野球のはなし -スポーツを見ない大阪府出身者による、野球の思い出や関心など- | れぽれろのブログ

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今回は野球について書きます。
自分はスポーツへの関心が薄いので、スポーツについての記事はほぼ初めてかもしれません。野球は現在まったく見ない(そもそもテレビがないので見られない)ですし、おそらく20年ほど野球は一切見ていないと思います。
自分は大阪府出身・在住です。大阪府はたいへん野球が盛んな場所なので、こんな自分でも、野球と言えば思い出すことはたくさんあります。今回は野球に関わる記憶や思い出などを書き留めておこうと思います。


大阪府は野球の盛んな場所。日本のプロ野球選手の出身者が一番多いのが大阪府らしく、嘉門達夫さんの「47都道府県の歌」(各都道府県の日本一の項目を順に並べる歌)においても、「大阪からブロ野球の選手は日本一出てる」と歌われています。
大阪-神戸間には、かつてプロ野球の球団はたくさんありました。今でこそ大阪=阪神タイガースのイメージが定着していますが、昔は阪神タイガース以外にも、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、南海ホークスと、大阪-神戸間には鉄道会社による球団が計4つもあり、それぞれ甲子園球場、西宮球場、藤井寺球場、大阪球場(難波球場)を本拠地にしていました。(厳密にいうと甲子園球場と西宮球場は兵庫県西宮市にあるため、純粋な大阪の球団というと近鉄と南海ということにはなります。)

甲子園球場は高校野球の全国大会が開催される場所でもあり、調べてみると現時点で高校野球の優勝回数が最も多いのが大阪府の高校(計26回優勝)で、2位の愛知県(計19回)、3位の神奈川県(計14回)を大きく引き離しています。大阪府は高校野球の激戦区、多くのプロ野球選手が輩出されるのもうなずけます。
今でこそ高校野球は甲子園球場で開催されていますが、第1回大会は大阪府豊中市にある豊中球場で開催されていました。豊中球場は阪急宝塚線の豊中駅付近にかつてあった球場で、阪急による建設です。そもそも高校野球全国大会の開始に尽力したのが阪急の創業者小林一三であり、このため阪急自前の球場がその開催場所となりました。後に阪急のライバル会社であった阪神が、豊中球場より巨大な甲子園球場を1924年(干支で言う甲子の年)に建設し、やがて野球文化は阪急沿線から阪神沿線へとシフトしていくことになりました。


大阪=阪神タイガースとよく言われますが、自分の観察ではこのイメージが定着したのはそんなに新しいことではなく、おそらく80年代ごろからなのではないかと思います。上記の通り大阪近辺には球団が4つもあったためファンは分散する傾向にありましたし、かつては大阪には巨人ファンも多かったと言われます。自分の両親(1949年と1951年の生まれ)も2人とも巨人ファンでした。
かつてはテレビ中継は巨人の試合を中心に放送されていたということもあって、70年代までは全国的に野球と言えば巨人、大阪にも巨人ファンはたくさんいたものと推測します。自分は1984年に小学校に入学しましたが、この時期は友人にも巨人ファンも多く、1年生のときに友人と初めて買った野球チームチップス(ポテトチップスのおまけに野球選手のカードが付いてくる)で、自分はいきなり原辰徳(当時の巨人の有名選手)のカードを当てて、友人に「おお、原やんけ! おれのと変えてくれ!」と懇願されたことを記憶しています。(自分は野球への関心は薄かったので、瞬時にOKしました 笑。)

大阪=阪神のイメージが定着した理由はおそらく3つです。
1つ目は神戸サンテレビ(兵庫県のローカル局、大阪府内でも放送される)が、70年代に阪神タイガースの全試合中継を開始したことです。この放送はなかなかすごくて、全ての試合を最初から終わりまで、延長も含めてすべて放送する(延長がどんなに長引いても必ず最後まで中継する)という形式でした。シーズン中はテレビをつけると常に阪神の試合をやっているという状態による影響は大きく、野球中継と言えば巨人という状況を覆す効果があったのではないかと推測します。
2つ目は大阪-神戸間のタイガース以外の私鉄球団が、80年代以降プロ野球から撤退したことです。自分は大阪府河内長野市出身で、河内長野駅は南海と近鉄が乗り入れる駅、このため80年代当時は南海ファン・近鉄ファンもたくさんいましたが、両球団とも現在はありません。この理由から、分散していたファンが徐々に阪神に一極集中していった、ということもあるのだと思います。
そして3つ目が、1985年の阪神タイガースの優勝・日本一です。


1985年当時は自分は小学2年生でした。この年の阪神の勢いはすごく、有名な開幕直後の3連続ホームランをはじめ、とにかく阪神はやたらと強い。劣勢になっていても真弓・北村・バース・掛布・岡田の5人で瞬時に3点4点を稼ぎ出す。このやたらと強い阪神については、当然の小学校でも大盛り上がりでした。
とくに2学期以降はすごくて、あちこちの教室から六甲おろしの合唱や、真弓やバースの応援歌が聞こえてきます。こういう環境の中にいたので、とりたてて野球に関心のない自分でも六甲おろしは前奏からきっちり歌えますし、ミッキーマウスマーチを聴くと、ディズニーではなくまず真弓の応援歌を思い出す、というくらいに刷り込まれています。六甲おろしは歌詞が難しい歌ですが、意味も解らずに音で言葉を覚えていました。
この年度の終わり(86年3月)にクラスで作った文集の「将来の夢」の項目には、男子生徒はほぼ全員「野球選手」「阪神の選手」と書いていているくらいでした。おそらく自分も無意識の同調圧力により、野球選手と書いたのではないかと記憶しています。この2学期当時に自分の席の隣に座っていた友人が北村の大ファンで、有名な1番真弓・3番バース・4番掛布・5番岡田に加え、2番北村を覚えているのはこの友人の影響です。

85年当時は当然のように草野球も流行りましたし、少年野球のクラブに所属する子供も多かったです。(ちなみに自分も友人に誘われて少年野球の練習に参加したこともありましたが、嫌になって1日でやめました 笑。)

自分が当時ハマっていたのは手作りの野球ゲームで、これは仲の良い友人と2人でよくやっていました。ノートにスコアボードとダイヤモンドの絵を描き、サイコロを振って出た目によってゲームの進行が決まるという手作りゲーム。1がホームラン、2がツーベースヒット、3がヒット、4が三振、5が外野フライ、6が内野ゴロ(ランナーいればダブルプレー)とか、そういうルールだったと思います。このルールだと2分の1の確率で出塁・得点できるので、サイコロの目によってはインフレ的に得点が上がっていくという、ゲームバランスのリアリティはありませんでしたが、それでも楽しくプレイしていた記憶があります。(ちなみに宗教学者の植島啓司さんは、子供のころに同種のゲームを1人で作成し、全12球団分、全試合をやり切ったと書かれていたと記憶しています。これくらいの熱中力がないと学者にはなれないのかもしれませんね 笑。)
やがて野球ゲームはおもちゃの野球盤(ピッチャーマウンドにパチンコ玉をセットし、ボタン操作で野球をプレイするという、野球場の形をしたアナログのおもちゃ)に取って代わられますが、この野球盤はゲーム性が薄く、意外と早く飽きたように記憶しています。86年~87年ごろになると、友人と遊ぶゲームはファミコンの「ファミリースタジアム」(いわゆるファミスタ)や、「燃えろ!プロ野球」(いわゆる燃えプロ)に移行し、自分は徐々に関心を失っていきました。


野球の面白さが何となく分かったのは、中学生か高校生のときに読んだ渡部直己さんの文章です。渡部さんは「正しく見るには二度見よ。美しく見るには一度しか見るな。」という、スイスの批評家アミエルの言葉を引き合いに出し、これを至言であるとした上で、野球の醍醐味は情報ではなく、プレイ中の一瞬の美にこそあるのだという主張をされていました。
野球場は単調な空間である。球場を支配する長く単調な時間の中で、ごくたまに一瞬ファインプレーが現出する。このファインプレーはあっけなく生起し、瞬く間に消えていく。そしてまた単調な時間が戻ってくる。この一瞬の美を観察するのが野球の醍醐味であり、結果や勝ち負けは二の次である。VTRで再現されるファインプレーは単なる情報であり、目の前に現出した一瞬の美とはまったく異なる。従ってファインプレーを繰り返し放送する野球場の巨大スクリーンの如きものは、野球場そのものによる野球場の否定である。云々。
スポーツを勝敗や結果でとらえるのではなく、美学的にとらえるというこの文章は納得的で、自分はめったにスポーツを見ませんが、たまにスポーツ中継などを見るときは、この渡部さんの言葉を思い出します。スポーツは音楽のライブやパフォーマンスアートのように鑑賞すればより面白いのではないか、というのが自分の認識です。


これ以降の野球の思い出と言えば、まず1994年の長島巨人軍の優勝。この年の10.8 巨人vs中日の優勝決定戦(同率首位の両チームが優勝を賭けて対戦するという稀有な試合)は、修学旅行の帰りの飛行機のモニターで試合を見ていたので、強く印象に残っています。(このときも巨人ファンのクラスメートが狂喜していました。94年当時も大阪にはちゃんと巨人ファンがいたのです。)
あとは1999年の阪神タイガースの新庄選手による、延長戦「敬遠打ち」サヨナラヒットでしょうか。99年当時は大学の4回生で、バイトでためたお金で買ったテレビを自室に置き、ヒマなときはテレビを見ていました。ヒマな夜にぼんやりと神戸サンテレビを見ていた中でこの「事件」は唐突に起こり、これが渡部直己さんの言わんとしていたことなのか、という感慨もあったのを記憶しています。
その他1999年と言えば、ダイエーホークスに水田という投手が入団した年でもあります。この水田選手は自分と出身高校が同じで、高校の先輩にあたる人。出身高校からプロ野球選手が出たのは初めてで、活躍などは少しチェックしていましたが、しっかりと試合を見た記憶はありません。このときもダイエーファンの友人が「水田、昨日出とったで」と教えてくれたりしたのを覚えています。

ちなみに自分の出身地である大阪南部は南海沿線であり、南海ホークスの本拠地でした。南海ホークスがダイエーホークスになり、本拠地が福岡に移った後もダイエーファンはそれなりに残っていました。

そもそもダイエーは大阪府のスーパー(1号店は旭区の千林にありました)で、府内にダイエーの店舗はたくさんありました。自分は2000年に泉佐野市で一人暮らしを始めますが、このときも近所にあったダイエーにはたいへんお世話になりました。このダイエーの店舗では、とくに秋になると必ずホークスの応援歌「若鷹軍団」の歌が流れていたので、今でもこの歌のメロディは歌えます。(歌詞は聞き取りにくかったので覚えていません。これはスーパーのスピーカーの問題と思われます。)
ゼロ年代前半当時はダイエーは強い球団で、何度か優勝していた記憶があります。その後、ゼロ年代中ごろには近所に巨大なマックスバリュができて、自分も買い物はマックスバリュに行きがちになり、近所にあったダイエーは閉店となりました。ダイエーホークスもソフトバクホークスとなり、現在周囲でソフトバンクファンという人はほぼ聞かくなりました。


最後におまけです。


・おまけ1  高校野球メモリアルパーク(大阪府豊中市)

上に書いたように、高校野球は小林一三の尽力により、豊中の地で始まっています。現在豊中市には、旧豊中球場の跡地に「高校野球メモリアルパーク」というモニュメントが残されています。野球に関心のある方は訪れてみても面白いかもしれません。

高校野球発祥の地。



第1回大会(1915年)の開催要項。



過去の優勝校・準優勝校の名前も刻まれています。(小さくて見にくいですが、拡大したら見えるかな?)


 

 

 

 



1918年の「米騒動のため中止」が味わい深いです。以降は1941~45年の戦時下・終戦直後以外は開催されていましたが、2020年はコロナのために中止となりました。(写真は2020年当時のものですので、掲載もここまで。)



・おまけ2  スライリー

こちらはかつて広島旅行のお土産に買ってきたスライリーのマウスパッド。


ゆるキャラ関心勢(?)としては、各球団のマスコットキャラには興味はあります。

全12球団のキャラで一番独特なのがこのスライリーだと思います。ぼってりした体形ですが動きは俊敏で、ダンスなどのパフォーマンスで球場を沸かせる動画などを見ることができます。鼻からピロピロ笛の吹き出しが伸びるのもご愛敬。着ぐるみもよくできた造形で、頭部が巨大になりがちなプロ野球のマスコットキャラに対し、頭部が軽く動きやすそうなのもスライリーの特徴。デザインはセサミストリートの着ぐるみのデザイナーと同じ人らしいです。
このマウスパッドは2018年のゴールデンウィークに広島を訪れたときに買ったお土産で、ちょうど2018年4月に広島カープの衣笠選手が亡くなった直後の旅行であったため、駅前の商業ビルで衣笠選手の追悼展示が行われていました。(この会場付近でスライリーを買いました。) 10年代後半は広島カープが強かった時期で、調べてみると2018年もカープが優勝した年のようですね。