その日は、雨が降っていた。
昼までは晴れていたのに、夕方になるにかけてだんだんと雲が増し、下校時刻を過ぎた頃には、本格的な雨が降り始めた。
天気予報でもこんなに降るとは言っていなかったので、予想外の出来事だった。
卒業後の進路について職員室に呼び出しを食らっていた俺は、そこを出て、げんなりした。
ブレザーのポケットからスマホを取りだし、雨雲レーダーを確かめる。
しばらく、止まないらしい。
雷も鳴っている。
自転車で帰るのは諦めて、教室へと向かった。
そこには、ずいぶん前から置きっぱなしにしている、折りたたみ傘があるはずだ。
ロッカーの奥に押し込まれていたそれを手にし、生徒玄関へと向かう。
ふと、足を止めた。
今一番、俺の心を揺さぶる存在の、背中が目に入ったからだ。
小柄で、華奢な体質。
膝より少し上に短くしたスカートから、白くて細い足が覗いている。
肩より下に伸びる黒くて長い髪の毛が、外から吹き込む風のせいで、揺れている。
希子だ、と思うけれど、昔のように気軽に話しかけることが出来ない。
入り口で空を見上げるようにして立つ彼女は、傘を持っていないのだろうか。
その背中は、少し憂鬱気に映った。
運動部はもうすでに、室内で筋トレを終えて帰ってしまったのか、校内は割りと静かだ。
遠くにある体育館からは、部活を行っている声は、ここまでは届いてこない。
ザァァッと降り続く雨の音が鳴り響くだけだ。
「希子」
思いきって、その背中に声をかけた。
驚くようにして、希子が振り向く。
「北、」
「今帰り?」
「うん」
「一人?」
周りを見回しても、夏喜の姿はここにはないようだ。
「なんしよったと?こんな時間まで」
「図書室、行ってて。めっちゃ雨降ってきたけん、止むまで待とうかなーって思ったけど、全然止まんけん」
「傘、持たんと?」
「…うん。北人は?」
そこまで言って、気がついたのか、希子は俺の右手に視線を落とした。
そこには、黒い折りたたみ傘を所持している。
ギュッ、とそれを握りしめた。
「これ、使っていいよ」
希子の前に差し出す。
「え、いいよ、北人が濡れるやん」
「俺は、いいよ。チャリで帰るし」
「チャリで帰っても、濡れるやん。この雨だよ?結構遠いやん?北人ん家まで」
「いいよ、はい」
押し付けるように、希子の胸の前に傘を持ち上げた。
「いや、いいって」
「いいけん。希子が濡れる方が、俺は困る」
言ってしまって、かなり恥ずいな、この言葉は、と思ったけれど、取り返しは出来ない。
頬が上気しそうなのを、照れ隠しで目線をそらす。
「私は、…北人が濡れる方が、気になる」
「え?」
視線を戻すと、希子も気まずそうに俯いていた。
「一緒に、使わん?それ」
「俺は、いいけど…いいと?」
「それはこっちのセリフやし。ほんとに、いいと?」
ようやく二人で目を合わせて笑い合った。
雨の中、希子と二人で一つの傘を分けあい、駅までの道を歩く。
傘にはいくつもの雨粒が、ぼとぼとと打ち付けていた。
「さっきよりは、だいぶましになったね、雨」
俺の右隣にいる希子に話しかける。
「うん、そやね」
「なんかさぁ、思い出さん?」
「ん?何を?」
くりっとした吊り気味の希子の瞳が、俺を見上げる。
好きだったなぁ、これが、と思う。
「一年時、部活の合宿で。俺たち、買い出しに行かされたやん?んで、帰りにさ、」
「雨!!降りだしたんよね?」
思い出したのか、途中で言葉を遮って、希子が言う。
「わー、懐かしいー!あれ、もう二年以上前よね?」
「コンビニの袋持ったまんま、雨宿りしたけどさ、全然止まんくて、結局濡れながら二人で走ったな?」
「そうそう、めっちゃ濡れたし。着替えあるけんいっかー、とか言いながら」
あの時は、前の彼女と別れたばかりで、希子のことを女として意識しているわけではなかった。
でも、すごく楽しかったのを覚えている。
もしかしたらあの頃から、俺は希子の事を特別に思っていたのかもしれない。
「懐かしいな」
「うん」
隣にいる希子が笑っている。
それだけで、俺はもう十分、幸せなんだ。
「こないだの、あれさ、気にせんでいいけん」
「ん?こないだのって?」
「いや、忘れて?またみんなで遊ぼ?」
「……」
「希子と夏喜が付き合ってても、俺、別に気にせんけん。また前みたいに、みんなでさ」
「北、」
「冬休みになったら、どっか行こう?とりあえず、カラオケとか?それか…冬の海もよかね?寒い中、バカ騒ぎして。もしくは、自転車で遠出するとか」
「北人、待って」
「卒業までに、いっぱい思い出作ろう?」
「北人、私、…なかったことになんか、出来んよ」
「え?」
雨の音が遮ろうとするのを、俺達の傘の中だけは、籠って、希子の声が聞こえた。
「北人が好きって言ってくれたこと、なかったことになんかしきらん」
「いや、でも、」
「私も、ずっと好きやったもん。北人のこと。嬉しかったよ、こないだ、あんな風に言ってくれて」
ザァァッと、雨音がまた少し激しくなる。
俺の鼓動が、速くなる。
「…でも、今は…」
このまま抱き締めて、希子を自分のものにしたい衝動に駆られるけれど、それじゃあきっと希子を困らせる。
「希子、いいよ。もう今さらやし。今はもう、違うっちゃろ?」
歩みを進めながら隣の希子の横顔を盗み見る。
もう、昔のようにずっと傍にいた頃の、俺が知ってる希子じゃない。
「夏喜にも悪いし。もう忘れよう?」
「……」
カンカンカン、と遮断機の音が聞こえてきて、駅が近いことに気付かされる。
「電車、何時?」
「…多分、もうすぐ」
「間に合いそう?」
「…多分」
俺たちは、駅に向かって歩みを速めた。
「じゃあね」
傘をさしたまま、向かい合って、さよならを告げた。
「うん、ありがとう」
うまく表情が読み取れないけど、希子は、少しだけ口元を緩めて、笑っているようだった。
駅に着いた頃、雨はずいぶんと小降りになっていた。
「これ、持ってっていいよ?俺、だいぶ小降りになったし、もういらんけん」
「大丈夫」
「でも、電車降りてから、歩くやろ?」
「こんくらいなら、平気。駅から近いけん。北人の方が、まだ遠いやろ?」
「分かった。じゃあ」
希子の視線が、一瞬動いた気がした。
どうしたのだろうと、その瞳を覗き込む。
「北、肩…」
「え?」
俺の左肩を指しているようだった。
「濡れとる」
自分でも、首を曲げて左肩を覗き込む。
そうしていたら、希子の白くて小さい手が、その中に映り込んできた。
「私の、せいだよね。私が、濡れんように、してくれとったと?」
俺の右側を歩いていた希子。
濡れないようにと、そちら側にばかり気を配っていた。
自分の左側なんて、どうだってよかった。
「ごめん。…ありがとう」
そんなこと、全然大したことじゃないのに。
好きな女の子を守りたいって思うのは、当然のことなのに、希子は、泣きそうなくらい顔が歪んでいて、消え入りそうなくらいに切ない声だった。
肩に触れていた希子の手が、俺の二の腕にまで下がってくる。
もう一方の右腕も、いつの間にか希子の手に触れられていた。
ギュッと両腕を掴まれたかと思うと、信じられないくらい、希子が近くにいた。
俺の胸に、頭を埋めている。
「北人、ごめんね。ありがとう」
ぽつぽつと雨が残る中、俺は、希子が濡れないようにと、傘で守り続けた。