなくても、普段だれもがやっている方法です。

 しかし人間の実存はそれに尽きるものではないとバタイユは考えたのでしょうね。

 

 ここまでは誰でもが考える事です。バタイユが違うのは、かかる実存の既成化された路線を汚染された生き方である、と考えた事でした。これはかなり過激な考え方です。

 ここから彼は 私たちの言語や文法 言葉を使って考える過程の自然さと思われる日常的な過程に異議を唱えました。我々は思惟し認識し空想し凡ゆる方位において無際限に考える事ができる❣️と思っている。しかしこの自明さは本当だろうか?

 目的を措定し企画と言うスタイルを無意識に取る限りにおいて、我々は時制という無意識のパターンを身に纏うことになり 真の自由に盲目にさせられているのではなかったか?つまり 我々とは囚人なのであった。


 にも関わらず 私のバタイユについて言いうる事は二つ。

 一つは我々の経験や生き方 凡ゆる思考過程を規定している言語と文法の問題。バタイユの固有の言語批判の動意は理解できるのだが、その批判的言説もまた 彼の所謂汚染された言語によって考えるしかない あくまで我々は彼の言う汚染された言語の範疇で生き死にするしかない と言う事だろう。孫悟空のように!所詮、釈迦の掌の中で生き死にする他はないと言う事だろう?そうすると 彼の言説にはいちいち納得はするけれども、何かがおかしい この人には固有の偏りがある その固有さは何か何処か狂っている と言う気がしてならない。少し言い過ぎかも知れないが!


 また彼はエロティシズムと言うものを、通常の企画型 目的志向型の論理スタイルでは捉える事の出来ない重要項目として考えている。彼のエロティシズムとは、人間的嗜好の禁止❣️と言う項目が加わると そこに魅惑とか蠱惑と言う奇妙な現象が発生すると言うものである。敢えて禁断のものを侵すと言う動意を私たち人間は動意として抑える事ができない 例えばサド侯爵のように!

 しかしエロティシズムとは、目的志向型の論理回路を逸脱した時に生じる一現象に留まるものではあるまい。むしろ彼がエロティシズムなどの超常的振る舞いの対極に据えた日常的諸活動 つまり労働の概念が現実化する過程で不可避的に被る支配と被支配の社会的関係から必然的に導き出されてくる政治的概念でもあるのではないのか?

 私たちは労働に従事する過程において支配-被支配のの社会的関係に巻き込まれる。かかる支配-被支配の関係は、近代以前の社会に於いては生殺与奪の権限を巡る状況下にあった筈だ。つまり生殺与奪の権限を課せられていると言う状況下に於いては隷属する 歓心を飼う 媚びへつらうと言う行動様式の容態がエロティシズムの原型を成しているのではないか。何ゆえ、エロティシズムは背中合わせのものとして死と一体化して現れたかの理由は、一部の訳知りが考えるように性行為が齎す恍惚感にあるのではなく、もっとオーソライズされた普段の私たちの行為に原因があったのではなかろうか。汚染されていたのは我々の思考や論理 言語やその活用法である文法でもなく、具体的な社会的かつ歴史的状況下に置かれた時、労働が不可避的に被らざるを得ない形態なのである。エロティシズムとは、バタイユが考えるような超歴史的概念ではなく、現実の具体的諸関係に規定された社会性としての我々のあり方なのである。

 つまり エロティシズムとは、少しも秘められたものではないのである。あからさまで露骨な支配の政治学の別名なのである。