ゲンロン13 訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意思について(部分) | れぽれろのブログ

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毎号楽しく購読している批評誌「ゲンロン」、その第13巻「ゲンロン13」を読みました。この中の東浩紀さんの論考「訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意思について(部分)」がたいへん面白かったので、例によって覚書や考えたことなどをまとめておこうと思います。
本論考は昨年読んだ「ゲンロン12」に掲載されていた論考「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」(→こちら)の続編にあたる論考。タイトルは「~(部分)」となっており、来年刊行予定の書籍にこの全文が掲載される予定とのことで、この「ゲンロン13」ではその1~3章までが掲載されているという形になっています。部分的な論考ですが、それでも内容は面白く、あれこれと考えさせられました。


本論考の概要(自分なりのまとめ)。

第1章では、主にゼロ年代以降の社会や、知識人たちによるオピニオンの潮流と変化がまとめられています。
80年代以降はいわゆるポストモダンの時代、大きな物語は語られなくなり、無数の小さな物語が並立する時代になったとよく一般的に言われます。それに対し、2010年代以降は再び大きな物語が語られるようになったのではないか、というのが本論考の見立てです。未来は科学技術・情報化技術のさらなる発展によりデジタル化が一層進み、AIをはじめとする最新技術を最大限活用した進歩的な未来、いわゆる「シンギュラリティ」的なるものが訪れる。人類は疫病や戦争や飢餓を克服し、情報化技術により民主主義社会はより豊かなものになる。このような思想の傾向が、レイ・カーツワイル、ユヴァル・ノア・ハラリ、落合陽一といった知識人たちによる10年代の論考などから読み取れる。
しかし2022年現在を考えてみるとどうか。新型コロナウイルスやウクライナ戦争を経験した我々にとって、このような未来が訪れるという主張は正鵠を得ていなかったのではないかというのが、世間の一般的な見立てなのではないかと思います。
その一方で、統治の効率を上げるために情報化技術を利用し、統治にとって「良き国民」と「そうでない国民」を選別し、問題が起こる前にいち早く後者を排除しようとするような動きも見られつつあります。本論考ではこれを「シンギュラリティ民主主義」と名付け、著者はこのような排除の思想を否定します。我々が「シンギュラリティ民主主義」抗うにはどうすればよいか…?

第2章では、18世紀フランスの思想家、ルソーの人間と思想をまとめ直し、民主主義そのものについての考え直しがまとめられます。
ルソーは一般的には「社会契約論」の著者として知られ、啓蒙思想時代のフランスが生んだ、現在の民主主義の祖のような人物として位置付けられている人物。しかし本論考によるとルソーの人間性はなかなかユニークで、社会論の他にも教育論や小説や自伝やオペラなどの仕事にも取り組み、後のロマン主義時代を思わせるような著作も多く、さらにはその性格は現在で言うところのコミュ障的であり、メンヘラ的ですらあったとされます。簡単に言うとルソーはいわゆる社会性の乏しい人物。このようなおよそ「民主主義的」ではない人物が記した民主主義に関わる著作の本質とは何か。
ルソーと同時代の思想家であるジョン・ロックやホッブズの考えは、ざっくり言うと、人間一人一人がバラバラである状態(万人の万人に対する闘争状態)が自然状態であり、これではまずいので人間は社会を必要とする。人間一人一人の個別の意思が重なったもの=全体意思が民主主義を支える、という考えを元に民主主義が説明されます。ところがルソーは違う。ルソーにとってはそもそも社会が存在する方が自然状態である。人間は放っておいても勝手に社会を作る。人は「孤独だから社会を作る」ではなく、人は「孤独でもやっていけるにも関わらず社会を作る」。そのような人間に対する考察の傾向は、ルソー自身のパーソナリティと連続的です。
かかるルソーが提唱した「一般意思」なる概念は、人間一人一人の個別の意思の集積(一人一票の民主主義的なもの)とは異なり、集合的無意識や統計的法則性に近いものとして説明可能。昨今流行りのビッグデータ解析のようなものは、実はルソーの言う一般意思の議論と親和性があり、1章で展開された「シンギュラリティ民主主義」に連続しやすいものなのではないか。ルソーに代表される民主主義論が、「シンギュラリティ民主主義」的なものに陥るのは、ある意味必然なのではないか…?

第3章では、ビッグデータ解析などを例として、「シンギュラリティ民主主義」の本質に迫ります。
「シンギュラリティ」民主主義は、人間個々人の様々なデータを連結し、統治権力が一括して管理することにより、社会的リスクの高い人物(安全・安心な社会をおびやかす恐れのある人物)をビッグデータ解析によりあらかじめ選別し、これを排除しようとするような考えです。これにより統治コストの上昇を防ぎ、安全・安心な社会を統治者は被統治者に提供する。
一部のリスク要因となる人物の排除はどのようにして行われるのか。本論考によると、ビッグデータ解析では個々人を個別に一人一人チェックすることは不可能で、必ず「似た人のグルーピング」が行われる。例えばA氏が反社会的な行為を行った場合、ビッグデータ解析にてA氏と似た傾向のデータを持つB氏やC氏やD氏や…も合わせて(例えば予防拘禁のような形で)排除される。
「似た人のグルーピング」によるグループを個人と同一視し、グループを丸ごと排除する。このようなグループと個人の同一視に依存する社会、個々人やグループの変容を許さない社会(≒<訂正不可能性>的な社会 ≒<誤配>なき社会 ≒閉鎖的<家族>)モデルは、「ゲンロン12」で言及された社会(≒<訂正可能性>的な社会 ≒<誤配>ある社会 ≒変容する<家族>)モデルとは対を成すものです。このように「ゲンロン12」の論考との接続を予定する形で、本論考はいったん閉じられています。
前回の論考とはどのようにつながるのか?、ルソー論とのつながりは?、そして「シンギュラリティ民主主義」に抗うモデルとは…?



個人的に本論考の延長上で考えたこと。
自分は経済や労働の観点から、統治についてあれこれと考えました。

「シンギュラリティ民主主義」的な流れは、生産性向上の流れと親和性が強いように感じます。

とくに日本は高齢化社会かつ人口減少社会、高齢者人口が増加し若年者人口が減少する社会、つまり、消費が労働をどんどん上回っていく社会であり、労働人口の減少に対する対策が急務です。労働人口の減少に対しては、①出生率の上昇、②外部からの労働力の調達、③生産性の向上の3つの方法で対処するしかありません。簡単に言うと①たくさん子供を産む、②前期高齢者や子供が働きそれでも足りない分は移民を受け入れる、③1人でよりたくさんの仕事をする(例えば3人かかる仕事を1人でやる)、の3つの方法です。
統治者は①~③それぞれを推進する施策を行う必要がありますが、③1人でたくさんの仕事をするには、機械の助けは必須です。人間が行う労働の代わりを機械が行う。このような流れは、「シンギュラリティ民主主義」的な統治コストの削減とも親和性があります。

消費が労働を大きく上回ると、消費者1人当たりに充当することのできる労働の質が下がり、物価が上がり、サービスが低下し、社会が貧しくなります。これに抗うには、労働の質を大きく上げる必要があります。
自分は労働生産性向上のための機械の導入(情報化・デジタル化・IT化的なものを含む)は必達であると考えます。スーパーでのセルフレジの導入や、飲食店でのタッチパネルの注文からサイゼリヤでの紙に記載しての注文に至るまで、機械化・システム化の流れには何かと反対意見も多いですが、自分はある程度は仕方のない方向性であると考えます。機械化・システム化は、消費者にとっては場合によってはサービスの低下になりますが、サービスが全く提供できなくなるよりはまだマシです。
統治コストについても考え方は同じで、例えば社会の特定の問題解決に対し、職員100人を動員することが労働人口的に不可能であれば、ビッグデータとAIと数人の警察官が予防拘禁に当たるより外に仕方がない…、このような考えに至るのは、現代社会の必然です。
セルフレジや注文のシステム化云々程度であれば自分は我慢できますし、社会もこれを受け入れるべきだと考えます。しかし、ビッグデータ→似た人のグルーピング→予防拘禁的なるものに対しては、自分は何とかして抗う必要があると考えます。これに抗うには、別の仕方で労働の質を上げ、何らかの形で生産性を確保していくより他にありません。

これに対しては、前巻「ゲンロン12」の論考に登場する、ハンナ・アーレントによる人間の行動の3類型、<labor>、<work>、<action>をヒントにした、訂正可能性の議論が参考になるように思います。自分なりに整理すると、<labor>は機械的単純作業、<work>は生産実務≒ものやシステムを作ること、<action>は政治活動≒言語ゲームです。前巻では、<action>≒言語ゲームは突き詰めても未規定性があらわになるだけで、議論の土台となるより具体的な<work>こそが、<家族>的変容を推し進める(訂正可能性を高める)のではないか、という議論でした。
経済や労働について考えると、生産性を上げるということは、具体的なものづくり・システムづくりのパフォーマンスを上げていくことです。<labor>的なものはどんどん機械に代替していき、その労働力を<work>的なものに当てていく。と同時に、<action>的なものも<work>的なものに転換していく必要があるのではないか。実際に組織内政治にかまけていて、実務≒<work>をしていないという人は実にたくさんいますし、どういう必然性があるのかよく分からないような<action>を行っている部署というのも、組織内ではよくあります。ルソー的に言えば、人は放っておいても社会を作る、勝手に無駄な<action>を始めてしまうものです。
<labor>的なものを<work>的なものに転換する(≒機械化)だけではなく、<action>的なものを<work>的なものに転換する(≒現業化)もまた、効率化であるはずです。「シンギュラリティ民主主義」に抗うには、このような方法をより高度な形で模索することも重要なのではないか。

自分は、まずは現場作業を含む実務、ものづくり・システムづくり≒<work>的なものに対する、社会からのリスペクトが必達だと感じます。おそらくは、現業を尊ばず、統治における真っ当な実務を無駄だと考えることから、「シンギュラリティ民主主義」のような発想は生まれてきます。
統治機構の適切な機械化(<labor>→<work>)と、現業化(<action>→<work>)を推進するための、ものづくり・システムづくりへのリスペクトの調達は、ジャーナリズムの重要な仕事=<work>でもあります。「シンギュラリティ民主主義」的なるものに抗うための言論活動は、SNSをはじめとする目先の手軽な政治的活動に時間を使うことではなく、ものづくり・システムづくりの在り様を見直し、社会の生産実務や統治の実務に対する必要性とリスペクトをひろく喚起させるような、<誤配>を生じさせることにあるように思います。
「シンギュラリティ民主主義」的ものに抗うには、安易な統治コストの削減ではなく、統治機構改革(統治実務の真っ当な機械化と現業化)を推進させることが肝要。このための一助となるのもまた、言論活動あるいはジャーナリズムという、ものづくりなのである…。「ゲンロン12」「ゲンロン13」の訂正可能性の議論の延長上で、自分はこのようなことを考えます。


ということで、本論考は未完(部分)でありながら、様々なことを思い起こさせる論考です。
「訂正可能性の哲学」はどのような結論になるのか、今からたいへん待ち遠しいです。
来年の刊行を楽しみに待とうと思います。