茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第9節を掲載致します。
 
第9節: 将門の羽鳥攻め
新皇将門 ⑨(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

将門の羽鳥攻め承平7年(937年)10月
   1ヶ月ほど経つと将門の病気も良くなってきた。将門は卑劣な良兼を何としても討って「君の御前や子供達ち」の恨みを晴らさねばと千八百人の兵を動員して平良兼の館「羽鳥の館(桜川市真壁町羽鳥)」を目指した。なお、七百の兵を石井の営所に残して、弟たちには留守を頼んだ。
   将門の軍が真壁郷に入ると、将門は兵たちに「良兼伯父や源護に与力する郎党の舎宅は全部焼け、抵抗する者はたとえ農民でも殺せ。」と命じた。そして「暴行、略奪は思いのままにせよ。」と告げた。そのくらいの事をやらなければ飯沼(猿島郡葦津江)で受けた自分の家族の屈辱が晴れなかった。
   騎馬隊は一斉に火を放ち始めた。将門軍が攻めてきた事を知った良兼はたちまち恐れ怯え顔色を変えた。そして、良兼は一矢も交えずに筑波の弓袋山(湯袋峠)に逃げ込んだ。将門は後を追い山狩りをしたが良兼は逃げ廻り容易に姿を現さなかった。
   峠の谷は防御には最適の場所であり、うかつに将門軍が攻めようものなら四方の尾根から射ちすくめられてしまう。将門は良兼軍が弓袋山から出てくるのを何日も待ったが良兼が出てくる様子も無く将門軍の中に苛立ちが出始めた。いつまでもこんな事をしていては自軍の戦意が衰える事を懸念して弓袋山から引き上げた。
   将門軍が引き上げたのを知ると良兼はやっと弓袋山から出たが、焼かれ、追われた恨みから都の朝廷に訴え出たのであった。その頃、九州や瀬戸内で南海の海賊の反乱が続いていて「都」では警戒態勢に入っていた矢先でもあり、この上、東国で騒乱を起こされてはたまらないため良兼の訴えを聞き入れ、朝廷は事実を確かめるために官史を東国に差し向け事実を確認することにした。
   今回の戦いは将門の方から仕掛けたとあって「都」の上層部は良兼に味方をし、年の暮れに出されたのは将門に対する追捕令であった。
この春の訴訟では、将門が勝訴となって帰郷したばかりなのに。この追捕令に対して将門も「都」に対する不審の念が湧いた。

子春丸の手引きで石井の館を夜襲
   将門の討ち取りに執念を燃やしている良兼は兵具の置き所、将門の寝所、馬場のようす、出入り口など将門の新しい石井の館の構えを知りたがっていた。
そこで、将門の家来の一人(丈部子春丸)を捕らえて来て、苦役を除いて郎党頭にする事を条件に、良兼に石井の新館の構えやようすを教えてしまった。
   正面からの合戦では到底かなわないと判断し、不意打ちの夜襲を狙うことを目論んでいた。石井までは十数里の道のりであった。 

承平7年(937年12月)
   良兼は自分の兵の中で優れた猛兵を八十数人集め石井に夜襲を掛けた。その頃、将門の兵の大部分が帰農していて将門の石井の館には十数人の兵しか置いていなかったのであったが将門は夜襲を知るやその十数騎を指揮して良兼軍に突進していった。
   良兼の夜襲を直前に知らせたのが「結城三郎?」もしくは「坂田時幸?」という将門方の小豪族であった。三郎はただならぬ馬蹄の響きで目を覚ました。三郎、(時幸)は良兼軍の味方のようなふりをして駆け抜け、まっしぐらに走って将門の「石井の館」に良兼の急襲を告げたのだった。
     夜が明けかかった時には、良兼軍は館を取りまいていた。将門は館に留まっていたら火矢を打ち込まれ館は炎上すると思い、その前に自ら攻撃軍に突入していった。
   少数とは言うものの将門軍は夜叉のごとく暴れまくり、あっと言う間に敵兵三十人程を討ち取った。それを見た良兼は生命の危険を感じ十数騎に囲まれて敗走せざるを得なかった。夜襲は失敗に終わり、この時も将門を討つことが出来なかった。
    子春丸は、良兼に通じていたのが将門に分かり、「有終の美」を飾ることなく、翌、天慶元年(938年)の正月3日、将門の言いつけで、その郎党に殺された。この夜襲の失敗以降、平良兼の勢力は衰退した。
    将門の方は良兼の夜襲を一蹴してから、各国の国司は武人として将門に尊敬を払い、農民達は遠近を問わずに将門を神のように崇めるようになった。
れ以降、良兼の勢力は衰退し天慶元年(938年)6月に病没、没後朱雀天皇により寛朝僧正が派遣された。貞盛は、叔父良兼が病没し一族の後ろ盾を失い貞盛は不評で影が薄くなっていた。父.国香の後を継いで常陸の大掾職にはなっているが、将門への嫌悪の情が益々深まり悶々として連日塞ぎ込んでいた。

次回の第10節へ続く。-

2025年(令和7年) 6月04日    森 田 衛 (神栖市)
県立歴史館「常陸平氏」企画展について5月23日の読売新聞茨城版に掲載されておりますので紹介します。
 

また、同館発行の「常陸平氏をさぐる」の資料に「島崎氏関連の文化財」が掲載されておりますので紹介します。


茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第8節を掲載致します。

第8節: 子飼いの(小貝川)合戦
新皇将門 ⑧(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

子飼いの(小貝川)合戦 (承平7年(937年)8月)
   良兼は、源氏と貞盛の兵を併せて羽鳥の館を発った。総勢千余人を率いて常陸国と下総両国の境にある子飼いの渡しに向かって進んだ。将門が「都」より戻り50日ばかり経った承平7年(937年)8月のこととであった。将門がこの情報を耳にした時は嫌な顔をした。なぜなら、「都」で一連の取調べが既に終了して正式な判定が下されたのだからこれで良兼叔父や源氏の源護も納得し、今後は一族間での争いはなくなると将門は信じていたからである。
   一方、良兼は、将門が無罪となって帰郷したことに対して腹の虫が治まらないでいた。一族の長としての恥辱をそそぐため、帰郷後静かにしている将門を何が何でも討ち取ろうとする良兼の執念で攻撃の準備していた。
   将門としても、このまま指を食えて待っている訳にも行かなくなり、応戦せざるを得なくなった。しかし、将門は「都」から戻った後はもうこれ以上の合戦をするつもりは無かったので館には用心のために残した三百人くらいの兵しか置いていなかった。将門はその兵を率いて出陣した。
   良兼は過去、将門との数多くの合戦に敗退していたため将門の弱点はどこにあるのかを研究していた。その答えは奇想な戦法のものであった。それは、将門は先祖に対しては深い敬愛の念を抱いている事を利用したものであった。
先祖の霊像「故上総介高望王」「故鎮守将軍良将」の木像を攻め入る将門軍の前面に出すものであった。(木像戦法)
   両者は子飼い川を挟み対峙していた。将門はそれを見てハッとした。その時敵中からゆうゆうと馬上で姿を現した良兼は、「将門よ。この像に歯向かうことが出来るか。」射られるものなら射って見ろ。この戦法は、現代で考えるとマンガみたいな話しであり、実際にあったものかは疑わしいが、当時の人々がみな霊魂の不滅を信じ、祟りを恐れていたことを物語るものでもある。
   将門は「この卑怯者め」と川の中に馬を進めた。弓の矢ごろに着くと将門は弓を引き絞った。このまま弓矢を放てば確実に木像に当たるのだが、将門はわざとはずした。
   放った矢は空を切り木像の頭すれすれに飛び去った。同時に良兼軍の兵から将門を目がけて4、5本の矢が放された。将門は無念ではあったが馬首をひるがえし退却した。
   良兼軍は将門と対等に合戦したら勝ち目がないと思い将門の館までは攻め込んで行かなかったが、将門の領地の豊田郷内を思う存分荒らしまわり、その日は引き上げた。
   そのため将門の本拠は無事だったが、一夜のうちに将門の領地の豊田郷一帯は無数の焦土を多数作った。将門は、馬であちこち見舞って歩いた。その惨状を目で見、耳で聴いた。去年、敵地に駆け入ったとき、将門が敵へ与えたとおりの狼藉、掠奪、破壊の惨害が今日は将門の領内下で行われていた。合戦で敗れたことの無かった将門の初めての敗北であった。
   良兼軍が引き上げたと言っても筑波の麓に引き上げた訳ではなく、野毛(鬼怒川)堀越の渡しの対岸に陣を構え様子を伺っていた。

堀越の合戦 (937年8月)
   郎党や馬を休めた10日ほど後、将門は鎌輪の営所で作戦を練ると同時に兵を集めさせ五百人ほどの兵を集めた。その内の百人あまりを館に残し四百騎を率いて堀越の渡し付近に埋伏(隠れれ潜む)した。この日、鳥羽の良兼が先日の奇襲に味をしめて再び豊田郷へ攻めてくるという情報が前日にあったためである。
   良兼軍の陣に近づくと一斉に攻めかかった。もう少しで敵陣が崩れ去るところで将門は一瞬目がくらみ落馬した。当時、将門は身体がむくみ動悸もしていた(脚気)に冒されていたのであった。
将門の落馬を見た良兼軍の中から「将門が矢に当たり死んだぞ。」と声が響いた。
   形勢逆転の瀬戸際とばかり敵は猛然と攻撃に出てきた。将門の周囲にいた五・六騎が将門を馬上に救い揚げ全速で敵陣から抜け出した。
積極的に、ここまで敵を迎え撃ちに出陣しながら、将門軍は再びみじめな退却を余儀なくされてしまった。

豊田郷一帯が火炎に包まれる
   一方、叔父の良兼の方は、今日こそ「将門の首」を捕る勢いで将門の本拠地豊田郷へ迫った。一の柵に火が付き、二の柵門も、館の正門も炎に包まれはじめた。東西の柵門から母屋下屋まで火の手は大きく廻っていた。
父の良将(良持)が生涯をかけて、土とたたかい、四隣と戦って築き残したものも今や灰燼に帰した。
   館に戻った将門は一時兵を散じてそれぞれ身を隠し再挙を図る事を決意した。このままこの館で立て篭もってもいずれ襲撃して来る敵を迎え撃って勝ち目は無いと考えたからであった。将門は十五・六人の郎党を付けて「君の御前」、「桔梗の前」、子供たちを広河の江(飯沼)の江に隠し潜むように命じ、将門は山麓に横穴を掘り、穴の口に丸太を組み、木の皮で屋根を葺いたような小屋が当面の隠れ家だった。
   家族たちは七・八隻の船に家財を積んで分乗し辛島郡(猿島郡)葦津江の繁茂した葦の間に身を隠した。
   しかし、良兼軍の残兵に発見され、承平7年(937年)8月19日、襲撃されて芦津江のほとりで殺された。護衛の郎党たちには何本もの矢が刺さり、女たちも切り殺されて財宝を持ち出されていた。ところが、その場にいた桔梗の前だけは私は良兼の娘だと言いこの惨事から逃れることが出来た。
   将門が話を聞きつけて駆けつけた時には既に飯沼は周り一面が血の海となっていて郎党の死骸は見つかるものの「君の御前」と子供たちの姿を見つけ出すことは出来なかった。良兼軍の襲撃の惨事を哀れ見て桔梗の前が「正室の君の御前」と子供たちをその河原に密かに埋葬したというのであった。
   その後、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、「深井地蔵尊」ではないかといわれている。「深井地蔵尊と将門妻子受難:坂東市沓掛」
   叔父の良兼は、筑波羽鳥の自分の留守が不安になり、ひとまず羽鳥へ引き揚げていった。かんじんな将門を捕り逃がしたことは、良兼にとって、なお一抹の不気味を残していたに違いない。
   そして、姿を隠していた、三郎将頼や四郎将平たちは、叔父の良兼軍が筑波に引き揚げて行った事を知ると豊田の焦土へ帰って来た。しかし、子飼、堀越の両合戦の敗北で味方の兵は半分以下にも減っていた。
   このことが諸国に聞こえると、かえって、以前の数を倍するほどの人数が豊田郷に集まってきた。三郎将頼と四郎将平は、ひとまず、石井の柵を広げて石井に立て籠もった。

将門の堪忍袋は「ズタズタ」、怒りは頂点に
   やがて将門も石井に帰って来たが、この子飼、堀越の両合戦の敗北から将門の性格が一変した。 惚けた顔つき、うつろにしていることがあるかと思うと、些細な事で急に激怒したりするようになった。たぶん、将門の心身の中は、怒って、怒って、堪忍袋など「ズタズタ」になっていたのであろう。心身だけでなく将門の相貌までが違ってきたと誰もが思えた。
   今日までは、常に受け身に廻り、売られた喧嘩をして来たが、これからは俺(将門)から戦いを布告してやる。そこまで怒りが頂点に達していた将門であった。
卑劣な良兼を何としても討って、君の御前や子供たちの恨みを晴らさねば・・・・・・。    次回の第9節へ続く。    

2025年(令和7年) 5月26日  森 田 衛 (神栖市)