茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、14回シリーズの第13節を掲載致します。
第13節: 将門の最期
新皇将門 ⑬(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
朝廷の征討軍が都を出発
一方、将門討伐の為に結成された朝廷の征討軍が「都」を出たのは、1月27日であり、2月上旬には、もう大行軍の烈が、東海道の駅路を、東へ東へと蜿々と急いでいたはずであった。だが、大将軍忠文を初め、副将の国幹にしても将門に対してどれ程な自信と意気があったか甚だ疑わしい。
貞盛の動静掴めず
諸国の長官らが京に逃げ去った後、将門は兵八〇〇〇を率いて八州巡検を行い、国々の官吏の在勤を命じて相模から本拠地下総に帰った。
そして、十分な休息もとらないうちに、天慶3年(940年)正月中旬、残敵を掃討すべく多治経明や豊田・猿島の近衛兵五〇〇〇を率いて常陸に入った。那珂・久慈両郡の境で、郡司藤原氏らの歓待をうけた将門は貞盛、為憲の動静を尋ねたが掴めずにいた。
その頃、貞盛は下野の下野押領使、田原藤太秀郷のところに潜んでいた。秀郷は都からの将門征伐の大将軍が来る前に将門を叩きその首を都に届ければ一生を懸命に働いても得られない恩賞にありつけると考え貞盛の兵と自分の兵を併せ四〇〇〇余りの兵を集めた。
だが、すぐには将門の本拠地には攻め込まなかった。将門の襲来を待ったのであった。秀郷は将門を真正面から襲撃することを避けた。将門の軍の力を知っていたため策を講じたのであった。
平貞盛.藤原秀郷の突然の合戦企て
下野国庁の攻略から、二か月間に及ぶ長い戦闘で将門軍の消耗は激しかった。
数千の兵を長期間拘束することは、食糧の確保と生産活動を阻害するので軍兵を一端諸国に帰還させた。『将門記』はこの時期の将門の兵を一〇〇〇人にも満たないと記している。
このような将門軍の手薄を伝え聞いて、貞盛と押領使藤原秀郷は、四〇〇〇余人の常陸、下野兵を集め、突然に合戦を企てた。将門は非常に驚いたが、将門のもとにはその報が相次いで届いた。捨て置くわけには行かなくなった将門は天慶3年(940年)2月1日、防戦のため藤原玄茂を副将として、手兵一千を率いて下野に出兵する。
軍を三隊に分け、将門はその一隊を指揮して、将頼、将平、赤平らと先行した。他の二隊は経明、遂高、員経などに率いさせた。
他の二隊は、多治経明、伊和員径などに率いさせた。将門は物見を放ち慎重に進んでいったが秀郷、貞盛軍にはなかなか接触しなかった。
軽率な読みと最悪の結果
先鋒の将門軍は敵の所在をつかむことができなかった。そうするうちに、副将玄茂、陣頭経明、遂高らの後陣は、三毳(みかも)山(栃木県岩舟町)に登って秀郷軍を発見した。
玄茂らは性急に勝負をつけようと、将門への報告を怠り唐沢山(佐野市)に向かった。
敵陣の兵は多いが連戦連勝のおごりがあったのだ。
しかし、今回の相手が普通の敵であったならまだしも幾多の合戦の経験をもった秀郷に対しては軽率な読みであった。
秀郷は馬を揃えて攻撃して来る多治経明、伊和員径らの姿を見ると「勝敗あり。」とばかりに、すぐさま陣を開いて真ん中を通過させ両側から一斉に矢をそそいだ。秀郷の作戦にまんまと引っかかってしまったのであった。
将門軍の騎馬隊は馬上で弓を射ながら歩兵を後に付け秀郷の読みどおりに突入してしまったために結果は最悪のものとなってしまったのであった。
歩兵は早くもこれを見て後退し、人馬ともに多く傷つき倒れ無事に突破できたのは兵に囲まれていた少数の者だけであった。総退却せざるを得なかった。
この合戦そのものはわずかの間に秀郷軍の完勝に終わった。将門がこの事を知った時には、あまりにも短時間のうちに終わってしまったのでどうにもならなかった。
残りの兵をかき集めても四百人下るほどに激減した軍では再襲することも出来ず将門は後退を命じた。しかし、秀郷軍は後退する将門軍をこの時を逃してはならぬと、なお追撃した。将門軍は追跡してくる秀郷軍を結城の河口村で要撃し、なんとか石井の館に戻ることが出来た。館に戻った将門は各地にいる豪族に兵を集め参陣するように命令を出したのだが、今や朝敵となってしまった将門には思うように兵は集まらなかった。
最後の戦い
午後3時ごろ、敗走する将門を追って、秀郷・貞盛軍は、水口村に達した。将門は太刀をふるって自ら陣頭に立って戦ったが、三〇〇〇の軍兵の攻撃は容赦なかった。貞盛は、将門軍は私賊であり、我が軍は公軍であり天が味方すると激励した。
やがて日暮れて、戦闘も一時、小康状態を保っていたが、将門軍は楯を前方へ押しやって防戦した。そのうちに日が暮れ貞盛・秀郷軍は引揚げた。
新皇も鎌輪館へは退却せず、敗北を恥じ憤りながら石井営所へ戻っていった。
同年2月13日、貞盛と秀郷は最後の決着をつけようと用兵を調え、下野より南下して、幸嶋郡堺(境町)に到着した。将門は漸く兵具を調えて石井営所から北上して染谷川を挾んで、秀郷、貞盛、繁盛、為憲の連合軍三〇〇〇と対陣した。
秀郷は一軍を川上から迂回して攻撃をかけて来た。これに対して、将門は、石井の営所を戦火から守り、さらに、疲労した敵兵を地理不慣れな場所で一気に殲滅しようと、幸嶋(さしま)の広江にわざと身を隠した。
しかし、老巧な軍師秀郷は、この誘導作戦には乗らず石井営所を直撃した。
そして、将門本拠の寺院、与力、百姓家をことごとく焼き払った。
せっぱ詰まった将門は親しく付き合っている叔父の良文に援軍を求めたが、良文は、将門がもはや朝敵の敗軍の将であり万に一つの勝ち目が無いと判断して一兵も送ってこなかったとされる。翌日、将門は、「恒例の兵衆」八〇〇〇及び豊田兵の援軍すら待たず、猿島兵と弟将頼の相馬兵合わせて四〇〇余のまま最後の決戦地北山へ陣を移動した。
2月14日(午後三時ごろ)両軍の戦闘は開始された。新皇将門は順風を背負い有利な位置に立ち、貞盛、秀郷軍は風下に立った。この日は、日光颪が梢を鳴らし、地を揺るがして激しく砂塵が舞い上がるほどであった。将門側の楯は、前方へ倒れ敵の楯は兵士の顔面をうった。弓矢がつかいものにならず戦いは白兵戦に移った。
将門軍の従兵は馬を駆って貞盛兄弟の中陣に突入し八〇余人を、たちまちのうちに討ちとり、これに動揺した貞盛配下の従兵は総崩れとなり逃げ出す者が多かったが呼び戻されて留まった精兵三〇〇人であった。
将門は焼あとの営所の本陣に立ったから風下に立つことになった。貞盛軍は身を挺して力戦し、新皇も甲胄を締めなおして駿馬を鞭打って陣頭に立った。
しかし、今まで風のように疾駆していた軍馬が突如あゆみを止め、騎馬武者もまた緊張した気力の糸が切れた瞬間に、貞盛の射放った一本の鏑矢が将門の「こめかみ」に命中し落馬した。
坂東の王者.将門のあえない最期であった。(天慶3年(940年)2月14日。将門38歳。)
藤原秀郷によって刎ねられた将門の首は、下野国府にもたらされ、解文(げぶみ)を添えて京に送られた。
将門の死後、その首は4月25日に京に届けられ七条河原にさらし首の刑に処されたとされるが、さまざまな伝説ばかりが伝えられている。
朱雀天皇も藤原忠平も将門の首をあらためることはなかった。忠平は無力感に打ちのめされ、しばらくの間、誰とも会おうとしなかった。
-次回の第14節へ続く。-
2025年(令和7年)6月8日 森 田 衛 (神栖市)
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、14回シリーズの第12節を掲載致します。
第12節: 将門、新皇を名乗る
新皇将門 ⑫(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
将門、新皇を名乗る
興世王の進言に従い将門は常陸・下野・上野の国府を攻め落とし、占領し、独自に各国の守、介の除目まで行ってしまった。さらに「巫女の宣託」があったとして将門は「新皇」を称した。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え将門は関東全域を手中に収めた。
「巫女の宣託」とは、国丁からほど遠くないところにある花園妙見からの使いがあって妙見天女がお祝いに参上すると言って来たのだった。この妙見は坂東一円の尊崇を集める大社で将門も信仰していた。
やがて緋の装束をした妙見天女が十人ほどの同じ緋の装束を着た若い巫女を連れて館にやって来て館の庭の中央に臨時の祭壇を設け祈祷が始まった。
妙見天女は駆け上がるように祭壇に登ると御幣を振りながら男の声で「我は八幡大菩薩の使いなるぞ。今日この日、朕(天子の自称)の位を平将門に授けとらす。
その位記(律令制で位階を授けられる者に、その旨を書き記して与える文書。)は右大臣菅原朝臣道真の霊魂がとりつぐものであるぞ。将門、早々に三十二相の音楽をもって「道真」の霊魂を迎えるがよい。迎え終わるならば、すなわち、「新皇」の名を称するをさし許さるるぞ。将門に代わって天女の楽団が三十二相の音楽を奏でた。
だが、将門の兄弟はこの除目を行う事には反対した。妙見天女の言うところを信じ皇帝になるのは良いが除目など行ってはならない。除目は「都」の天皇が行なうものです。
しかし、将門は聞く耳をもたずに除目を発表した。力のあるものが皇帝になり除目を行うのは当たり前と考えていたのであった。
*この時、将門が任命した関東諸国の国司は、以下の通りである。
・下野守 - 平将頼 (将門舎弟)
・上野守 - 多治経明(陣頭・常羽御厩別当)
・常陸介 - 藤原玄茂(常陸掾)
・上総介 - 興世王 (武蔵権守)
・安房守 - 文屋好立(上兵)
・相模守 - 平将文 (将門舎弟)
・伊豆守 - 平将武 (将門舎弟)
・下総守 - 平将為 (将門舎弟)

痴児(ちじ)の酔い
将門は勝った。勝には勝ったが、将門はやり過ぎた事に淡い悔いに似たものが心の底から滲にだしてくるのを感じていた。
官衙(官庁)の焼討ちは官への反乱で乱賊と言われても弁明の余地は一つもない。
国府を襲撃以来、将門は飲んでばかりの乱酔日が続いた。醒めれば沈湎と暗くなり、酔えば眼に妖気を含み底知れない泥酔に落ちていった。
そんな日々の中、毎日のように媚びと諂いの客が絶えず将門に面会にやってきた。
藤原秀郷の探り
この、藤原秀郷(俵・田原藤太)の名はムカデ退治の伝説で有名であるが、当の本人は下野国の強大な一豪族であった。秀郷は海千山千の経験を積んですでに63歳になっていたが若造の将門くらいまるめこむ自信を持っていた。秀郷はまず将門に会って人物を確かめ、その陣容の状態を知ろうとした。
そこで秀郷は二十騎ほどの兵を連れて、上野守の屋敷に陣取っている将門を訪ねる事にした。
新皇殿のご機嫌伺いに参上つかまつりました。一目お目にかかりたいと存じます。と、秀郷は姓名を言って物腰柔らかく申し出ると面会が許された。
秀郷は将門と歓談しているうちに、このお方は良くない。頭が緻密ではないようだと感じた。腹心たちがいるから今の所は破綻を見せないがいずれ必ず失敗するに相違ないと判断した。
集まっている兵を見ても勢いのため参集しているに過ぎない。旗色が悪くなれば四散するであろう。このお人に最後まで付いて来る兵は七百か八百かな。いま将門の言う下野の介などになったら大変なことになる。わしは別の手を打たねば。と心の中で結論を出し、引き揚げていった。
神頼み仏頼み
天慶三年(940年)、宮中も大騒ぎになり、朱雀天皇は将門滅亡を七大寺に祈祷させ、大明神にその調伏祈願を命じた。
寺々の高僧は邪悪が滅びる法を執り行い神官たちは将門が頓死するよう祈ったというのであった。祈祷には護摩に用いる「けしの実」を七石あまり使い、五種類の供物は膨大なものであったと言われている。
しかし、神頼み、仏頼みの業は行ったとは言え朝廷そのものも具体策を講じなければならなく、そこで、推問東国史に右衛門権佐、源俊、左衛門慰高階良臣の三人を任じて東国下向を命じたが、この三人は青い顔をして命令に奉じたが東国に赴く意思などまったくなかった。
この頃、瀬戸内海では藤原純友は伊予で朝廷に目をそそぎながら暴れまくっていた時期でもあり、純友が乗る竜神丸を初め配下の千五百隻余りの船が四国の海上を制圧していた。東国の将門と東西に二つの反乱が起こり朝廷は対策に腐心していた時でもあった。 (承平天慶の乱)
承平天慶の乱は、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称で、一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。天慶の乱とも呼ばれる。ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏(武士)が進出するきっかけになり、都(朝廷)の政治から武士による政治に転換していった。そして平清盛や源頼朝などが台頭して行った。
≪余聞: 将門調伏の祈願≫
成田山新勝寺(千葉県成田市)は、将門調伏の寺院として知られている。
朱雀天皇は密教系の僧侶たちに将門調伏の祈願を命じた。密勅を受けた一人・寛朝僧正は高雄山(京都市右京区)の護摩堂に安置されていた空海作の不動明王ご尊像を捧持して関東へ出発。難波の港から船に乗り、房総半島の尾垂ヶ浜に上陸した。(千葉県山武郡横芝光町)に上陸し陸路で下総国公津ヶ原に入ると、堂宇(堂の建物)を造営し、この地にご尊像を奉安し、21日間にわたって護摩を焚いて乱の終息を祈願した。結願の日に平将門が敗れた。天慶3年(940年) 「不動塚」 (成田市並木町)
調伏を達成した僧寛明が都へ帰ろうとしたところ、ご尊像が磐石のごとく動かず、不動明王から「この地に留まり人びとを救う」というご霊告を受けた。このことを朱雀天皇に伝えると「新勝寺」の寺号を賜り「成田山新勝寺」が真言宗智山派の寺院として開山された。
永禄九年(1566年)に成田村一七軒名主が不動明王像を背負って、現在の成田山新勝寺の場所へ移動して伽藍(がらん)を建てたのが「成田山新勝寺」の開山の起源だといわれている。また、成田山新勝寺は、源氏との関係も深く、康平6年(1063年)に源頼義が本堂を再建。
治承4年(1180年)には源頼朝が平家追討の祈願を行ったのだと伝えられ、文治4年(1188年)には千葉常胤「平良文(将門の叔父)の子孫・末裔」が本堂を再建している。
次回の第13節へ続く。-
2025年(令和7年)6月 5日 森 田 衛 (神栖市)
