ノムサンの気まぐれ日記

ノムサンの気まぐれ日記

特定社会保険労務士です。趣味はクレー射撃とドライブ。最近アマチュア無線を始めました。JL1GUD。
仕事のこと、趣味のこと、気になる時事問題などを「気まぐれ」にアップしています。

 



 私の母は私が12歳、小学校6年生のときに旅立ちました。40歳でした。


 その日は、日だまりの恋しい真冬の昼前でした。3時限目か4時限目の授業中だったと思います。先生が突然「野村くん、帰りの支度をしなさい」と言ったのです。間もなく近所の自転車屋のおじさんが「自転車バイク」(自転車に草刈り機のエンジンのようなものを積んだもの。原付自転車の原型。)で迎えに来てくれました。


 おじさんはただ「母ちゃんが大変なことになった。」と言うばかり。私は、なにが起きたのかわからないまま自転車バイクの荷台に乗せられ砂利道をガタガタ揺られました。


 家に着くと、母は胸をはだけられて医師の診察を受けていました。まもなく医師は「ご臨終です。」と低い声で呟くように告げました。


 それでも、なにが起きているのかまったくわかりませんでした。


 その日の朝。母はいつものとおり、ガーゼにくるんで弁当用に炊いた「白いご飯」が詰められた弁当箱をランドセルに入れて送り出してくれました。おかずは卵焼きか焼き海苔が多かったように思います。


 当時、純粋に「白いご飯」を家族揃って食べられるのは盆と正月くらいでした。普段は、押し麦と白米の「混合飯」。白米は「供出」と言って、強制的に政府に買い上げられていました。


 自分の田んぼで採れたからと言って自分の自由にはならなかったのです。いま思えばおかしな話です。


 我が子のお弁当用の「白米」をガーゼに包んで「混合飯」と同じ釜で炊く。いま思えば「母の知恵」だったと思います。


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 それから、納棺、通夜、告別式、埋葬と目まぐるしく日々が通り抜けました。それでも涙は出ませんでした。ただ、棺が墓穴に沈められたときだけ「かあちゃ〜ん‼️」と大声で叫んだことはいまでも鮮明に覚えています。当時は「土葬」でした。


 死因は「狭心症」と記憶していますが、母の白い胸が紫色に変色していたので、いま考えると「心動脈の破裂」だったのではと思っています。


 お医者さんは村に一人だけ。しかも往診は自転車です。救急車なんて「き」の字もありません。電話も村の商家に数台だけ。体の変調の察知からお医者さんの到達まで相当の時間を要したはずです。


 今の時代なら、母は助かっていたかも…。なんどそう思ったことでしょう。40歳の誕生日は1月。その翌月の2月に逝ったのです。40歳の時間を過ごしたのはたった1ヶ月だけでした。


 肖像画の元になった遺影が撮られたのは私の小学校の入学式の記念撮影です。逆算すると34歳のときのものとなります。歳より老けて見えます。「若い頃から苦労したんだなぁ」と思い、悲しくなりました。


 あれから65年。私は「喜寿」を迎えました。自分の子ども達が「成人」を迎えることもなく、まして「孫」の顔をみることもなく、母は逝ってしまいました。でも、母は「永遠に40歳」です。私にとっての母は、いつまで経っても40歳のまんまです(^.^)。


 私は伴侶に恵まれ、二人の子どもと二人の孫も授かりました。子ども達はそれぞれが「マイホーム」を持ち「愛娘」にも恵まれました。ことし、上の孫ちゃんは「社会人」に、下の孫ちゃんは「大学生」になりました。


 私は「幸せ者」です。それもこれも「源流」は「母」です。


 あと三年で母の年齢の2倍、80歳になります。母の分も生きる積もりでこれからの人生を楽しみたいと思っています。「ありがとう母ちゃん。母ちゃんのところには、まだまだ行かないよ。行けないからね。」(;^ω^)v。