「城跡フェスタ」in 島崎城跡2025が開催されました。
当日は天気に恵まれ、約500名の方が参加して頂きました。
会場は土子越前屋敷を中心にイベントが開催されました。
「島崎城跡を守る会」の会員及び地元のボランティアグループ「牛堀親爺の会」と城跡周辺の主婦の方たちが前日より準備して対応しました。
当日の画像を紹介します。
【受付を待つ参加者】


【タケノコ掘り体験会】
【ヤギさんとのふれあい】
【タケノコご飯・豚汁提供】
【城跡ライブ】

茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第3節を掲載致します。

第3節: 源氏・平氏の住み分けと、父(良将)の切り開いた土地

新皇将門 ③(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

    源氏・平氏の住み分け
   常陸・下総を両岸にして、武蔵に流れる他の諸川と、上総の海へ流れていく利根川とに、野毛川の末は水口(今の水海道の辺り)で結びあっていた。
この大水郷地帯を巡って、結城・新治・筑波・豊田・猿島・相馬・信太・真壁の諸郡があり、その田領の多くは源氏と平氏で二分していた。
勿論、その中には、「都」の摂関家領や社寺の荘園、国庁の直接管理の土地や未開地なども複雑に混み合っていた。
   その内の一方は、豊田(将門の亡父良持)、常陸の国香(大掾)、羽鳥の上総介良兼、水守の常陸六郎良正など、いわゆる平氏の一族が所領管理地として持っていた。
    もう一方は、新治郡大串に住む源氏・源護(みなもと の まもる)に属する所領管理地であった。源一族は、皆、一家名を持っている。護の子、扶、隆、繁、などそれぞれ、領土を分けて門戸を持っていた。彼らは嵯峨源氏らしく名前を一文字にしていた。総称してこの一門の事を「常陸源氏」と言った。
    平将門の父良持の健在だった頃には地域の中には言うまでもなく双方が複雑に込み入っている所もあるため、当然、「常陸源氏」と「坂東平氏」は相ゆずらずに対峙していた事も確かであった。
    しかし、良持亡き後は、将門の伯父(叔父)三家とも、源護の門に駒をつないで常陸源氏の下に従属してしまった。護は肘のふとい男であり武力もあり政略も豊かな男であった。常陸大掾職なる官職は実は源護が持っていた役だが、自分は退いて国香に代わらせてしまった。
   また、自分の子女を良正に嫁がせ次の娘も良兼の後妻に与え、さらに末の姫まで都にいる国香の子、貞盛に嫁にやっている。護は名利と結婚政策の両面から平氏の三家を常陸源氏の族党に加えてしまい、この地方唯一の豪族の長老として、誰も権威を比べうる者はなかった。
    このような状況の中に、将門は何も知らずに「都」から帰ってきたのであった。12年も「都」にいて、ただ、亡父良将(良持)の残した広大な土地だけはあるものと信じて帰って来たが、良将が遺産として将門以下の遺子たちのために三人の叔父に託しておいた田領も今となっては源氏のものとなっている所もあった。
    将門が同じ平氏一門であっても所詮黙っていては、いつまでも伯父たちは奪い取った土地を将門には返してくれそうもなかった。
そこで将門は誠意をもって訴えれば案外話はわかるに違いない。欲は張っていても、たとえ幾分かでも返してくれないと言う話はないだろうと三叔父の所へ帰京の挨拶を兼ねて出かけて行った。
    ところが、叔父達は預かった荘園や牧場を将門に返す気は無かった。
将門よ、10数年という長い間、三男の平将頼以下の父なし子を幾人も、あのように無事に成人させて来たのだ。そればかりではない、もしも我ら伯父(叔父)達の庇護がなかったら、良将の残した土地といえ、館といえ、牧場といえ、那須、宮城、東北の俘囚や四隣の豪農が一尺の土地でも狙っていたのだ。
それを10数年間もの間防ぎ守って来たのは誰だ。今、貴様が都から帰って来て住む家にも困らず耕す土地もあり家名も郷土の豊田に存続しているのであろう。何が不満があるというのだ。
    将門は更に口にした。しかし、父が、一代をかけて切り開いた土地、功によって賜った相伝の荘園。それらに付属している太政官の地券、国司の証など、遺産の大部分も返して頂いておりません。
    だまれ、将門。返せの、変えらぬのと、単純に言っているが、広大な領地を多年に渡り源氏の護ともに守って来るには、それだけの犠牲があるのだ。そのために、何度、隣郡の侵入者と血を流したか知れぬ。誰が守って来たのか良く考えてみろ。我々伯父(叔父)たち三家が守って来た土地だと再三言い張り将門の言い分は通らなかった。
    将門はその時は黙って館に帰ったが、その後も伯父たちに奪い取られた土地を取り戻そうとするのだが上手くは行かなく、将門は、「都」で目を掛けてくれた藤原忠平にも泣きついて庁の判官にも話を通して貰ったがなぜか事が運ばない。
    忠平は、「遺産の事は叔父達とゆっくり時間を掛けて話し合って解決してくれ」と言う事にしかならなかった。

-次回の第4節へ続く。-

2025年(令和7年)4月18日     森 田 衛 (神栖市)
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第2節を掲載致します。

第2節: 将門、京の都より板東に帰る

新皇将門 ②(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

小次郎将門、坂東に戻る
  延長8年(930年)4月、平小次郎将門は、「都」を離れて故郷の下総の国豊田郷を目指した。将門が「都」にのぼった16歳の時(延喜18年(918年)、以来、一度も郷里に帰ったことが無かったが街道沿いから見る武蔵野は武蔵野のままであった。
 坂東平野の丘も、筑波山も、大河の利根川も、鬼怒川も、12年前とそっくり彼の記憶のままで、何一つ変わってはいなかった。
  小次郎将門は、「都」では藤原忠平のもとに身を寄せて、その家人になり、「禁裡滝口の衛士」になっていたのだが、何とかして「検非違使の尉」の役職で、国(豊田郷)へ帰りたく、いろいろと運動したが、うまくいかなかった。「検非違使」とい職は、刑事・民事にわたり取り調べや判決の権限を持つものであり、地方では大変恐れられた。
  目を掛けてくれる藤原忠平にも泣きついて、庁の判官にも話を通してもらったが、なぜか事が運ばなかった。忠平は、将門の郷里近くの「相馬御厨の下司」になうようにはかってくれた。
  「都」より50日余りを費やした旅を続け豊田郷に近づくと、あちこちの田園には百姓たちが20人、30人と群れをなして働いていた。さまざまの豪族が、家人、郎党、奴隷などを使って広い土地を耕し、米・麦などを作っているのである。
  小次郎将門は、こうした土にまみれ働く人々の姿を身近な感じで眺め、生まれ故郷の土の匂いを感じて心地よい気分にしたっていた。
  そんな生まれ故郷の姿や匂いを味わっていると、行く手の道にひとかたまりの人の群れが目入ってきた。それは弟たちであった。三郎将頼、四郎将平、将文、将武、12年間の時の経過でどれが誰やら見分けも付かないが、皆、田舎武士には違いないがそれぞれ頼もしげな逞しさであった。その夜は帰国祝いの小宴が執り行われた。
  小次郎は、翌朝早く広い館や柵門を一巡して見た。たくさんの土倉も覗いてみたが以前はそこに充ちていた稲もなく武器も殆ど失われていた。あんなに多くいた召使たちも数えるほどしかいない。それも皆、他には行き場のないような老巧や弱々しい病者ばかりであった。
  小次郎は、三郎将頼に尋ねた。俺の留守中はお前たちの世話は伯父たちがしっかり見てくれていたんだな。三郎将頼は・・・いえ。私たちはここにいても伯父殿たちの召使も同様でした。伯父たちに不平を言えば、何を言う。お前たちは誰に育てられたと思っているのだ。幼少に親はなく、兄の小次郎もあの愚鈍、もし、我ら伯父がいなかったらとうの昔に豊田郷もこの館も他郡の土豪に攻められ奪われてしまい、お前たちは他家の奴隷に売られるか、命もあるか否か知れたものではないのだ。無事成人してきたのは誰のお陰だと思っているのだ。と恩を着せるばかりだったという。
  でも、まあ、しかたないか。まだまだ、小さな末弟たちに分け与えても、余りある程の土地が有るのだから働けばいい。一生懸命に一からやり直せば良い。土地さえあれば何がなくたって以前のように戻すことは出来る。
  ところがその古くからの荘園も、新田も、牧場も、伯父達三家で自分の息子達に分けてしまっていた。将門は、そんな馬鹿なことがあるか。おまえ達が幼かったから伯父三家で俺(小次郎将門)が京から帰るまで預かっていてくれる約束になっているのだから俺が帰って来たからには我々に返してよこすのが当然だろう。約束なんだから。
  小次郎が「都」から帰って数日後、帰国披露目を行う回状を伯父(叔父)たちに出したが、三家の伯父(叔父)達は、何かと言い訳をつくり出席しなく、家来を代理としてよこした。伯父(叔父)たちの中で来たのは相模国の良文叔父だけであった。
  この良文叔父だけが他の三伯父とは違い将門の味方であった。この披露目を境に小次郎は、「平将門」を名乗ることになった。元服のときから将門と言う名は持っていたが、「都」へ出てしまったので何となく童名のまま過ごしてしまっていたのだった。
  後々のことになるが、この良文叔父も最初の頃は将門に近い立場で接していたのだが、「都」から将門が朝敵として追討令が出されると一線を画するようになって将門から離れて行くようになる。
-次回の第3節へ続く。-

2025年(令和7年)4月15日 森 田 衛 (神栖市)