島原の乱、由比正雪の乱を乗り切った「知恵伊豆」 | キャリア・読書・人生の窓

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汝の一日、かくの如く終れば、汝の一生もまたかくの如し。
そうだ、今日考えたことを書き留めておくことにしよう。

 3月16日は江戸幕府・将軍家光の時代の老中

松平信綱(のぶつな)の命日。

(1596年~ 1622年)

世に知恵伊豆と呼ばれ三代将軍家光の老中として

活躍した。


 信綱は慶長 元年(1596年)、徳川家康 の家臣・

大河内久綱 の長男として武蔵国 で生まれる。

慶長6年に叔父・松平右衛門の養子となる。


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 慶長8年9月3日、将軍世子の徳川秀忠 に、

11月には正綱に従って伏見城 に赴き、11月15日に

徳川家康 と初めて拝謁した。


 慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・家光

が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じらた。


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慶長18年(1613年 )1月28日に井上正就 の娘と結婚。

後日、家光の将軍宣下の上洛に従い、

従五位下 伊豆守 に叙位・任官された。

寛永5年(1628年 )1月5日には相模国 所領を

与えられて、1万石の大名 となった。


 このときに一橋門内において屋敷を与えられた。

寛永7年(1630年 )には上野国 白井郡・阿保郡

などで5,000石を加増される。

寛永9年11月18日には老中と小姓組番頭を兼務。


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 寛永10年(1633年)3月23日、3万石で武蔵

移封され、忍城 付の与力20騎・同心50人を

預けられた。


寛永12年10月29日、それまで兼務していた

小姓組番頭を罷免された。

11月には寺社奉行 や勘定頭、留守居などの職制を

制定。

11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を

固めて職務を円滑に進めることができるように改革

を進めた。


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・・・・ねえ。


   あのね、松平信綱は


   なぜ、「知恵伊豆」って呼ばれたの?


~~それはだ、


   幼少の頃から才知に富んでおり、


   柔軟な考え方の持主だった。


   官職の伊豆守から


   「知恵伊豆」=知恵出づとかけた


   となったのだ。


・・・・へー。


~~またこんな話もある。   


   酒井忠勝が阿部忠秋に



  「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。



   あれは人間と申すものではない」



   と評しているんだ。



・・・・頭の回転は並の人間じゃないというわけね。



~~頭の柔軟なことでも他を圧している。



   たとえば


政治の取り締まりに関して信綱は


  「重箱をすりこ木で洗うようなのがよい。


   すりこ木では隅々まで洗えず、逆に


   隅々まで取り締まれば、


   よい結果は生まれないからだ」


   と述べている。


  それに対してある人が


  「世の禁制は3日で変わってしまう事が多い」


  と嘆いていると


   「それは2日でも多いのだ」と言った。


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 寛永14年に肥前国 島原 肥後国 天草郡 などで

キリシタン一揆が発生した(島原の乱 )。

当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり信綱は

戸田氏鉄 と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理の

ために派遣されていた。

だが寛永15年(1638年 )1月1日に重昌が戦死。

代わって信綱が幕府軍の総大将に就任した。


 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船

のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。

1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆

の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。


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 この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きて

しまい、2月28日までに原城を陥落させた。

信綱は一揆の総大将である天草四郎 を処刑。

また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任

ありとして処罰を言い渡した。

 戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年1月5日

には3万石加増の6万石で川越藩 に移封された。

信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川

川越街道 の改修整備、玉川上水 野火止用水

開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固め

小江戸と呼ばれた川越の発展の基礎を作った。


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 島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や

武家諸法度 の改正、ポルトガル 人の追放を行なう。

またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国 制を

完成させた。


 寛永15年(1638年)11月に土井利勝 らが大老

なると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。

 慶安4年(1651年 )4月の家光没後はその息子で

第4代将軍となった徳川家綱 の補佐に当たり、

家光没後の直後に起こった由比正雪の乱を7月に

鎮圧した。



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(注)来歴等に関する出典はWikipedia他