茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第6節を掲載致します。

第6節: 平貞盛の帰郷・川曲の合戦
新皇将門 ⑥(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

平貞盛の帰郷 (承平5年(935年2月)
   貞盛は京で武官「左馬允の官」として奉職していたが、休職を願い出て夜を徹して「都」から故郷の坂東に戻って来た。それは言うまでもなく、将門が父の東石田の「館」や判類の家・筑波山麓の民家まで、すべてを焼きつくしてしまったからである。父.国香の「館」は小貝川を渡った東石田にあったが、今では「館」の見る影もなく焼け落ちていて兵達の遺体もそのままであった。
父.国香の遺体を焼け跡から探し出し埋葬した後、郎党に命じて館の再建を行った。
  その後、親族が集まった席で平良正叔父がこんな事を言い出した。「妻が、早く将門を討て。とうるさくていけない。」良正叔父の妻が源護の娘だからである。
しかし、貞盛は黙っていた。貞盛は将門を討つことにどうも積極的にはなれないところもあった。そもそも、今回の件は源護の息子たち(托、隆、繁)が仕掛けた合戦であり、将門に理がある。今までの将門に対する伯父たちの横暴も貞盛は知っていたからである。将門は常に被害者の立場であることも貞盛は知っていた。
  一方、源護の方からも貞盛に対して「いつ、将門を討つのだ」とせがまれる。早く出陣の日を決めろ、そなたは国香殿の後を継いで平氏一門の総領になったのから一日も早く父上の恨みを晴らさねばならぬ立場にあるのだ。
それに、3人の息子を殺された私の気持ちにもなってみろ。お前の正妻はわしの娘なのだから舅のわしの言う事を聞けないのかと激怒した。
貞盛は、父.国香がなぜ参戦したのか、なぜ、踏み止まらなかったのかと改めて心を痛めた。どうみても今回の事件は将門に非がある訳でもないので、いっこうに積極的にはなれずにいた貞盛だった。
  その貞盛の態度に、水守の六郎良正は、業をにやして、だめだ、都人の風に染みた奴は。俺一人(良正)でも将門を討つ。騎馬二百、徒歩兵四百を率いて豊田へ向う準備をした。

川曲の合戦 (承平5年(935年)10月) 
 野爪(野本)の合戦以来、将門の人気も高まり、領地も増え、農兵も多くなっている現状を考えると、いま将門を討たねばこちらの実力が更に低下してしまうと良正は思ったのであった。
良正は、騎馬二百、徒歩兵四百を動員して鬼怒川河畔の川曲村(新治郡川曲村)に繰り出した。川曲と豊田はそれほど離れていない。南下すれば一気に将門の館を攻略できる位置でもあった。
 将門がこの事を知ったのは翌日のことであった。良正の出陣を聞いた将門は騎馬隊を編成し石井の営所を出て、鎌輪の営所で待機していた弟たちの騎馬隊と合流し二百騎ほどで良正軍を迎え撃つために北上した。
良正軍の方が徒歩兵四百人ほど多い分有利に思えたが、騎馬隊と騎馬隊とが移動しながら矢合わせが始まり、そのうちに良正は異変が起こっている事に気が付いた。
 敵(将門)の弓の有効距離がこちら(良正軍)より数間長く、そのためこちらの矢ごろに入らない先に射落とされるものが多く、敵(将門)の騎馬隊はこちらの矢ごろに入らない先に一斉に討っては、さっと遠のくのであった。
 将門の騎馬隊の恐ろしさを感じた良正軍の兵は腰が引けて怯みが生じ逃げ出す兵が続出した。進め。進め。と良正は必死になって叫んだが良正も矢傷を負いしぶしぶ退却を命じた。
 追撃して水守の営所を焼きましょうか。と、弟の将平が将門に言うと将門は追うな。と命じそのまま館に引き上げた。良正が単独で攻めてきたことに将門は不審の念をいだいた。この戦に平良兼叔父は一兵も加勢を出してこなかったのだ。平一門の中に乱れが出ているのだろうと将門は思った。
良兼は上総の国司である。政府の地方長官の身であるがため私闘のためにみだりに兵を動かすことは出来なかったのかも知れない。

平良文の参戦
 川曲村の合戦で破れた平良正は、何としても将門を討たねばと、将門の悪行を散々と文に書き平良兼に送って一緒に将門を成敗してくれるように懇願した。なぜか、良正の言葉を信じた良文はすぐに良正や源護の援護を約束してしまった。
 そして、良文は軍勢を集めて、周りの役人の制止も振り切り、 承平6年(936年)936年6月26日に下総より水守の平良正の館を目指して出立した。
良兼の本拠地、上総国武射郡(山辺武射は上総の管内であるが、地形上は全く下総入りの場所で、現・山武郡芝山町・横芝町・松尾町・山武町・蓮沼村・成東町)の小道を通り、下総国香取郡神前(香取郡神崎町)に集結。神前の津から船出して対岸の常陸国信太郡江前津(稲敷市江戸崎)へ渡り、阿見.荒川沖を経由してつくばの拠点「水守」の平良正の館に到着した。そして、良文は到着際して良正らが迎えに出なかったことに腹を立て、さらに国香の嫡男の貞盛が将門攻略に参戦していないことに対して貞盛にも合戦に加わるように説得した。
 こうして承平6年(936年)夏、良正、良兼の兵力に合わせて、さらに石田の貞盛(亡き国香の子)の家人や常陸源氏を加えた数の兵が三度(みたび)将門を襲うことになる。
 叔父、甥(将門)の身内の「いざこざ」から思いも寄らぬ方向に発展し、常陸国全体を舞台とした本格的な内戦状態に向かって行こうと良正、良兼、源氏の連合軍、数千が下野国に集った。
 将門はまさかこんな大軍が押し寄せて来ていると知らずに、敵が集っているとの情報を得て百騎ほどで偵察にやってきた。この頃には、将門軍は度重なる合戦で兵具も乏しく兵も薄いものとなっていた。
将門の軍勢に気がついた良兼の軍勢は、将門をすっかり見くびり、一気に押しつぶせると気が競い立ち攻める気配を示した。勢いよく将門軍に襲いかかろうとした。
ところが、将門は攻めようとしている敵陣にいち早く攻め込んだ。
連合軍は一気に崩れた。たちまち敵兵は80人以上の死傷者を出したのだった。

良兼、下野の国府に逃げ込む。
これを見た良兼軍は総崩れになり、一瞬の間に戦意が失われ兵は逃走し始めた。陣営も崩れだすと止めるすべがない状態となり、良兼、良正、貞盛の軍勢は四散し千人ばかりが下野の国府(栃木市田村町・宮ノ辺)に逃げ込んだ。
国庁に行けば、たとえ負け戦であろうが良兼は下総の国司である。下野国庁に飛び込んで、これこれだと説明すれば下野の国司たちも決して将門には味方はしないだろうと考えた。防備を固めて一緒に反撃してくれるではと良兼はそう考えていた。
 下野守は藤原弘雅で掾は藤原秀郷であった。良兼の話を聞いた秀郷が言った。どうもこの合戦の性格が良く分かりません。私戦に下野国庁の軍が加勢する訳には行きません。下野国庁は手出しを控えます。早々に下野国庁から引き揚げてください。
 上総・下総・常陸の国庁は勿論のこと「都」からも将門追討の命令書が出ていないそうではありませんか。ですから私はこの合戦は私戦だと申し上げているのです。
 そんな問答を繰り返している中、その頃には既に将門軍は下野国庁を取り囲んでいた。将門は迷った。このまま国庁に攻め入って伯父達を殺すか迷っていると分別人の弟が将門に近づき、たとえ非は伯父たちに有ったにしても係わりのない国庁を攻める事はいささか具合が悪いのでは。その言葉で将門は決断した。
 国庁の裏門を壊せと命じた。裏から突入するのですかと弟が聞くと、そうではない、伯父たちを逃がすのだ。突然の出来事に国庁の中に居た良兼は何が起こったのか分からなかった。将門が攻め入る様子も無く裏門が開いた。「これは罠だ。と良兼は思った。」しかし、兵たちが先を争い裏門に殺到して行くのを見て良兼も逃げ出した。
 馬を降りた将門は国庁の建物に入り、藤原弘雅と藤原秀郷にこれまでの経緯を説明した。藤原弘雅は将門に怯えていて話もいい加減に聞き流していたが、秀郷は最後まで将門の話を聞き良く分かりました。お話は正式に理がある事を国庁の日誌に記録し「都」にも報告いたします。と、秀郷は答え、将門は兵を引き上げた。
 これで一連の合戦については将門に非の無いことが「都」にも伝わるだろうと安堵した。
しかし、それもつかのまであり、「都」から将門に召喚・出頭命令が出される・・・・・・・・。
-次回の第7節へ続く。-

2025年(令和7年) 5月12日 森 田 衛 (神栖市)

   
茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第5節を掲載致します。

第5節: 仕掛けられた合戦
新皇将門 ⑤
(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)

仕掛けられた合戦 (野爪(野本)の合戦)
   野爪(野本)という場所は、旧、真壁郡明野町周辺と思われ今の筑西市赤浜辺りとする説が有力視されている。承平5年(935年)2月、将門は郎党百騎ほど引き連れて豊田の館を立った。開墾に着手した広大な土地の一つが下野国へまたがるので下野の庁へ赴いて了解を求めるためであった。
   下野街道を野毛川(鬼怒川)に沿って行くと、やがて草地が細長く続き左右が雑木林になっている所に差し掛かった時、前方中程左右の林の中に、二、三百騎くらいの兵が潜んでいることに気づいた。すぐさま援軍を頼むために二騎を豊田に走らせた。
   そして本隊は全速力で道を引き返すが、進むにつれて前からも敵の姿が現われた。挟み撃ちになったのであった。こうなると敵陣を強行突破するより方法はなかった。
   将門の一団は、敵の攻撃で次第にぽろぽろと欠けて小さくなり馬も人も半数ほどに減ってしまったが将門は無傷であった。この時点では、今回の襲撃の相手が誰なのか将門には分からなかった。
これまでに将門は戦争を仕掛けた覚えもなく、ただ、がむしゃらに未開の耕作地の整備をして馬鹿みたいに働く日々を送っていたのだから恨まれる覚えも無かった。
   だが後に分かるのだが、これは源氏の襲撃であった。

源護(みなもとのまもる)は、三人の息子たち、托、隆、繁に出撃を命じたのであった。三人の息子たちも将門に対しては日頃から恨みを持っていた。桔梗の一件(恋仇)が有ったからである。この襲撃は実は裏では伯父の平国香も加担していたのであった。
   将門の館では急報に接すると平真樹の兵と併せて二百騎に武装させ弟の将頼と真樹が救援に駆けつけた。やがて追撃してきた敵が岸に固まり陣を立てた。
その時すでに将門軍は取り囲まれており、進む事も退く事も出来ない状況下になっていた。将門は異常なほどの興奮状態になり敵本陣に切り込む事を決断をした。
   将門軍は一人一人が死を知らない死神のように敵に向かって行った。この時、既に源氏軍とは戦意が違っていた。やがて、源氏軍の中から三騎、五騎と逃走する者が出はじめ、それがやがて二十騎、三十騎と増幅していき途端に源氏軍の全軍が逃走する始末になり、劣勢と知った源氏、三兄弟は近くの東石田の館に急使を出し平国香に応援を求めるが国香は兵を出したものの国香自身は出陣しなかった。
   しかし、次々と兵が東石田の館に逃げ込んで来るので国香も出陣せざるを得なくなった。国香の出陣を知ると将門は「しまった。」とつぶやく。国香伯父にはこの戦いには加わって欲しくなかったのだった。だが、もう遅かった。敵からの襲撃を受け野獣化した将門軍の兵士を抑えることは出来ない状況に事態は進展していた。
   逃げ去る敵を見ながら真樹が将門に馬を寄せてきた。「これからどうする。」将門は答えた。敵将と郎党(上級の家人)の家を全て焼き払う。
当時、勝者の兵は敗者(加担した全て)の居住宅を襲い高価な物品を盗み、武器や兵糧を獲たりし、一族はすべて切り殺され最後に家を焼き払うというものだった。当時は、このような残忍な行動が当然のように行われ、将門だけが今回特別な悪行行為を行った訳ではなかったが、それはひどいものであった。
   野獣化した兵士はとどまるところを知らない。当然であろう切るか切られるか、生きるか死ぬかの生き地獄の戦闘の後だから冷静な判断など誰一人出来るはずが無い。
    ついに翌日も翌々日も、敵地を荒らし続け火の手は野爪一帯だけでなく、筑波、真壁、新治の三郡に渡った。日吉神社を焼き、承和寺も焼き払い源護の大串の館を焼き払い、平国香の石田の営所も焼き払った。この戦いで源護の三人の息子は討ち死にした。国香も負傷し戦場から一時は館に戻ったが将門に火を付けられて苦しみに耐えかねて自決したという。 (承平5年(935年)2月。国香64歳。)
   この戦いで民家、貯蔵庫など五百戸以上が焼け、人畜の死骸もおびただしいものであった。幸いなことに、今回は叔父の良兼と良正がこの戦いに参戦しなかった。
   これ以降、豊田の館は家人郎党で溢れかえっていた。彼らは将門の家人であるかのように振る舞い自分の古巣には戻らなかった。戦場から凱旋するときに、敵地の馬を何百頭も曳いてきたし、その馬の背には、財物、食糧など積めるだけ積んできた。郎党が何人増えようが将門の館では困る問題ではなかった。彼らに言わせれば、多年に渡り、先代良将(良持)の荘園田領を横取りした物だ、これくらいは年貢としても取り上げてやるのが当たり前だと言うのであった。
   戦乱の結果、広い土壌や農兵の移動になって現われ、板東の荘園の大半が国香や源護の支配を離れて将門の下に帰属してきたのであった。
この一件により、住民の尊敬も将門の一身に集まり、今や良将の在りし頃の豊田館に巡り還って来るかに見えた。ところが、源氏や筑波の平良正、良兼叔父などから見れば事態はとても座視できないものであった。
   この事件は「都」に居る国香の息子・貞盛の耳にも入った。貞盛の驚きは言うまでも無い。貞盛は心の中でつぶやいた。「将門の馬鹿め」なぜ、源の三兄弟を倒し、大串の館(源氏の本拠地)を焼きつくした時点で戦いを止めなかったのか。仕掛けられた戦いだけを終わらせれば良い事であろう。
父の東石田の館や判類の家・筑波山麓の民家まで焼く必要は無かったのに、なぜ、ここまでの暴行の限りを尽くしたのだ。
   こんな事をしてしまっては、ただの暴徒に過ぎないではないか・・・・。と貞盛はつぶやいた。それに、このまま争いを続ければ坂東の平氏一門は内輪の争いで滅亡することになると貞盛は思った。 
この一件で貞盛は板東の地に一時帰郷をせざるを得なくなるのでした・・・・・・。
                                  
   次回の第6節へ続く。-

2025年(令和7年) 5月5日
                  森 田 衛 (神栖市)