「愁くん、もう、ここで平気」
家のすぐ傍まで来た場所、もうここを曲がれば細い道を抜けてマンションまで数百メートルだ、といったところで、私は愁くんに声をかけた。
「え、家の前まで送るよ?」
当然のように愁くんは言う。
でも、ここを入ってしまえば主要の道から外れてしまうし、申し訳ないと思ったから。
「ううん、大丈夫、もうすぐそこだから」
「でも、暗いし、街頭とかも少なくない?
大丈夫?」
「うん、ほんとに、ここで、ありがとう」
「そっか、そうだよね。
こんな奴に、家、知られるのも物騒だよね、」
「あ…違う違う、そうじゃなくて…」
慌てて両手を振って否定したけれど、愁くんは斜め下を向き、機嫌を損ねた少年のような顔をしていた。
なんだかもう、優しくて余裕があるのかと思ったら、急に少年みたいにいじけてしまう、二面性を持つ人だ。
それがおかしくて笑ってしまう。
「ほんとに、そういうんじゃないから。
愁くん、家あっちなんでしょ?
もうここでほんとにいいよ、」
先ほど帰り道を歩きながら、愁くんの家はどの辺なの?という話をした。
ここから歩いてそれほど離れていない近所に住んでいるみたいだが、ここからは反対方向になる。
「うん、ごめん、栞さんがそんな人じゃないってことは分かってるんだけど、つい…」
「…うん」
「じゃあ、また」
愁くんが真っ直ぐこちらを見る。
きれいな瞳に、吸い込まれそう。
「また、本返しにいくよ」
「うん。返却期限は、一週間後になっております」
「あ、また仕事の顔だ」
ちょっとふざけて言うと、愁くんも面白がってそう言ったので、二人で笑い合った。
「じゃあ、気を付けて」
「うん、愁くんも」
「さよなら」
「さよなら」
私たちは、恋人たちが別れを惜しむように、後ろ向きで少しずつ後ずさりしながら、手を振り合った。
どのタイミングで振り返って歩き出せばいいのか分からなくなる。
だけどそうしていたら、いつまでも彼の方は背を向けない気がして、こちらの方から体を翻した。
「またね」
とひと言そう添えて。
マンションまでの道のりを歩き出す。
ちょっとだけ名残惜しくなって、もしかしたら、という期待も込めて後ろを振り返ってみたけれど、彼はやはり元来た道をそのまま直進したのか、私が進んだ道からは視覚になって、もう見えなかった。
自分の家に入って、「ただいま」と声をかける。
当たり前だけれど、もちろんそこには誰もいない。
暗闇に包まれたリビングが広がるだけだ。
先ほどまでのふわふわ浮わついた空間からは程遠い、寂しい場所がそこにはあった。