金沢から大阪に引っ越す前、金沢城に行っていました。
それまでも何度も行き記事にしていましたが、出来る範囲で一通り巡ったので、ここで記事アップしたいと思います。
金沢城についてじっくり記事にしたかったので、結構写真を撮影していたのと、記事を書くのが大変でなかなか進まず、またこれで金沢の記事が終わるのが寂しくて伸び伸びになっていました。
今考えると、あの規模のお城が歩いて行けることって贅沢なことだったなぁ~って思っています。
この日は大手門口から入りました。
大手門前のお堀は、埋め立てられずに残った大手堀。
かつて金沢城には百閒堀・白鳥堀・大手堀・宮守(いもり)堀と言う4つのお堀があり、その後埋め立てられなかったのは大手掘のみで、他3つのお堀は水が抜かれ道路となったことは、以前白鳥路のことを記事にした時に詳しく書きました。
この場所はかつて、津田玄蕃邸が建っていたそう。
明治になり金沢医学館(後の金沢大学医学部)として使われたりしましたが、大正12(1923)年に兼六園内に移築され、現在は金沢城・兼六園管理事務所分室として使われています。
津田玄蕃は加賀藩家老だった人物で、1万石を領したそうです。
先日記事にした、大阪府豊中市を治めた麻田藩青木氏も1万石でしたが、津田玄蕃は家老で同石高とはすごいですね~
ですが、加賀藩直臣の最上級藩士加賀八家のうち、最高石高を有していた本多家は5分石だったのですから、桁が違う
さすがの加賀百万石ですね
では、金沢城跡地に入ります。
現在は金沢城公園となっています。
天文15(1546)年に空堀や柵などを備える城造りの寺院である尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆の拠点となりました。
一向一揆は織田信長と対立し、大坂の石山本願寺が降伏すると天正8(1580)年に佐久間盛政が尾山御坊を陥落、修繕後金沢城と改めました。
その後尾山城となり、再び金沢城と改称されたそうです。
巨石が見えますが、鏡石と呼ばれ、一般的にはお城の正面に用いられました。
金沢城の石垣の中で最大の石だそうです。
新丸広場の奥に見えるのは、菱櫓。
新丸にはかつて藩の重臣のお屋敷が建てられ、戦時にはこの場で防御できるように考えられていたそうですが、藩の役所が増え、重臣の数も多くなるとこの場所だけでは狭くなり、 重臣のお屋敷は城外へ移したそう。
その後空き地となったここに細工所を設け、 甲冑、大小刀、弓矢等の修理や製造も行い、多くの細工者を集めたそうです。
その後空き地となったここに細工所を設け、 甲冑、大小刀、弓矢等の修理や製造も行い、多くの細工者を集めたそうです。
河北門
三の丸の正面が河北門で、大手筋の要所を防御する重要な門だったそう。
橋爪門・石川門とともに三御門と呼ばれ、いずれも四角い広場を内と外の門で厳重に固めた桝形門形式の門となっています。
金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)で焼失。
金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)で焼失。
安政元(1772)年に再建され、明治15(1882)年頃まで存続していた門を多数の資料に基づき再現したものだそうです。
真ん中の間を通れる門が一の門、右がニラミ櫓台、左が二の門と言う構成になっています。