昨日は建部大社を参拝し、コッペパンのランチを食べたことを記事にしました。
続いて向かったのは、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回(4月24日)放送最後の紀行コーナーに登場した義仲寺(ぎちゅうじ)。
頭には残っていて、いつか大津市に行ったら寄ってみたいと思っていて今回やっと行けました。
名前からもわかる通り木曾義仲(よしなか)ゆかりのお寺なのですが、こちらは「ぎちゅうじ」と言うそうです。
拝観料をお支払いして境内へ。
義仲寺は天台宗系単立寺院で、山号は朝日山、御本尊は聖観音菩薩。
現在はお寺とは言っても住職などがいるわけではなく、境内全体が国の史跡となっています。
源義仲(木曾義仲)は源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたり、『平家物語』に於いては朝日将軍(旭将軍とも)と呼ばれています。
粟津の戦い(現:滋賀県大津市、寿永3年1月20日(1184年3月4日)で頼朝軍に敗れ討ち死にした義仲を、側室であった巴御前が供養したことに由来するそうです。
別名:巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺など。
境内はどこでも撮影可とのことでした。
本堂の朝日堂
ご本尊の聖観世音菩薩像の周りにいくつもご位牌が並んでいました。
左側一番奥の真ん中のが義仲のご位牌で、その右側が義仲と木曽で一緒に育った今井四郎兼平のご位牌だそう。
兼平は巴御前の兄でもあり、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害したそうです。
兼平は巴御前の兄でもあり、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害したそうです。
右の箱に入っている木造は普段は非公開ですが、義仲の命日には公開するそうです。
木曾義仲公墓
義仲の供養塔はいくつかありますが、お墓はここにあるとのことでした。このお墓は首から下の胴塚で、首塚は京都の八坂神社近くの法観寺にあるそうです。
2歳の時に父が撃たれた義仲(その当時は駒王丸)は信濃国木曽谷(現:長野県木曽郡木曽町)に逃れ、木曾義仲と呼ばれるようになったそう。
2歳の時に父が撃たれた義仲(その当時は駒王丸)は信濃国木曽谷(現:長野県木曽郡木曽町)に逃れ、木曾義仲と呼ばれるようになったそう。
現在木曽に霊廟はありますが、あくまでも正式なお墓は大津のこちらになるので、命日に子孫の方達が集まるそうです。
今も子孫がいらっしゃるとは驚きました。
主人の御朱印↓
芭蕉は40歳のときに初めて大津を訪問し、その後亡くなるまでの10年間に8回大津に足を運んだそうです。
その際は必ず義仲寺に泊まったんだそうですよ。
その際は必ず義仲寺に泊まったんだそうですよ。
またいろんなお土産もあって見どころ多いお寺でした。
この日は最初に、逢坂の関に寄っていました。
山城国と近江国の国境に設けられた関所で、都から石山詣に向かい際には必ずと言っていいほど通る関所だったそうです。
古くから和歌などにもよく歌われていて、紫式部は源氏物語の「関屋」の中でこの地を舞台として登場させています。
天禄元(970)年に藤原道綱母が逢坂越を通った際休憩した事が蜻蛉日記に記されていて、応永25(1418)年に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録があるそうです。
近くの蝉丸神社にも寄りました。
今日から3月、毎日本当に早いですね~
今月は色々予定がありハードな月になりそう、より一層1か月間早く感じるんだろうな
その分パートはお休みすることが増え、超過時間が清算出来るかなと思っていたのですが…
昨夜社員の外国人の子からLINEがあり、自分がお休みする予定日の連絡があり「人が足らないだろうから出勤お願いしたい」と予告があり
引っ越しする子が2人辞めたので今後ディナータイムに入ることがちょこちょこありそうで、朝方人間の私はちょっと面倒ですが、頑張るしかない。
人が3人入ったので続いてくれるといいな~