
城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、14回シリーズ最終回の第14節を掲載致します。
第14節:将門の乱後の常陸国 新皇将門 ⑭ 最終回
(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
将門の乱後の常陸国
その後、秀郷、貞盛軍による残党狩は徹底的に行われたが、藤原秀郷は加わってはいなかった。詔使として征東大将軍藤原忠文、副将軍藤原忠舒、源経基等が派遣され、忠舒は押領使に平公連(平良兼の子)を任命し、四月八日関東に入国している。経基は源任、宛父子を従えて、残党軍が抵抗する綾戸館(結城市山川)を急襲し武功をたてた。そして、将頼(35歳)、玄茂(36歳)は相模国で興世王(38歳)は上総国で、坂上遂高、藤原玄明(55歳)等は常陸で次々と発見だれ斬殺された。
将武は甲斐国で殺されたともいわれ、将平、将文らには各説がありはっきりしないが、秩父に逃れたのではないかという説が有力とされる。
また将為のように陸奥に逃れた者や諸国に四散し山中に隠れ住んだ伴類は数知れず、その後の「将門伝説」を生む土壌を育んだ。
恐らく、将門の軍事的拠点であった鬼怒川右岸の千代川、石下、水海道の豊田郡(岡田郡を含む)の村々と、岩井、飯沼周辺の村々の残党狩りは悲惨を極めたにちがいない。
また、将門の後裔である相馬氏は、後年、将門ゆかりの神社と延命寺に永代祭祀料、社殿造営料を奉納しているが、市内大塚戸町の一言主神社本殿再興に際しても訪う享德8年(1459年)内守谷城主相馬弾正胤広が莫大な寄進をしている。
要するに律令制度に圧力を加え、農民に更生の道を開き、貴族政治を抑制し、武家政治の基を開くなどその意義は大きく、今日一般に再評価されるに至った。
女・子供たちは叔父の平良文の元へ送られ、そこで過ごしたという。春姫(生没年不詳)は、平将門の娘(次女)で、平忠頼の正室。如春尼とも呼ばれ、父の将門が討伐された際は、下総国相馬郡岩井郷に隠れ住み、名を如春尼と改めて一族の菩提を弔ったとされる。
妹(三女)の如蔵尼も、奥州に逃れた後に同地へ戻って父・将門の菩提を弔い三十三年忌に国王神社(坂東市)を建立した。国王神社には将門の三十三回忌にあたり如蔵尼が刻したとする将門の神像が現存し、同様に如蔵尼自刻の将門像は福島県相馬市中村の国王神社、同小高の国王神社にも伝わる。
福島県いわき市の恵日寺には如蔵尼のものと伝わる地蔵菩薩像があったが、戦禍で失われた。
また、千葉県柏市の龍光院にも如蔵尼が一族の菩提を弔い納めたとする地蔵菩薩像が伝わる。福島県磐梯町の恵日寺と福島県いわき市の恵日寺のいずれにも墓が伝わっている。
また、良文は、将門にくみしなかったことを高く評価され、将門の遺領の併合を許されたとされる。この良文は、大友城(現在の千葉県香取郡東庄町)を居館として築城し、同香取市にも居館(平良文館)を建てたとも伝わる。
一方、勝者の平貞盛は、将門追討の功績で従五位下に任じられ右馬助に任じられた。常陸に多くの所領を得て、その後、鎮守府将軍や陸奥守などを歴任し「平将軍」と呼ばれるほどまでに出世し、その子孫は平清盛の時代まで繁栄する。
平清盛は平治元年(1159年)の「平治の乱」で勝利し武家の棟梁となり、同時に貴族の頂点の「太政大臣」に任命され、朝廷の要職を独占していた藤原氏をしのぎ政治の実権を握った。
将門を倒した敵の子孫でありながら、偶然にも清盛は、将門が理想とした武士が中心となって政治を行なう世の中を実現した。その後、清盛は源平の合戦で源氏の頼朝に敗れ平家の時代に幕を引くことになるのだが、「都」中心の政治ではなく武士が中心の政治はその後も続いた。
平将門の乱の原因として、将門の父.平良将が鎮守府将軍であった時代に築いた奥州への利権を巡ってのものであったとする説があり、良将.将門の奥州に対する勢力基盤は、将門の乱後に貞盛に継承された。そのために鎮守府将軍に任命されたと言われる。
貞盛には繁盛という弟がおり、兄の貞盛と共に将門追討軍に参戦したが、こちらに対する論功行賞はなかったとされ、これに不満を持ったかどうかは不明だが、繁盛の子維幹(維基)は貞盛の養子となって常陸大掾職についた。
貞盛は、弟.繁盛の子孫に常陸大掾職を譲った形になる。それ以来この常陸大掾職がほぼこの一族で世襲されて、名前に「幹(もと)」という漢字を入れた常陸平氏が始まった。(別図参照)そのため、国香などから大掾職が始まったというよりは、大掾氏の実質的な祖はこの「平維幹」と言ってもよい。
繁盛は乱後46年経った寛和2年(986年)になってから国家守護のために大般若経600巻の書写を比叡山延暦寺へ奉納して忠誠を示そうとしたが、これを武蔵国において仇敵であった平良文の子.平忠頼(正室は平将門の娘・春姫)・忠光らによって妨害された。
繁盛は、朝廷に訴え一度は追討を出されたが、まもなくその訴えも無効になってしまった。そのため太政官に対し上申書を提出し各国の国衙を経由して奉納するという条件でやっとのことで比叡山への奉納を完遂することができた。
平忠頼・忠光兄弟は繁盛らの訴えにより、一時期は朝廷からも官符が出るほどであった。これに続く「平忠常の乱」によって関東は大いに荒廃することになる。平安中期、長元元年(1028年)に起き、長元4年(1031年)にようやく平定した反乱事件。
また、秀郷(別名は、俵(田原)藤太)は、この功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられ、下野、武蔵野両国の「守」に任じられた。
源 氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出したが、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなる。
没年は「田原族譜」によると正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳で亡くなったとされるが、「系図纂要」によると天徳2年2月17日(958年3月10日)に亡くなったとされる。また「佐野記」には、天慶10年2月(947年2月)に63歳で亡くなったと記載している。
当時、東国には中央の統治権力が及びにくい地政学的背景もあり、坂東の地には小さな「いざこざ」が数多く発生し、平将門の乱、「平忠常の乱」、関東管領の上杉氏や北条氏の支配、小田氏や佐竹氏の台頭などの過程で常陸国南部、霞ヶ浦周辺(鹿島・行方地域)も巻き込まれながらも、俗に「南方三十三館」と呼ばれる大掾氏一族が長く蟠居していた。 将門の伯父である国香から始まる平氏一族である。
*名前に「幹(もと)」という漢字を入れた平氏 (島崎氏の祖)
あとがき
社会(人生)というものはゆっくり流れる川のようなもので徐々に変化して行くものなのであろう。しかし、人には良い面と悪い面がある。相手が悪い面を見せるのは、自分にも悪い面があるからである。「それは魔の力。」反対に良い面を引き出せるという事は相手にも良い面があるからである。
「それは善の力。」相手があるから自分もある。相手しだいにより自分の生き方も大きく変わらざるを得ない場合もあり、人生は好む、好まざる。とは別にゆっくりと流れる坂東川(利根川)にもなり、鬼が怒る程に暴れ出す鬼怒川にもなるだろう。淀みなく流れる川はどちらにしてもすばらしい。
平将門の志は潰され、彼自身も滅ぼされたが、板東の庶民たちは日が経つに従って、亡き将門に思慕(しば)を深めていた。それと言うのも「都」の圧政は依然としてやまず、もし将門が生きていたなら、もっとよりよい暮らしが出来たのではなかろうかという庶民の願望の表れだったに違いない。
「常世の国」造りは民衆の夢として確実に坂東の地に今も根強く残っているに違いない。千数百年の月日が経った今日まで続く将門信仰の底にはそれがあるからであろう。
戦いに敗れた将門の首は京に運ばれ七條河原で晒されましたが、その後、首が胴体を求めて東国へ飛来し、現在の首塚がある場所へ落ちたとも、首桶に入れられて持ち去られ、武蔵国豊嶋郡上平河村津久戸(大手町付近)の観音堂に祀られたとも言われています。父の遺産相続争いから関東を巻き込む戦いに発展し、激戦の末、敗れてしまった将門の怨念は、ずっと東国に根付いてしまい、その力が今も尚、生き続けていると伝えられる。
東京都内に残る将門ゆかりの場所は、上記の首塚を含めて7カ所の神社があり、それを繋ぐと「北斗七星」になると言われている。これは、将門が信仰した「妙見菩薩」を表しているという。
これは、平将門が北斗七星を信仰していたことから徳川家康があえてやったと伝えられている。
首 1)鳥越神社・・・将門の首がこの地を飛び越えたという伝説。
首 2)兜神社・・・・俵藤太が将門の兜を埋めたという伝説。
首 3)首塚・・・・・将門の首塚。
首 4)神田明神・・・将門の首が祀られている。
首 5)筑土八幡神社・この神社の隣の津久戸明神が将門の首を祀る。
封 6)水稲荷神社・・将門調伏のための神社。
体 7)鎧神社・・・・将門の鎧(胴衣)を祀っている。
ここに記載した内容は、私は歴史の専門家でも教育者でもないため、過去の文献や書物等の内容を転載して書いたものであり、その他たくさんの書物や小説も参考とし、転載させて頂いていますが出版・販売の目的で書いた物でなく、あくまで個人的な郷土史の生涯学習のために纏めたものであるため参考文献の紹介は省略させて戴きましたこと詫び申し上げます。さらに今回は特別に「島崎城跡を守る会」ボランティア団体のブログへ寄稿をさせて戴ける機会を得まして誠に有り難うございました。
(第14節)-最終回-
2025年(令和7年)6月8日 森 田 衛 (神栖市)