②富士山大噴火
こちらの記事に続いて、[仮定]ご先祖様の金子氏が登場する富士山噴火の記録です。
富士山噴火時、実は伊勢参り中だった
富士古文献には「富士山の火山活動が詳細に記録されている」と林業技師や富士山溶岩洞穴研究の調査を行った専門家からもお墨付きを得ています。
延暦の大噴火の記録
延暦の大噴火は西暦800年(延暦19辰年)4月に富士山の複数個所から噴火し、先現(浅間)大神宮も焼失したそうです。
まず3月8日の暴風雨から始まり、それは三十日ほど続き、4月8日、9日に至って大激震と共に、富士山の八方から溶岩・熱泥が押し出し、山間渓谷、民家、神社仏閣に至るまでたちまち溶岩満流の世界。
民家、人、馬、牛、鹿をはじめ諸々の鳥獣、草木まで、みな焼失死、山々は赤く染まり、湖はどこもみな溶岩熱泥が押入り魚類はことごとく死んで浮き上がったとの記録。
幸い場所の良い所に住んでいた者は甲斐、両毛、武蔵、下総、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、信濃、越後等に逃げ延びた。
3月14日から4月18日まで富士山峯は自焼し、昼は煙で暗く、夜は火光が天を照らし、その音響は雷のようで、灰は雨のように降り、山を下る水はみな紅色であった。
一族郎党伊勢詣
それより遡って2月15日のこと。
福地山(富士山)太神宮の大宮司をはじめ諸神官の一族郎党349人は伊勢太神に参詣に出発した。
(仮定御先祖様:金子副宮司もこれに参加)
まず伊勢の二見ヶ浦に周り富士山を遥拝し、
それから天照太神、豊受太神の両宮に参詣、
更に新都の名所や旧跡を訪れようと山城国平安城に行き諸々を見物していたところに、
甲斐、駿河、相模の三国の国司から早馬にて「富士山大噴火」の奏上があった。
朝廷は慌て、都は騒然となった。
宮司以下300余人はこれを聞いて皆色を失った…
この時の噴火により移住した太神宮の神官等300余人の種別とは:
大宮司 宮下源大夫元秀と一族郎党111人。
副司 金子国太夫政明と一族郎党24人。(←仮定御先祖さま)
副司 井出弾正亮明治と一族郎党15人。
宮守頭 鈴木喜平太清定と一族郎党13人。
宮守副頭 天利小膳太明仲と一族郎党13人。
副宮守司 皆川小仁多清泉と一族郎党14人。
宮守司惣元司 本郷清太兵軍政と一族郎党20人。
宮守司副元司 大住建太夫訪敬と一族郎党18人。
宮守司副元司 生沢太玉夫仲秋と一族郎党12人。
惣社家副取締頭 平太夫道弘と一族郎党15人。
惣社家副取締役 杉崎稚太夫元春と一族郎党15人。
社家惣取扱役 古屋半太夫春信と一族郎党20人。
社家副取扱役 小菅右馬駒尾と一族郎党20人。
神事宮守頭 北村豊城男佐家と一族郎党11人。
神子取扱役 福岡萬七太徐教と一族郎党28人。
噴火の被害の様子、留守番を頼まれた人たちはどう行動したのか、伊勢参りの後300余人はどう避難したのか。
大噴火と知った朝廷はどう救助の手を差し伸べたのか。
古文献には詳細に記録されており、また仮定御先祖さま・金子氏がわたしの出身地神奈川県へ移住してくることとなった流れも記されています。
御先祖探しのようであり、もし富士山の地に古くからご縁があったのなら嬉しいという思いもあり、また機会をみて続きを書けたらと思います~
参考文献:
※下二点は今は購入できず高額なので図書館などをどうぞ