捨てるということ。 | 神様との奇跡の出会い

神様との奇跡の出会い

全く霊感もオーラも見えないただの人間が、半分スサノオさまが入った師匠との出会いを振り返り、私に起こった奇跡を書いてみたいと思います。

いきなりアクセスが90近くになって驚きました。みなさん、ありがとうございます。

ピョンチャン冬季五輪で羽生結弦くんが、金メダルのために「あらゆるものを捨てた」と言っていたことがすごく印象に残りました。自分にとって贅沢な時間だとか、物とか。欲とか。ストイックに「捨てた」結果、大きな結果を得たのだと思う。

 この「捨てる」ことの大切さを今日、身をもって痛感した。

香取神宮の奥の宮で、息子の合格祈願をして自分的には満足していた私だが、昨日、最も行きたかった志望校が軒並み不合格となった。

息子、昨日、今日、布団から出られず、暗闇の中で泣いていた。現役でいともたやすく息子の行きたかった大学に入ってしまった幼馴染もいて、悔し涙が止まらなかった。部屋を暗くして、すすり泣く姿に、思わずこちらも泣けてきた。

 でも、実は「これはとてもいいこと」と師匠はいう。「ここで、つまづいたことで、大きな勉強をしたんだ」というのだ。

 その意味が分かった。実は息子は、滑り止めの大学は受かっている。すごく地味な大学だが、歴史はあるし、彼の学びたかったものが学べる。でも、そこは息子の高校からすんなり推薦で入れてしまう大学。推薦で入ってしまった友は多く、「なんで浪人までしてここに行かなくてはいけないんだ」と嘆いていた。

 その大学は、自宅から南西の方向にあり、師匠いわく「裏鬼門に当たる。これは勉強するにはとてもいい」らしい。

 そして師匠は、息子との会話の中で、息子の心にささっていたとげの正体を突き止めた。それは「見栄」だ。少しでもブランド力のある、名の通った大学に行きたい。そのほうが友達もいいし、教授陣もいい。そう考えたらしい。さらに「自分はずっと自己肯定感を持てなかった。だから勉強して自己肯定感を持ちたかった」というのだ。確かにそれも一理ある。

 でも、本当に名の通った大学だから、いい教育を受けられ、いいところに就職して、いい人と結婚でき、幸せな人生を送れるのか。

この構図はとっくのとうに崩壊している。東大に行ったって、使えないやつは使えない。要は大学ではない。人間としての生き方だ。

 世間を気にしたり、変な見栄を張るのをやめたら、私自身、すごく楽になった。息子は息子の世界があるし、大学の名前以前に、大学で何を学ぶかだ。何を考え、どう行動するか、だ。ブランドのバッグを持つように、自分の子供の進路を親が決めてしまう人もいる。

 それで果たして、子供は幸せだろうか。本当の幸せは、自分の人生を自らで考え、自分らしく歩くことではないか。

 今もまだ、息子は自室にこもって布団をかぶっている。いつか、その布団を出て、自分らしく堂々と自然体で生きてもらいたいと思っている。

 そして余計な見栄を捨て、物事の「本質」を見つめることができる人でありたいと私は思う。