「陰翳礼讃」 | 晴走雨読な日々〜Days of Run & Books〜

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晴れた日は山に登り街を走り、 雨の日は好きな音楽を聞きながら本を読む
そんな暮らしがいい!

ある新聞のブックレビューでこの本の存在を知って、居ても立っても居られずに本屋に買いに出かけました。

 

最初の書店では在庫切れ(←新聞書評が出た後ではよくあること)、その次の書店ではなんと文学の棚ではなく、写真集の棚にありました。

 

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「陰翳礼讃」(いんえいらいさん)というのは、言うまでもなくあの谷崎潤一郎が書いた随筆の白眉とも言える作品です。文章だけなら手頃な文庫本などでも読むことができますが、今回手にした本が他と違うのは、その谷崎の名文に合わせて撮られたたくさんの写真が同時に収録されているからなんです。

 

谷崎純一郎の文章のうまさは、今更私が言うまでもないことですが、久しぶりに彼の本を読んで改めてその思いを強くしました。そんなに難しい言い回しはしていないのに、その文章に著された内容はとても深く、句読点の打ち方がまた絶妙で、読み手の呼吸に沿った流れを作っています。

 

「陰翳」(陰影)とは薄暗い影のことですが、日本人がいかにその薄暗がりが好きなのかと言うことを、いろいろな場所や例えをあげて書かれたものです。読んでいくうちに、若い時にはなんとも思わなかったそういった影の美しさの描写に、うなずくことが多くありました。

 

彼の描く日本の美学は、時代と国境を超えて、今でも日本人はもちろん海外の人々をも魅了しているといいます。

 

そして、文庫本にはないこの本の一番の特徴である写真の数々。(私は写真には疎いので知らなかったのですが)大川裕弘さんという有名な写真家が、京都の有名旅館や奈良のお寺、地方の旧家などで撮った百点を越す写真が、谷崎の名文に合わせるように差し込まれています。

 

例えば、京都市内の鉄斎堂で撮られたこの写真の横には

 

谷崎のこんな文章が。

 

われわれの座敷の美の要素は、

この間接の鈍い光線に外ならない。

われわれは、この力のない、

わびしい、果敢ない光線が、

しんみり落ち着いて座敷の壁へ染み込むように、

わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。

 

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「陰性礼賛」で谷崎が最初に取り上げられるのは厠。古来の日本建築の厠の造りから始まり、灯や和紙・筆、食器に話が及びます。

 

唐紙や和紙の肌理を見ると、そこに一種の温かみを感じ、

心が落ち着くようになる。

西洋紙の肌は光線を跳ね返すような趣があるが、

奉書や唐紙の肌は、柔らかい初雪の面のように、

ふっくらと光線を中に吸い取る。

 

その後は、日本建築と西洋建築の違い、障子や床の間の光の取り入れ方についての、彼の知見が披露されます。

 

思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは。

かくの如き暗がりが持つ

不気味な静けさを指すのであろう。

 

古来の襖や屏風の背景や、能や歌舞伎役者の衣装に金が取り入れられているのは、暗がりの光が少ないところでも明るく見せるためだという説明には、なるほどと納得。

 

もう全く外の光が届かなくなった

暗がりの中にある金襖や金屏風が、

幾間を隔てた遠い遠い庭の明かりの穂先を捉えて、

ぼうっと夢のように照り返しているのを

見たことはないか。

 

その他にも日本と西洋の文明比較論とも言える記述がたくさんあり、明るい照明に慣れてしまった我々に、日本人が昔からいかに「陰影」をうまく取り入れて生活してきたかを改めて知る内容になっています。

 

美は物体にあるのではなく、

物体と物体との作り出す陰影のあや、

明暗にあると考える。

 

光線が乏しいなら乏しいなりに

却ってその闇に沈潜し、

その中に自らなる美を発見する。

 

読み終わって、彼のこの言葉を実践してみるのもいいかもしれませんね。

 

まあどう云う工合になるか、

試しに電燈を消してみることだ。