
2011(平成23)年。忘れもしません「東日本大震災」が起きたあの年。社労士事務所を開設して20年の記念すべき年でもありました。
かつての職場、農業協同組合の上司Aさんが市役所の福祉課長を伴って来宅しました。このときAさんは『保護司』をやっていました。
Aさん「野村にお願いがあるんだ。保護司をやってもらいたいんだ」。
社労士事務所を開業して20年。ここまでやって来れたのも「社会」のおかげ。なにか世の中にお返しを、と思っていた矢先でした。でも、まさか保護司とは思っていませんでした。
保護司については人づてには聞いていましたが、詳しいことまではわかりませんでした。Aさんはこれまでの経験談を分かりやすく話してくれました。
「興味はありますが、家族と相談させてください。」
まず、妻に相談しました。妻は「趣旨はわかるけど、家族を危険に晒さないか心配。」と、率直な気持ちを話してくれました。
そこで私は「保護司がお世話させて頂くのは、刑務所や少年院を『仮出所』という刑期が終わる前に出てくる人たち。いわば『模範囚』ばかり。犯した罪を反省して真剣に立ち直ろうとしている人たちなんだ。」と妻の不安を取り除くことに努めました。
「貴方にお任せします。」
それから一定期間が過ぎ、法務大臣の委嘱状(写真)が市役所の福祉課を通じて交付されました。と、同時に『新任保護司研修』の通知を受け取りました。
私は社労士を生業としているので「民事法」や「社会労働行政関係法」については馴染みの深いところですが「刑事法」についてはまったくの素人です。
この研修を受けて、少年審判と刑事処分の違いが理解できました。それまでは、「少年院」と「少年刑務所」の違いもわかりませんでした。
保護司になってからは、テレビや新聞が報道する「事件」についても強く関心を持つようになりました。
最初に訪れた刑事施設は、首都圏の某少年院です。仮出所(仮退院)間近のA君の出所後の「生活に対する決意」を確認するのが目的でした。
元気なA君と接することができ、確かな意思も確認できて安心しました。
保護司は保護対象者と原則月2回『面接』を行います。面接会場は基本的に「保護司の自宅」です。何回か面接をしているうちに「妻」が助けてくれるようになりました。
少年事件の場合は、ときには「母」に、ときには「祖母」になって少年の話を聞いてくれます。こんなときは「この子の家庭でもこんな会話ができていたら事件に巻き込まれないで済んでいただろうに…。」と思うこともしばしばありました。
こんなこともありました。30代の母親。小学生の女児が2人いました。刑期は5年ですが3年で終えて仮出所で私の所へ来ました。
「刑務所にいる間、子どもたちとはどんな関係でいたの。」と妻。彼女は「重い病気で入院してる」と夫を通じて子どもたちに伝えていた、と答えました。このときの彼女の目にはキラリと光るものがありました。「女同士の心」が通じたんだな、と思いました。妻に助けられました。
遠方の刑務所にいる息子の面会に行った母親が「お土産」を買ってきてくれたこともあります。保護司は「非常勤公務員」ですが、社会儀礼的なお菓子なら頂いてもいいだろうと、勝手に解釈しました。
また、こんなことも。保護観察中の50代の男性。観察中に再犯してしまいました。家族の元に警察署から電話。「うちの留置所にいます。」お父さんからの連絡を受けて直ちに件の警察署の留置係に電話。面会の承認を得て現地に向かいました。
面会室で「面会板」を挟んでの対面。テレビドラマで見る「あのシーン」です。
指定のイスに座るや否や「ばっかもん。なにをやってるんだおまえは。」彼は、ただただうなだれるばかり。しばらくして「申し訳けありませんでした。」の言葉を残して「手錠」姿で留置室に戻っていきました。彼が再び刑務所の門をくぐって行ったことに間違いはありません。
まだまだ思い出はたくさんあります。言えることは「社労士」の業務と「保護司」の仕事は「相通じる」ということです。どちらも「生身の人間」を相手にします。ですから、社労士の業務で保護司の経験が、保護司の仕事で社労士の経験が大いに役だってきました。
保護司の任務は2027(令和9)年の5月24日で「定年」により終わります。あと一年です。残された一年間を意義ある一年にしたいと思っています。
社労士は自営業なので定年はありません。どこまで続けられるかはわかりませんが、5年毎の「法定講習」を修了しさえすれば「知力」「体力」「気力」が健全である限り続けることができます。