奈良県のお寺 -西大寺と薬師寺- | れぽれろのブログ

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安倍元首相の襲撃事件から1週間が経ちました。事件の全容はまだまだすべては明らかになっていませんが、それでも今回の事件の背景にある犯人の動機らしきものは徐々に見えてきています。
前回の記事の繰り返しになりますが、自分が大切だと考えるのは2点。1つはこの事件は歴史的にたいへん重大な事件ではありますが、それでも事件を過剰に特別視せず、近年発生している様々なテロ的事件と同じ問題構造としてとらえること。もう1つは事件を契機にした社会の悪い方向への転換を最大限抑止することです。
襲撃には動機があり、その動機の背景には社会的怨念があります。テロ的事件を防ぐには、その背後にある社会的怨念を可能な限り排除することが肝要です。社会的怨念の排除は政治の仕事です。政治家は怨念が蓄積されないよう良き政治を行い、そして我々は良き政治を行う政治家を選出する必要があります。全ての同様のテロ的事件を政治により防止することは不可能です。しかしそれでも政治家は可能な限り良き政治を行い、我々は可能な限り良き政治家を選出する、答えはここにしかありません。
この事件に関わる現在のトレンドは、統一教会の問題と国葬の問題でしょうか。確かに統一教会は問題の多い宗教団体であり何らかの措置がなされるべきだとは思いますが、事件の背景を特定の宗教団体だけに帰着させるのは無理があり、社会や経済などを考慮した複合的な背景が考察されるべきです。国葬云々については形式的な問題ですので、さほど重要なことではないと考えます。
我々が望むべきものは、現行憲法前文にある通り「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」し、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存」できる社会です。重大事件が発生したときは、常にこの基本に立ち返る必要がある、というのが自分の考えです。


さて、今回は奈良県の2つのお寺、西大寺と薬師寺を取り上げます。安倍元首相の襲撃によりすっかり全国的に有名になった「西大寺」という地名ですが、この地名の元になっているのは言うまでもなく西大寺という名前のお寺です。
西大寺は奈良時代創建のお寺で、南都七大寺の1つ。平城京の西側にあり、すぐ南にある薬師寺(これも南都七大寺の1つ)と合わせて、奈良時代から重要なお寺でした。
西大寺の東側には平城京の大内裏があり、現在近鉄奈良線に乗ると、大和西大寺駅-新大宮駅間で電車からも復元された平城京跡を見ることができます。西大寺の付近はまさに奈良時代の権力の中枢があった場所、その場所で元代の首相経験者が襲撃されたというのも何やら感慨深いものがあります。

自分は今から4年半前、2018年のお正月明けの1月3日に西大寺と薬師寺を訪れています。この写真はブログにアップしていませんでしたので、今回はこのときの写真を並べつつ、コメントしてみたいと思います。



(1)西大寺

まずは西大寺です。

最寄り駅は近鉄大和西大寺駅。安倍首相が襲撃されたのは駅の北東にあるロータリーの付近でしたが、西大寺はこれとは逆側の駅の南西にあります。有名な東大寺と比較すると現在はやや規模は小さくなっていますが、それでも歴史上重要なお寺です。


本堂はこんな感じ。

1月3日の写真ですので、人々は冬の装いです。


本堂の正面付近。

2018年ですのでコロナ前、このころは誰もマスクをしていません。今から振り返ると平和な時代でした。


西大寺の創建は765年、孝謙天皇(重祚後は称徳天皇)の勅願で建立されたお寺と言われています。都の東にある東大寺は有名な聖武天皇の勅願でしたが、西にある西大寺はその次代の天皇である孝謙天皇によります。孝謙天皇は僧道鏡を重用した女性天皇としても有名な人物。
西大寺は律宗のお寺で、律宗は南都六宗の1つ。南都七大寺の1つであり、南都六宗の1つでもあるお寺です。「泣き虫(764)エミちゃん、押しても勝てず」の覚え方で有名な、恵美押勝の乱が764年に発生し、その鎮定を祈願したことから西大寺は始まっているのだとか。
創建当時は西大寺の伽藍は壮大なものだったようですが、平安時代を通して規模は縮小し、現在でも東大寺に比べると規模は小さめです。平安時代以降、西大寺が再び復興するのは鎌倉時代の僧叡尊によるとされます。

本堂の中には釈迦如来像、文殊菩薩像、地蔵菩薩像などの仏像が安置されており、鑑賞することができました。文殊菩薩像が獅子の上に乗っていたのが印象的。個人的には地蔵菩薩像が優美で気に入りましたが、こちらはあまり歴史的なものではなさそうです。
なお、現在の本堂は江戸時代に再建されたものです。


こちらは東塔があったとされる場所。

現在は礎石だけが残っています。元々はここに五重塔があったらしいですが、敷地内の表示によると、1502年(戦国時代)に兵火により焼失したとのことです。塔はなくなり、奥にある本堂が見えています。


こちらは四王堂。

こちらも江戸時代の再建。中には十一面観音像がおられました。
この四王堂の左側には幼稚園がありました。お寺の敷地内にある幼稚園です。西大寺幼稚園は地元ではわりと有名な幼稚園なのだとか。


愛染堂。

これも江戸時代の再建。


屋外にあった観音様の像。



池の様子。



敷地内の奥の方に石仏がずらりと並ぶスペースが。

西国三十三所のすべての観音様のミニ石仏が並んでいるようです。


西国1番の青岸渡寺の観音様から、



西国33番の華厳寺の観音様まで。



こちらは個人的にお気に入り度の高い西国14番の三井寺の如意輪観音像。


訪問した2018年の1月時点では、自分は西国三十三所はまだコンプリート途中で、残り5つのお寺を残す状態でした。この年の年末に西国三十三所をコンプリートしたことが懐かしく思い出されます。



(2)薬師寺

続いては薬師寺です。
西大寺も歴史上の重要なお寺ですが、その南にある薬師寺の方が敷地は大きく、現在ではこちらの方が観光地としても有名です。自分が訪れた際も薬師寺の方が観光客もたくさん来ており、この1月3日にはお坊さんによる法話も行われていました。薬師寺のお坊さんは、話術に優れていることも面白ポイント。(話術については後で触れます。)
薬師寺は大和西大寺駅から近鉄橿原線で南に2駅下ったところにある西ノ京駅が最寄り駅。その名の通り平城京の西側を意味する場所です。西ノ京駅を降りてすぐ東側に薬師寺はありました。


こちらが金堂。

たくさんの人がノーマスクで詰めかけています。懐かしきコロナ前時代。


西塔。

五重塔です。


東塔には覆いがかけられていました。



東塔は解体修理中とのこと。

現在は解体修理が終わり、東塔も見ることができるようになっているはずです。


薬師寺の来歴は西大寺よりも古く、創建は698年の持統天皇の時代。元々は藤原京の敷地内にあったようですが、遷都に伴い薬師寺も平城京に移設されたのだとか。法相宗のお寺で、同じく南都六宗の1つ。平安時代の以降には八幡神を勧請するようになり、神仏習合の像として有名な僧形八幡神像も薬師寺の有名な仏像です。
薬師寺は自然災害・火災・戦乱により何度も被害を受け、金堂は1976年に、西塔は1981年にそれぞれ再建されたものですが、東塔だけは730年(奈良時代)の創建当初から残されており、現在でも奈良時代の姿をとどめているという稀有な建物です。この日は残念ながら東塔のみ見ることができませんでした。何とも不運 笑。

金堂の中には有名な薬師三尊像が安置されていました。薬師如来も良いですが、個人的にお気に入り度が高いのは両脇の日光・月光菩薩立像です。創建当初から残されている仏像で、7世紀末の白鳳期の様式を今日に伝える仏像はたいへん貴重です。この薬師三尊像を見るためだけでも薬師寺を訪れる価値はあります。


こちらは大講堂。

2003年の再建、これも新しい建物です。


こちらは回廊の様子。

お釈迦さまの一生が解説されています。


涅槃に入るお釈迦さま。

イラストもどことなくインド風です。


東院堂。

こちらは古くて1285年(鎌倉時代)の再建です。


敷地の東側、玄奘三蔵院付近の様子。



玄奘塔。

玄奘は法相宗の創始者である唐の時代のお坊さん。1991年の創建で、新しい建物です。
中には平山郁夫の絵が奉納されていました。


敷地内にはいくつかの歌碑があります。

佐佐木信綱の歌碑。

「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」


会津八一の歌碑。

「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな」
どちらも空を詠んだ歌です。


さて、伽藍を鑑賞した後はお坊さんの法話を聴いてきました。
この日は比較的若いお坊さんの法話でしたが、お坊さんはとにかく話がうまい、たいへん話術に優れています。伽藍の解説から始まり、金堂と西塔の写真を出して「コンドウさんは1976年生まれ、サイトウさんは1981年生まれ」と、人名のように解説して笑いを取るところからスタート 笑。ところどころに笑いとマメ知識を挟みながら仏の教えを説き、面白おかしく話を進めつつも、最後には修業時代の苦労話などでホロリとさせる。
お坊さんの人柄と話術にほだされた観客(?)は、法話後に勧進の重要性に気付かされ、知らず知らずのうちに般若心経一巻2,000円のためのお金を財布から出すことになります 笑。お坊さんは相当な話術の訓練を受けていると見えます。良く言えばお笑い芸人、悪く言えば香具師風の雰囲気も感じられます。
薬師寺のお坊さんは昔から伝統的に話術に優れているらしく、この法話→勧進(寄付)の流れでたくさんのお金を集めたとされ、戦後に建立された金堂、西塔、大講堂、玄奘塔などはすべて勧進の成果なのだそうです。自己調達でこれだけの伽藍を再建させるというのは、これはこれでたいへん尊いことなのだという気もしてきます。


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ということで、2018年1月の西大寺と薬師寺の様子でした。

2018年1月といえば第2次安倍政権も後半の時代です。

2012年12月の第2次安倍内閣発足以降、経済政策や防衛政策など、良くも悪くも様々な政策を実現させてきた安倍政権ですが、前年の2017年に森友・加計問題が発覚し、2017年秋の衆院選ではあわや自民党下野かというとことまで追い込まれました。このときは小池-前原ラインの「失策」により野党はまとまることはできず、逆に民進党(旧民主党)が解体し野党は四分五裂、以後自民党は寝ていても選挙に勝てる政党になり、結果として第2次安倍政権は超長期政権となるに至ります。
今から振り返って考えると、やはりこのときの政界の動きがかなりその後にとって致命的であったのではないかと感じます。超長期政権は停滞と汚職を招きます。2018年以降、日本はもっとやるべきことがあったのではないかというのが振り返って感じられる所感。
安倍政権はどういう政権だったのか、その是非は歴史的にこれから位置付けられていくことだと思いますが、安倍元首相という人はどうしても人を分断させてしまう性格の人物であったことは間違いないと思います。昨今の状況を見るに、この分断はご本人が亡くなった後も続いているように感じられます。
超長期政権による停滞の弊害と分断の弊害、これをどう乗り越えていくのかが直近の政治課題なのかもしれません。