3月11日は江戸時代・山形の米沢藩・藩主
上杉鷹山(ようざん)の命日。
江戸時代屈指の名君。
米国・ケネディ大統領からも尊敬された人。
(寛延4年~文政5年)
くしくもこの日は近年では東日本大震災の日。
大震災から5年の歳月を経て今も復興途中だが
上杉鷹山も自藩の大改革をなんと55年の年月を
かけてやり遂げた。
鷹山は九州の小大名・秋月家から養子となって
第九代米沢藩主となった。
この時、弱冠17歳。
率先垂範、米沢藩の改革に取り組んだ。
当時米沢藩は転封や継子問題のために
百二十万石だった石高が十五万石にまで激減し
鷹山が来たときには借金地獄の真っただ中。
藩士はもとより農民の生活は悲惨を極めていた。
鷹山がまず手をつけたのは大倹令を発し、自ら徹底
した倹約の実行だった。
その節約ぶりは藩主の身のまわりの支出を従来の
七分の一に削減。
日常の食事は一汁一菜、着るものは木綿だけにした。
大名の生活としては異例中の異例。
恥も外聞も気にしなかった。
藩政にあっては、
①農業の整備
②水路の開鑿(かいさく)
③織物などの特産品による殖産興業
④藩校の設立
⑤公娼の廃止
などに力を入れた。
・・・・・ねえ、ねえ・・・
公娼ってなに?
~~ ああそれか
それはねえ、公(おおやけ)で
行われる売春のことだ。
・・・・・へー。あったんだあ。
でも若い女性はやりたくないんでしょう?
~~そうなんだ。
本当はやりたくない。
ところが不況のどん底で他に稼ぐ所が
ないのだ。
鷹山は織物などの特産品による殖産興業
を盛んにし、彼女達の働き場所を作った。
そこで公娼は断固廃止することができたのだ。
・・・・・反対もあったんでしょう?
~~ あったよ。
そのさいたる意見は
「公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、
もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされる」
というもの。
これに対して鷹山は
「欲情が公娼によって鎮められるならば、
公娼はいくらあっても足りないのだ」と言った。
こうして我が国初の公娼制度廃止が実現
した。
鷹山の施策は経済から教育まで多岐にわたった
が旧習に泥む藩士や民衆の強い抵抗に加え、
折からの相次ぐ冷害、干害にも災いされ、ほとんどの
改革が永いスパンを要する大事業とならざるを
得なかった。
それでも鷹山はひるまなかった。
改革が実を結び、ようやく藩が物心ともに危機を
脱する目途がついたのは、鷹山晩年のことであった。
<上杉鷹山の名言のひとつ>
「なせば為る 成さねば為らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり」
(やろうと思えば何でもできます。
できないのはやろうとしないからです)
(注)来歴等に関する出典はWikipedia他