猛暑が過ぎ、秋らしい季節になりました。

今年も、島崎城跡の専用駐車場や通路附近に彼岸花が咲き始めました。

また、登城口の通路にもコスモスはじめ秋の花が咲いております。

城跡見学には快適な季節になりました。

皆様のご来場、まっています。

行方市麻生郷土文化研究会講演会
法政大学名誉教授 根崎 光男
 

はじめに
 霞ケ浦の東岸に位置づく行方の地は、美しい景観と肥沃な大地が持ち味であり、
私たちの祖先は古代以来現在にいたるまで、そのもとできまざまな歴史・文化を築
き、多くの遺跡・史跡・古文書・石造物を残してきた。その一つ二つが重要な歴史
の痕跡であり、私たちにはそうした歴史資源を未来に伝えていく責務がある。
 ところで、歴史を調べていくと、人々の暮らしや文化をひもとくことができる。
それによって、地域の風土や歴史を明らかにし、それを語り継ぎながら未来を切り
開いていく必要があると考える。
 今回は、行方の地を代表する霞ケ浦(北浦)とその周辺村落で展開した歴史を中心に、人々がどのように生きる道を選択して地域をつくってきたのかを考えてみたいと思います。
 

1.行方地域の江戸時代以前の歴史
 行方の地には、1日石器。縄文・弥生、各時代の遺跡が確認されている。太古の時
代から人々が住み、石器などが発掘されている。
 ところで、霞ケ浦に面した行方の地を考えるにあたって、まず確認しておきたい
ことがある。それは、霞ケ浦が戦国時代まで海であったという事実である。その海
「香取海」と呼ばれ、現在の利根川下流や千葉県の印藩沼や手賀沼あたりまで広
がっていた。それが戦国時代あたりから上流からの土砂の堆積や海面の低下によっ
て淡水化し、現在の霞ケ浦(海跡湖)になった。霞ケ浦の漁民は、室町時代には「海
夫」と呼ばれ、海とかかわってきた人々であった。こうしたことを確認したうえで、
簡単に江戸時代以前の歴史をみておきたい。
 

(古墳時代 3~ 7世紀)
 行方の地には、数多くの古墳が確認されている。しかし、古墳全長が100メート
ルを超えるものは現在のところ確認されていない。

 ところが、舟塚山古墳(石岡市、国指定史跡)は、5世紀後半頃(古墳時代中期)の築造と考えられる前方後円墳で、全長は186メートルにおよぶ(県内最大)。また夫婦塚古墳(鹿鳴市)は6世紀中葉~後半頃の築造と考えられる前方後円墳で、全長は150メートルにおよぶ。
 このように、霞ケ浦周辺では、のち常陸国府・国分寺・国分尼寺となる石岡の地や鹿島神宮近くに勢力の大きい首長がいたことが確認できる。
 そして、行方地域には、5世紀中後期頃の築造で、全長87メートルの前方後円墳である三昧塚古墳(玉造沖洲、国指定重要文化財)があり、金鋼製の冠や耳飾りなどが出土している。それから、同じ沖洲には行方最古の4世紀後半頃の築造で、全長64メートルの前方後方墳である勅使塚古墳もある。この時代、沖洲はこの地域の中核になっていた。
 

(古代 7-12世紀)
 古代の行方地域を考える場合、近くにあった鹿島社(鹿嶋神宮)と香取社(香取神宮)の存在はきわめて大きい。7~ 9世紀初頭の日本は、東北の蝦夷討伐に力を入れており、武神を祀る鹿島口香取の両社は蝦夷平定のための拠点であった。常陸以北は蝦夷の地で802年に征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐を完了し、ヤマト政権が制圧した(北海道は明治を迎えるまで日本領土ではない)。常陸南部は政治的にも宗教的にも重要地域であった。
 養老年間(717-724)に編纂された『常陸風土記』行方郡の条には、地名が数多く登場し、地方豪族や国司による田畑開発の様子が知られる。
 

(鎌倉期 12‐14世紀)
 平国香の孫にあたる維幹を祖とする常陸大嫁氏が台頭し(常陸平氏)、筑波山麓南西の多気(つくば市)を本拠地とし、鎌倉初期に常陸平氏の平重幹は長男政幹に宗家を継がせ、二男清幹に吉田・鹿島・行方の三郡内の所領を与え、四男政幹に下総の石毛、五男の重家に真壁郡小栗保を与えた。

 清幹は長男盛幹に吉田郡、二男忠幹に行方郡、三男成幹に鹿島郡を与え、かれらはそれぞれの郡司職を継承した。忠幹は行方次郎、または行方平四郎と名乗り、行方郷に居を構えた。その子景幹の開発地や特権(鹿島社の大使役)は四人の子供に分割譲与され、長男為幹は行方氏の惣領家を継ぎ、行方太郎と称した。のち、小高に本拠を移したので、小高氏を称した。二男高幹は島崎(潮来市)に居住、島崎次郎と称して島崎氏の祖となった。三男家幹は麻生に居住して麻生二郎と称して、麻生氏の祖となった。四男幹政は玉造に居住して玉造四郎と称し、玉造氏の祖となった。この四家は、「行方四頭」と呼ばれた。

 戦国時代になると、常陸大嫁氏の勢力が衰退、行方四家は自家の勢力を伸ばすため、互いに争うようになった。麻生氏は島崎氏と戦い、天正12年(1584)に麻生氏は滅んだ。玉造氏は大使役に就任すると、行方郡役を催促し、玉造・現原・手賀などの勢力下の諸郷から郷役を徴収した。
 

(室町期の海夫注文と行方地域 1374年)
 平安時代以降、香取海の海夫は香取社(現香取神宮)の大宮司によって支配され
たが、南北朝期(1336-92)には在地領主(常陸平氏一族)の支配となった。そこで、
1374年、室町幕府(鎌倉府の奉行人)が海夫に香取社へ海夫税を納め、大爾宜の支
配に入るように命じたのが「海夫注文」である。当時、香取海の津(港)には海夫
と称される漁民が居住し、この命令によつて香取社へ海夫税としての供祭物(漁獲
物の―部)を献上することが課され、大爾宣家の支配下に置かれるようになつた。

 当時、香取海の漁業は周辺漁民の自治によって行われていた。この「海夫注文」に
は、玉造氏知行の宮木崎(旧玉造浜)日高須(旧玉造)、小高氏知行分の橋門(旧麻
生)・西蓮寺船津(旧玉造)・船子(旧北浦)、武田氏知行分の鳴田(旧北浦成田)・
山田(旧北浦)、手賀氏知行分の平浜(旧麻生白浜)
の各津が確認でき、各武将の支
配下に置かれていた。こうした経緯があって、現在でも行方市内には香取神社が数
多い。
 

(戦国時代末期 1590年代)
 清和源氏の系譜を引く源昌義は、常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称した。
室町幕府将軍足利氏に属して常陸守護職に任命された。戦国時代になって、小高氏
と玉造氏、手賀氏などの行方一族が所領争いをきつかけに、これに大嫁氏・江戸氏・
小田氏・佐竹氏などが勢力争いに向けて接近してきた。16世紀後半になると、天正
6年(1578)に上杉謙信が亡くなり、関東の諸領主をめぐる情勢が大きく変化した。
 小田原北条氏は、天正7年徳川家康と同盟を結び、織田信長に接近し、北関東への
進出をはかった。これに対して、佐竹氏を盟主とする武田氏や山田氏は危機を向か
え、戦国の動乱に巻き込まれていった。信長没後は豊臣秀吉が勢力を拡大し、天正
18年には小日原の北条討伐に乗り出し、佐竹義宣にも参陣するよう通達があつた。

 同年、小田原北条氏は滅亡し、佐竹氏は奥州平定に駆り出されたが、小田原征伐の
功績を認められ、秀吉から常陸・下野両国内の所領21万6758貫文を与えられた。
 天正19年(1591)2月、佐竹氏から鹿島・行方地方の「南方三十三館」と称される武
将たちが、新たな知行割の相談という理由で大田城に集められ、佐竹氏によつて殺
害された。
このなかには、玉造・小高・手賀・武田の各武将が含まれていた。小田
原北条氏の滅亡後、関東領国に配置されたのは徳川家康であり、250万石の大大名
となった。一方、常陸国は水戸を本拠地とする佐竹義宣は54万石の大名となった。
 家康の領地の周囲には、佐竹氏や里見氏がいて、それに対する防衛は重要な課題
であった。
 

2.江戸時代の行方地域
(利根川東遷事業 1580-1654)

 江戸に入った徳川家康は、代官頭伊奈忠次に利根川東遷事業を行わせた。この事
業は、江戸の町を洪水から守り、銚子から江戸までの交通路を開き、田や畑を広げ
ることを目的としていた。

 文禄3年(1593)には利根川の中流域で二股に分かれて合流する「会の川」(埼玉県羽生市付近)を締め切った。元和7年(1621)には利根川と渡良瀬川をつなぐ「新川通り」、利根川と常陸川をつなぐ「赤堀川」(埼玉県栗橋から千葉県関宿の間)を開削した。

承応3年(1654)には赤堀川に通水され、利根川東遷事業が完成した。この結果、利根川周辺は干拓され、多くの新田が開拓されたのである。
 

(関ヶ原の戦い 1600年)
 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が死去すると豊臣政権内部の勢力争いが本格化し
た。五大老の一人徳川家康と五奉行の一人石田三成の対立である。慶長5年、豊臣
政権の武将が東西に分かれ、東軍大将は徳川家康、西軍大将は毛利輝元で、関ヶ原
の戦いが勃発した。これにより、東軍が勝利し、家康が天下を掌握することになっ
た。

 一方、西軍に属した大名に処分を下し、常陸の大名佐竹義宣は54万石から20万石へと領地を減らされ、秋田に転封された。行方の諸将たちの一部も秋田に移った。水戸には、徳川御三家の一つ水戸徳川家(頼房)が就封した。
 

(麻生藩の成立・展開 1604-1871)
 豊臣政権のもとで高槻(大阪府)城主であった新庄直頼は、関ヶ原の戦いで西軍
に属して改易
(取りつぶし)となり、会津城主蒲生秀行に身柄を預けられた。しか
し、慶長9年(1604)に赦免となり、駿府で家康に謁見、常陸国行方“河内・新治・
真壁・那珂、下野国芳賀・都賀・河内の人郡内に、3万300石余の領地を与えられ
た。旧知の仲であった家康に詫びを入れ、関ヶ原の戦いで積極的に戦わなかったこ
とも評価されたともいわれる。麻生を本拠地とし、麻生藩が成立した。西軍に所属
しながら、生き延びた大名の一人である.
 麻生藩の行方郡内の所領は、船子・水原・大生・石神・小屋・島並・橋門・井員ロ
南・小高・麻生・藤井・出沼・西蓮寺・井上。高岡・沖須・手賀・手賀浜の19ヶ村
であった。
 

〈歴代藩主〉
初代藩主  新庄直頼  慶長9年(1604)3万300石
二代      直定  慶長18年(1613)2万7300石(実弟直房に3000石分与)
三代      直好  元和4年(1618)2万300石(直時に7000石分与)
           寛文2年(1662)死去、直時は直頼四男直房の二男
四代      直時  寛文2年 2万7300石
五代      直矩  延宝2年(1674)2万300石(直時7000石分与)、領地没収
六代      直時  延宝4年(再封)1万石(3000石加増)
七代以降、明治4年(1871)まで、麻生藩の石高は1万石であつた。
 

3.霞ケ浦と周辺村落
く霞ケ浦四十八津と北浦四十四津〉

 平安末期から南北朝期、霞ケ浦・北浦・利根川の津々の海夫は、香取社に供祭料
を貢進する代わりに、漁猟・交通上の特権を保障されていた。戦国期から江戸初期
にかけて、この地域は政治権力に対抗するため、それぞれの湖の入会利用を原則と
する自主的に管理する連合組織
が形成されていた。
 それが霞ケ浦四十八津や北浦四十四津で、それぞれの湖周辺の村々(津)から構成されていた。これらの連合体は組織を維持するため、それぞれ浦方議定書を作成し、津頭を置いて管轄していた。

霞ケ浦では古渡村(現稲敷市)に南津頭、玉造浜村(現行方市)に北津頭を置き、また北浦には白浜村(現行方市)に津頭を置いた。
 しかし、江戸幕府の成立により、霞ケ浦の東南部が幕府の専用漁場となり、寛永2年(1625)にはその北部が水戸藩の専用漁場となり、土浦藩や麻生藩などもそうした動きをみせたが、その残りの湖面は惣津の入会漁場となった。

『玉造町史』
 

〈霞ケ浦浦方議定書の作成〉
 霞ケ浦沿岸漁村は、霞ケ浦の利用を円滑に進めるため、浦方議定書を作成し結束
をはかった。慶安3年(1650)、享保11年(1726)、寛保元年(1741)、文化12年(1815)
に議定書が取り交わされ、補充された。
 慶安3年の「霞ケ浦四拾八津掟書」(土浦市立図書館蔵)の内容を紹介する。

①霞ケ浦は四十八津の入会とする。鯉の漁期は11月20日~翌年3月まで。②惣津に害
をなす者は漁業禁止とする。③網操・六引網の使用禁止。④網は目詰まりのものを
使用する。⑤富田・麻生・島並・橋門・今宿の各村は箕輪田御留川に面しているの
で、「ばいひき網」を引かない。⑥夏・秋に鯉を捕っている者がいたら、四十八津に
通報する。⑦寛永14年(1637)から打網も禁止されている。③惣津の寄合は、毎年
10月20日とし、欠席した場合は霞ケ浦での漁業を永久禁止とする。
 その後のものは、条文が追加されていった。霞ケ浦四十八津内部から違反者がで
ないように取り締まつたものである。


〈享保11年(1726)の霞ケ浦四十八津掟書〉
① 霞ケ浦で幕藩の年貢米や商人荷物を積んだ川船が遭難した場合は、救助船を出す。 (津が漁業のほか、水上輸送にも従事)
② 箕和田御留川・水戸御留川の2か所以外の海面は、四十人津の入会漁場とする。
それ以外の村は、漁業をさせない。
③ 違反した網を積んだ不審漁船がいたら、網船を取り上げる。
④ 鯉の漁期は11月20日から3月までとする。
⑤ 地引網や大徳網に付網をしてはならな
⑥ 新規の漁具で漁をしている場合は、支配の津頭へ通報する。
⑦ 流れ船を見つけたら、船主を見つけ次第返却する。
⑧ 津頭から四十八津への廻状はすぐに廻す。
⑨ 四十八津の寄合は、毎年10月20日とする。 『茨城県史料』
※四十八津による厳守事項の確認と霞ケ浦の持続的利用をはかる。
 

〈近世中期以降の「水行直し」〉 
「水行直し」とは、船舶運航障害や洪水、水田の冠水防止のための瀬浚い、水生
植物の刈り流しを行う河川工事のこと
(漁獲量の減少)
① 富士山噴火(宝永4・1707)・浅間山噴火(享保6・1721)により、火山灰が利根川下流域に運ばれ、霞ケ浦を開塞、塩素イオン濃度減少、水害を防止する
② 船舶運航にも支障が出なくなる
③ 水勢もよくなって魚道もできる
④ 水腐れ(水害で稲が成熟しない)という農業被害も回避できる
→霞ケ浦での「水行直し」の必要性
霞ケ浦の湖尻に土砂が堆積、同様に霞・真菰などの水生植物が繁茂して川幅D堀
幅が狭くなり、水の流れがよくない
 

く幕府の「水行」政策と「水行直し」〉
享保11年(1726) 関東河川の堀浚いを命じる
享保12年  四十八津が湖尻の堆積土砂浚渫を願い出る、不実施
享保19年  同様の願いをしたが、不実施
安永6年(1777) 霞ケ浦周辺の一部村々、田畑作物が水腐れになるとして、堀浚いの普請を願い出る、大規模な川浚いを実施
安永9年 沿岸107ヶ村惣代が幕府に水行直しを願い出る
 ※流作場の開発や水生植物の繁茂で川幅が狭くなる、寛保2年の大洪水
 →水腐れや船舶運航障害が発生、湖尻での網代漁で他の漁村の漁獲量減少

寛政3年(1791) 幕府が新たな堀割普請を実施
享和3年(1803)附洲・寄洲は開発の対象ではなく、水害の原因になるとして、草木の刈り取りを含めて除去するように
文政3年(1820)行方郡牛堀地先の堀浚いを実施、水行の妨げになる責立て・網代の規制強化
文政13年(1830)幕府、「下利根川水行直御普請御用」の御趣意を示し、請書を提出させる
 ※水行の支障となっている場所の洲浚いや切り広げをする、また霞や真菰などの刈り流しを『御普請」(幕府が全額負担)で行い、さらに村々救済のため、必要な人足は地元農民を雇うことになった(霞ケ浦沿岸村々では農間稼ぎの漁師増加により漁業だけで生計を得るのがむずかしく、稲の水腐れで生活因窮という現状)。
天保2年(1831)幕府、下利根川通り・新利根川通り両縁。霞ケ浦口北浦沿岸村々
の水行直し実施のため役人らが村々を巡回して協力を要請→ 4月より工事開始、工事場所の中心は「牛堀前川」(人足4万5000人、工事費金2091両と永71文7分)→ 7月に工事完成(霞ケ浦四十八津の系統を引く「霞ケ浦落口自普請107ヶ村組合」が主体)
 

〈「水行直し」後の幕府の対応〉
① 幕府は霞ケ浦沿岸村々に水行の障害となる蔑・蒲の刈り払いを義務づける
② 打網・引網以外の水行の障害となる定置漁具・漁網の使用禁止(網代・笹浸しなどの小漁具)
    ↓
漁業中心の村々は、幕府の命令を受け入れられず違反
    ↓
霞ケ浦四十八津が取締機関となり、津頭が村々を巡回、取締り
水行直し掛役人が水行の妨げとなる障害物検分のため廻村
→四十人津の自律的運営から幕府の直接支配へ移行
③ 天保2年9月 幕府が霞ケ浦周辺村々へ法令伝達
・周辺村々が上納した漁猟永・冥加永・運上永・川役・浦永の状況を提出
・証拠書物として年貢割付状0年貢皆済目録を提出
 

く霞ケ浦における水行問題への賛同組織〉
① 霞ケ浦落口組合107ヶ村←行方郡の村々 ②北利根川通り12ヶ村
③鰐川組合15ヶ村 ④北浦組42ヶ村 ⑤横利根川通り11ヶ村粉
⑥名日川井利根川通り5ヶ村 ⑦享和新川組15ヶ村 ⑧利根川通り11ヶ村
⑨水神川通り11ヶ村 ⑩利根川通り37ヶ村 合計 266ヶ村
→霞ケ浦・利根川縁辺村々の申し合わせ
 

〈水行問題への村々の申し合わせ事項〉
① 霞ケ浦沿岸に繁茂する霞・蒲などの刈り取り人足を高割負担
② 水行に支障をきたす漁具(粗架巻など)発見時の役人への通報
③ 実瀬などへの植栽発見時の役人への通報
④風除・波除の囲い設置者への注意と役人への通報
⑤ 水行の場所へ魚の生贅設置者への注意と役人への通報
⑥ 附洲・寄洲へ魚小屋設置者への注意と役人への通報
⑦水行に支障をきたす漁具仕掛け人への注意と役人への通報
⑧波除の杭木の発見時、村役人への連絡と抜き取り厳守
⑨それぞれの組合村々は、持場を巡回して取り締まる
→この内容を水行直し掛役人からの「下知」として村々へ通達
→各組合の惣代らは「下知」された議定書に連判
〈天保2年霞ケ浦水行直し組合議定書の内容〉
① 御定杭の再建、地元役人と惣代が協議し、費用は組合高割
② 霞などの刈り流しの際、幕府役人・惣代の出張費用は組合高害1
③ 幕府役人の業務による廻村出張費用は、組合高割
④ 役人廻村時の禁止漁具発見時は、該当村役人が旅宿費用を負担
⑤ 役人廻村の連絡がなかった村落は旅宿費用の負担義務なし
⑥ 幕府役人の廻村があった時は、該当村役人が案内する
⑦ 組合惣代からの廻状は、刻付で順達する
③ 組合惣代一同は、毎年3月に集会を開く
⑨ 触れ出しは、佐原・潮来の両村が年番でつとめる
⑩ 幕府役人の廻村で惣代が案内した際の費用は、その組合高割
⑪ 幕府役人の廻村費用は、各組合が日数に応じて分担する
⑫ 組合惣代の廻村は4人以上の惣代で巡回、費用は関連組合負担
⑬ 惣代の辞職願は、代用できるものを見つけて願い出る
⑭ 各組合の費用負担は、幕府役人が宿泊する村落に提出する
→勘定奉行らは水行に関する高札を建てて徹底をはかった
→霞ケ浦四十八津及び北浦四十四津の津頭の沿岸巡回を申し渡す
→水行に関する申し立ては森覚蔵代官所へ届け出る
◎津頭の自治権能は弱まりながらも、そうした役割を幕府から期待される
 

島崎城跡へ飛んで行く人魂(ひとだま)の話

 

前 島崎城跡を守る会 副会長

令和7年9月1日 長谷川幸雄

 

 3年程前、城跡の草刈りに参加し、休憩の時に地元のご婦人たちと雑談をしている時、約50年前の青年団時代に経験したある出来事について話題があがりました。。

それは、ある日の夕方、島崎城跡の西の方から城跡の東端へ人魂(ひとだま)がゆっくりと流れて行き島崎城跡へ入っていったとの話題でした。

 馬の峰(まのみね)には、昔からの墓地が三か所あり、そこに眠っている兵士の魂が城跡に集まっているという話がありましたが、皆さんはこの噂話を知っていますか?と質問すると、噂は聞いたことがあるが、見たことは無いとの返事でした。

草刈り作業終了後、その帰途にて、ご婦人たちの一人の方が「人魂を見たことを思い出した」「本当だから」と念を押して私に説明してくれました。その話の内容は・・・・・

 “高校を卒業して鹿島の方へ勤めに出て、朝夕、木村商店までバスに乗るのに自転車で

八代小学校の前の道を通っていたそうです。ある日、夕方の帰路の途中のことでした。

八代小学校の後を流れている田中川にかかる橋の上から自転車を止めて一休みして

帰ろうと前方を見渡したら、正面に見える馬の峰の中腹あたりをチラチラと赤い発行体

が東の方へ飛んで(流れて)いくのを見かけたとのことです。

 よく見ると3m~4m位の帯状の棒のようでしたが特に怖くは感じませんでした。

この発行体は東端の島崎城跡の方向に流れて行く感じです。

そして、牛舎の角を曲がり左側に向いたら、後から見る形ですので、発行体は一点の赤緑の光になり、確かに城跡の堀跡の近くで見えなくなったとの事でした。”

 それでは、「この人魂を見た」という証言について考察してみます。

 ① ここの地形は、馬の峰と台上戸に続く新立山(にのたてやま)に挟まれて盆地になっており通称、前谷津(まえやづ)と呼ばれ、中央を田中川が東から西の夜越川へと流れています。

 この地域は、西から東へ風が吹き流れていますが、馬の峰の丘が防風の役割を果たし、地表より高さ20m位は影響を受けず、ゆっくり東へ移動する地形です。

南(潮来方面)からの風は新立山が遮りますので、必然的に東(城跡方面)へ流れていきます。昭和37年に発生した八代小学校を襲った竜巻も、このコースを通ったと思われます。

 ② この地は古くから農業が盛んで先進地でしたので、乳牛を経営に取り入れており、乳牛の発生する糞・尿を田畑の肥料として施して営農をしていました。

糞・尿を牛舎の近くに堆肥として野積みし、発酵すると白い湯気がユラユラと立ち登っていた事を思い出します。この白い湯気がメタンガスだと思います。

この少量のガスが上空迄行く事が出来ず、中間層(20m~25m)で横に流れ、東の城跡

方面へと流れて、何らかの原因(野火・芝焼き・炊事等)で発光して人魂に見えたと思われます。・・・・・

 それから30年後、高度経済成長期に入り、乳牛を飼う農家もなくなり、メタンガスの発生が止まり、人魂も出なくなったと思われます。

旧八代小学校の跡地脇の橋に立ち遠望すると郷愁を感じるところです。

 

【八代小学校校歌】

 ♪♪旗雲なびく島崎城に歴史なつかし緑の丘よ、ああ日の丸つけた宇宙船

    八代の児童(こども)の夢のせて、銀河のかなたに目指し行く♪♪