茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第11節を掲載致します。
第11節: 武蔵国の調停乗り出し
新皇将門 ⑪(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
武蔵国の調停乗り出し
天慶2年(939年)2月、「都」にいた興世王が武蔵国の権守を命ぜられていた。興世王は桓武天皇の血を引く名門の出ではあるが元来無軌道なところがあるので政権を握る藤原氏にはさっぱり認められないでいたのだが突然、武蔵国の権守を命ぜられた。同じ武蔵国の介の職には源径基が任命された。径基もやはり名門(清和源氏、皇族)の出であった。二人は坂東に下った。武蔵国はしばらく守も介も空席となっていた。
武蔵国では郡司の武蔵武芝が国司の代理を務めていたが、興世王と径基は着任するやすぐに庁内に入って掻き回し、様子が分からないのに政治的な事をあれこれ武芝に指図しはじめた。
こんな事をしたら国内の政治はめちゃくちゃになってしまうと思った武芝が抗議をするが、二人は耳を傾けようとしないどころか権力を肩に兵を動かし民家を略奪や年貢の増収を図った。さらに武芝の私有財産まで奪い取ってしまった。
この事に武芝の家来たちが怒り出し合戦に及ぼうとしたが、温厚な武芝は、こんな事で合戦しては大変な事になると思い自ら府中を離れ自分の領地に一旦帰るが、老練な武芝は直接上司とぶつかるのを避けて、その後、将門に調停を頼む事を思い立ち将門の館を訪ねたのだが、将門にとって武芝は親戚でもないし、また、権守の興世王も介の径基も名門の血は引いてはいるものの我が一門ではないので係わりを持つ気はなかったが、なぜか興世王と武芝間の調停に将門が関わることになってしまう。
将門が国庁に兵を連れて来るという情報を聞きつけた興世王と径基は国庁がら逃げ出してしまった。その後、将門が両者の調停に乗り出し興世王と武蔵武芝を会見させて和解が成立した。その時、国庁の役人が荒々しく部屋に入ってきて、径基殿が「都」に向いました。なぜ急に径基がそんな事を。武芝殿の兵が径基殿の館を取り囲んだため驚いた経基は逃げ出し「都」に向かったのだった。径基の奴、都に訴えるつもりだな。天慶2年(939年)3月の初め武蔵国から脱した源径基は京に着くとすぐに太政官に将門、興世王、武芝が謀反をくわだてていると言葉巧みに訴え出たのであった。
これを聞いた「都」の藤原忠平は実否を調べることにし、「御教書」を書き腹心の中宮多治真人に、これを東国の将門に与え直ちに都に来て真実を述べるよう告げよと命じた。
多治真人が東国の将門のところに着いたのは3月の終わりの頃であった。
「御教書」を読んだ将門は文書をもって上告いたしますので「都」には参りませんと多治真人の言葉を突っぱねた。多治真人は私が何のために来たのか解らなくなると抗議したが、多治真人は諦めて手ぶらで都に戻り、そして、将門の言った事をありのままに忠平に報告した。「将門は平静に牧の仕事をしておりました。兵を挙げた形跡はございません。」と事実は事実として報告した。
後、同年5月に将門からの上申書が忠平の手元に届いた。源径基殿が密告した謀反の事実は思いもよらない事です。御使いとして見えた多治真人殿にもお確かめ下さい。その裏付けとして、常陸、下総、下野、上野、武蔵の各国庁からの「将門に謀反心のないと保証した証明書が添付されていた。
これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告(ぶこく)の罪で罰せられた。謀反容疑事件は落着し、それを締めくくるように朝廷は百済貞連を武蔵守に命じ、興世王の正式な上司とし専横を封じたのだった。
その頃、貞盛は。追捕付きの召喚状を持って「都」を出ていた。天慶2年(939年)6月下旬、東国に着いた貞盛は常陸国司である藤原維幾と会った。藤原維幾は貞盛の伯母の夫であった。維幾は、これからはおまえが東国の平氏一門を束ねて行かなければならない。
将門とはキッパリと縁を切れと貞盛に言った。貞盛は「都」から預けられた召喚状を出して維幾に渡した。これは将門に対する都への召喚状です。使いを出して将門にお渡し下さい。もし召喚に将門が応じない場合は私が追捕します。
将門に最後の機会を与えたいのです。この話を聞いた維幾は喜んだ。貞盛の決意が良く分かったからである。
将門の運命を変える出来事 (興世王・玄明が将門を頼る)
常陸平氏の身内のいざこざは一応終わりを見せたが、その後、興世王は武蔵守百済王貞連と不和になり任地を離れて将門を頼るようになり、また、常陸国の住人である国司の税の取り立てに反発し、朝廷の倉を襲って米を民衆に分け与えるなどして、国衙から追捕令が出されていた藤原玄明が一族郎党とともに平将門を頼ってきたのだった。
貞盛は常陸国介の藤原維幾、その子為憲と力を合わせ、国内の兵力を動員して、将門側への攻勢を示した。そして、藤原維幾は玄明の引渡しを再三将門に要求するが、玄明は居候といっても、もはや将門の家人同様の幕下であるため、将門は玄明を匿い要求拒否した。維幾の武力を背景としてのこの申し込みは将門を立腹させた。
板東一の武力の実力者のプライドを傷つけてしまった。また、平貞盛の維幾親子を抱き込んでの執拗な策動が将門の怒りの火に油を注いでしまうことになる。
玄明は常陸国の下官として、あまり評判のいい男ではなく、玄明を助けても将門の利益になる要素は一つもないと思うが・・・・・。本筋は宿敵・貞盛や国司・藤原維幾親子との諍い(いさかい)が発端となり、常陸国府の襲撃へと進んでいった。
将門、常陸国府を襲撃 (私闘から反乱へと変わる)
その結果、こちら(下総国、将門方)からも軍勢を率いて常陸に押しだして、藤原玄明の無罪と追捕を取り止めることを維幾へ求め進行した。常陸介藤原維幾は、玄明の罪を解いて旧職に復するわけにはいかない。他国の内政に口出しは無用と将門に対して明確に断った。天慶2年(939)11月21日――。
結果、常陸介・藤原維幾親子と将門は戦いとなり、維幾の兵(常備三千)、将門の兵(一千)より数では優っていたが維幾は敗北し国府(石岡市)に逃げ帰った。
奪った綾羅(絹織物)1万5000反、その他夥しい美麗を誇った財宝の数々が下総、常陸兵に分配された。将門軍の掠奪は数日間続き、29日、国府の印璽(インジ)と鍵を将門は受け取ると長官維幾と詔使弾正藤原定遠を捕虜とし、「鎌輪之宿」の本拠地石井鎌庭へ帰った
この事件は、坂東諸国の国司を震駭させただけではなく中央政府の役人をも恐怖におとしいれた。『日本紀略』は将門の国府襲撃を10日後に京に報告している。
国庁に乱入占拠し、印鑑を奪った行為はそれまでに前例がなく、私戦を棄て公然たる国家権力への挑戦反乱を示すものであった。
印璽とは、朝廷の権限を象徴するものであった。したがってこれは将門が国司から常陸を奪ったことと同義といえる。そしてここから将門の戦いが私闘から反乱へと変わってしまった。
伝説では、将門が常陸国府を攻撃したとき、砦として築いたのが土浦城(土浦市)だと言われるが文献上確かなものではない。あくまで伝説であろうか。
朝廷に対する反乱に踏み切る
将門は、「一国を討つも、坂東八ケ国を虜掠するも国の咎めは同じ」という興世王の言葉に煽動され東国制覇の意志を固めた。
心ならずも国家に対する反乱に踏み切ってしまった以上、将門は板東八州を制圧したうえで朝廷と取引をするのが良策と考えた。
板東八州の総国司就任を条件として、改めて朝廷に服従、協力を誓うというものであった。興世王の考えに賛同した結果であった。そんななまやさし事態ではなくなっていた。
そして、天慶2年(939)12月11日――。将門は五千の兵をあげ下野に進撃した。
下野国府庁(栃木、下都賀郡)に迫ると、新任の下野守藤原弘雅、前下野守大中臣定行は、一矢も射ることなく印鑑と鍵を差し出した。農民たちは安堵し、かえって将門軍を歓迎した。新たな支配者に救世主のような期待を抱くものも多かった。
12月25日、将門軍は上野国(群馬、前橋)に進出した。中央政府のやり方に不満を抱いていた板東諸国の豪族たちがそれぞれ兵を率いて馳せ参じた。その数三万近くに上野国介藤原尚範は肝を潰し、国印と鍵を差し出した。
将門は軍中に捕らえた、下野守藤原弘雅、前下野守大中臣定行との上野国介藤原尚範の三人を「都」に送り返した。
上野国において自ら「新皇」と称して坂東の自立を宣言。その後は他の国府の役人も将門を恐れて逃亡したため、将門はたちまち坂東八ヵ国をその勢力下に収めてしまった。
東国での国庁を焼き、官倉を破り、多くの官人を討った「将門の乱」の知らせを受けた朝廷は大混乱に陥った。
-次回の第12節へ続く。-
2025年(令和7年)6月5日 森 田 衛 (神栖市)
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第10節を掲載致します。
第10節: 京の朝廷追討大将軍
新皇将門 ⑩(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
将門の召喚
石田の館では貞盛の正室「定の御前」は貞盛が一向に将門打倒に腰を上げない事に腹を立て、「本当に何とするつもりでいられますか。」と貞盛に詰め寄っていた。「定の御前」にしてみれば将門は三人の弟を殺され実家を没落の寸前にまで追い込んでいる宿敵なのである。
一日も早く将門を討ち、恨みをはらしたい心境であった。しかし、当の貞盛自身にはこれという策略もなくただ月日が過ぎていた。苛立ちを隠しきれない「定の御前」は、もう、こうなったからには将門を討つには「都」の朝廷の力を借りて朝廷からの追討大将軍を板東に向けて貰うより無いと言いだした。
この言葉に貞盛は心を決め、天慶元年(938年)2月、「都」への手土産をたくさん馬に乗せて「都」に向かって旅だった。一方、貞盛が京に向かった事を知った将門は百余騎の騎馬兵を従えて貞盛を追った。貞盛を「都」に行かせてはならない「讒訴(ざんそ)させてはならない。」と昼夜を通し走り続けた。
将門は信濃の国分寺付近で貞盛一行に追いつき、貞盛に使者を送った。「確かめたい事があるので二人だけで話がしたい」と言う内容のものだった。
しかし、使者はそれっきり戻っては来なかった。代わりに現らわれたのは信濃の豪族・長田真樹(おさだのまき)の軍勢であった(濃の国分寺付近)。すぐに迎え撃っての合戦が始まったが真樹の軍勢などは将門軍の敵ではなかった。この合戦で長田真樹も矢を受けて戦死し兵の半数を失い、この一戦で「都」への手土産(財宝)はことごとく将門方に置き去りとなり貞盛は山中に命かながら逃げ込んで行った。
将門は貞盛を探し回ったが見つけ出すことが出来ないで焦りを見せた。いつまでもこうしている訳にも行かないのであった。なぜなら自分の住む下総国から下野国を抜け上野国を突破して来ているからであった。
その報告はすぐに「都」にも届いているはずだと考えていた。軍を率いて官道を通り幾つかの関を越えたのだから普通なら反乱行為なのだが、追捕令には貞盛の名も書かれていたので「貞盛を追捕するためだ」と国庁に告げ将門は通過している。
国庁の役人も通過を認めてはいたが「追捕使が互いに追捕している。」と「都」のいい加減な追捕令に戸惑っていた。
その10日後貞盛は命からがら「都」に辿り着いていた。しかし、都に辿り着いた貞盛は命令もないのになぜ官地を離れ上京したのかと太政官から取調べを受け軟禁させられてしまった。取り調べの終始を聞いた藤原忠平は心を固めていた。
今後、東国を引き続き平穏に治めるにはやはり筑波山麓一帯に拠点を構える平氏一門の力を利用するしかない。そのためには可愛そうだが将門を今回は犠牲にするしか無い。今までの藤原忠平は常世の国づくりをせよと将門を可愛がっていたが、この時、将門を見捨てざるを得なかった。それは忠平自身の都での立場を保つためでもあった。
瀬戸内海では藤原純友の乱が起っている中、武蔵国では土豪の橘近安も反乱を起こし始めていた。橘近安の反乱はすぐに鎮圧されたのだが、これ以上東国での反乱を引き起こすわけには行かない。そう考えた藤原忠平は東国で力をつけて来た危険な将門に対して「将門を「都」に召喚せよ。」と英保純行(あぼのすみゆき)に召喚状を持たせて「必ず連行せよ。」と命ぜていた。
天慶元年(九三八)六月中旬
召喚状を持って東国に下った英保純行は将門の営所を尋ねた。天慶2年(939年)純行は卒直に「私と一緒に都に来て貰いたい」と将門に告げたのだが将門は純行の顔をじっと見つめていたが、突然、「この事を忠平閣下はご存知かと」「勿論、ご承知です」そのために私がここに来たのです。その事を私自身が直接忠平閣下殿に確かめるまでは「都」にはあがらない。」将門はこの時まだ忠平の心を信じていたのであった。
頑固な将門の態度に困った英保純行は役目を果たさずに手ぶらで「都」に戻って来た。
「都」では将門がなかなか上京しないため忠平は次の手段を考えた。今、軟禁状態になっている貞盛を呼び寄せ将門の召喚状を持たせ、早急に東下するようにと命じたのであった。
-次回の第11節へ続く。-
2025年(令和7年)6月04日 森 田 衛 (神栖市







