団員ブログ by 攻城団 
攻城団団員による団員のためのブログ を紹介します

続・究極の土の城 島崎城
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第4節を掲載致します。

第4節: 桔梗姫と新らたな農田開拓
新皇将門 ④(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

桔梗、桔梗姫、桔梗前
  「桔梗の前」に関した伝承は数多くあり、その伝承地により内容も異なっているために彼女の実在を知る事は大変難しい。将門の寵姫(ちょうき)のなかでもとりわけ寵愛(ちょうあい)が深かったという桔梗だが、一説には藤原秀郷に内通していたことで将門は討たれ、桔梗自身も悲劇的な最期を遂げたと語られることもある。更には、桔梗の終焉の地とされる「桔梗塚」も各地にあり、彼女の出自と将門ならび秀郷との関係など異なる点が多くあり定説となるものが少ない。 「この山に桔梗はあれど花咲くな。」
源氏3兄弟とのいざこざ
   今回は、桔梗は平良兼の側妾の「あやめの前」の連れ子であったと想定して話を進めています。(正室は御前と呼ばれ、側室は前と呼ばれる)、桔梗は将門と従兄弟になるのだが、従兄弟と言っても全然血筋は引いてはいないことになる。世間ではどうして坂東の田舎にこんな美しい娘が生まれたのかと首をかしげていたという。
    桔梗が、歳頃(17歳・18歳)になると父親である良兼のもとに縁談の申込みが殺到したという。良兼の羽鳥の郷から三里ばかりの所に館を構えていた源氏一族の源護(みなもとまもる)の子に、「托」、「隆」、「繁」の三兄弟があり、前々から、この三兄弟も妾(めかけ)に欲しいと揃って申し込んできていた。この三兄弟には三人の姉があり、それらの姉妹は良兼をはじめ、弟の良正、国香の息子の貞盛にそれぞれ正室として嫁いでいる事もあり、この源氏三兄弟の申込みが有力なのではと誰しもが思っていた。
   ところが、桔梗には意中の人があった。良兼はその事を知らないでいたのだが桔梗の意中の人とは実は将門であったという話しである。桔梗の父、良兼が将門の土地を横領したことから良兼をはじめ家中は逆に将門を疎外していたため意中の人が将門であることが良兼に知れれば大変なことになる事も桔梗は知っていたので最後まで言い出せずにいた。
   勿論、この頃には将門には正妻がいた。この正妻は豊田郷からほど遠からぬ神代郷の豪族、平真樹の娘の「君」である。(当時の豪族の多くは妾を数人持つのは普通であったようだ。)将門にしても桔梗は美しく情熱的な女であるがゆえに妾にしたいと考えていた。桔梗は、毎年行われている良兼の館近くにある神明社鎮守祭りの雑踏のさなかに略奪(誘拐)を計画し、将門は桔梗の計画どおりに祭礼当日、桔梗を将門の館に連れ去ってしまった。
   それから数日間が過ぎ、良兼のところから郎党頭が将門の館にやって来て、良兼がカンカンに怒っている事を告げ、即刻、桔梗を返すよう要求して来たが、将門はもの柔らかく伯父、良兼の顔を潰して申し訳ないと丁重に詫び、桔梗も望んでいたのだから決して粗末にはしないからと良兼叔父に伝えて欲しいと言い付け使者にはご馳走をして帰した。そんな事が二度、三度続いたがその後は良兼伯父から何も言って来なくなった。
   だが、桔梗をめぐっては常陸源氏の御曹司、源 托、隆、繁の三兄弟は将門に対して根強い恨みを持つようになり、源氏との関係は更に悪化した。婦女子をめぐる争いだったと伝えられる。
   平真樹は、望王系の平氏としては確認できないが将門の強力な同盟者であり、真壁・新治・筑波の広い範囲に領地を保有していた。源護と土地を巡る確執から度々争っていたとされる。真樹はこの紛争の調停を将門に頼み将門はそれを受けて真樹を援護したことから、さらに源護と御曹司の三兄弟の恨みをかう事にもなり、将門と源護との争いは益々激しさを増していく事になってしまった。
   承平2年(932年)頃、将門(30歳)は、馬鹿になったかのように働くようになる。そして今に見ていろ。かつて父、良将の時のような広大な耕作面積と牧場の再建目標を立てて目的に邁進して行く、やがて、5年、10年後にははっきりと実績を見せてあの伯父共を見返してやる。当時、豊田郷付近は未開の土地も多くあり、開拓しさえすれば新たな農田は無限に得られた。山を伐り沼を埋め治水に励み、その年の一年で豊田郷の面積と農産は面目をあらためた。
   承平2年(932年)~3年(933年)にかけて、各地で春・夏場の降水量が減り日照り続きで秋には大風や洪水が多発するなど凶作に悩まされ、さらに疫病の流行まで加わって土民たちは僅かな税物も払えずに小屋を捨て、郷を捨てて一家離散して思い思いに自分の身を奴隷に落とした。そんな流民が豊田の郷にもおびただしく入り込んできていた。
   将門はそんな流れ者を追い払わず、むしろ幸いとし「食えない者は俺と働け、働くところに飢餓はない。」と、ばかりに流民を多数抱え込んだのであった。「来るもの拒まず」であった。そうして将門は短期間で鬼怒川沿いの湿地帯を開拓し広大な耕作地を有し、人(時には農兵に変わる)もたくさん抱えることになり、その広大な耕作地には稲穂が良く実り村人たちが喜んだのは言うまでもない事だった。
    こうして三年の歳月の後、将門は坂東の地で小豪族として充分な力を付けていた。
そんな将門の豊田での躍進を快く思わない輩(やから)もいた・・・・・・。
 -次回の第5節へ続く。-

2025年(令和7年) 4月23日    森 田 衛 (神栖市)




茨城県立歴史館の令和7年度企画展 
4月26日より6月22日にかけて「常陸平氏/将門・清盛につながる一族」が開催されております。
今回の企画展において、島崎氏関連の下記文化財が四点展示されております。
①御札神社所蔵「古面五面」(茨城県指定文化財)
②二本松寺所蔵「抱牡丹紋蒔絵膳椀」(潮来市指定文化財)
③長国寺所蔵「紙本著色島崎長国像」(潮来市指定文化財)
④観音寺所蔵「鰐口」(茨城県指定文化財)
島崎氏の歴史と文化財に触れていただき、潮来市の指定文化財である島崎城跡に足を運んでみては如何でしょうか。
ご登城お待ちしております。