人権教育・平和教育のはなし | れぽれろのブログ

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前回の記事で、大阪府内の緑地公園にある大阪人権啓発推進協議会による看板に触れ、大阪府は人権啓発が盛んであった場所であるというようなことを書きました。
自分は大阪府出身・在住で、小・中・高・大とすべて大阪府内の学校に通っていました。学校では様々な形で人権教育・平和教育を受けてきましたが、このような教育について他府県の方と話す機会も少なく、自分が受けてきた教育が他府県と比較してどうなのかは、実はあまりよく分かっていません。一般的に大阪府はこういった教育が盛んであると言われますが、当然大阪府内でも地域、時代、学校、学年、教師によって、教育の濃淡の差はあることだと思います。
今回あれこれと過去のことを思い出しましたので、この機会に自分の経験を、オーラルヒストリー的に(?)まとめておきたいと思います。以下は大阪府内の80年代後半~90年代の教育の事例です。少し長くなりますが、ご関心のある方はお読みください。今年は水平社設立100周年とのこと、こういった教育について考えるにためにちょうど良い機会であると思います。


自分は小中学校は大阪府南部の公立の学校に通っていました。小学校がちょうど80年代後半、中学校が90年代前半に当たります。
人権教育・平和教育と言ってまず思い出すのは、道徳の教科書「にんげん」です。小中学校の間は週1コマ必ず道徳の授業があり、その授業で「にんげん」が使用されていました。記憶をたどってみると、おそらく小学校低学年までは「にんげん」と「生きる力」の2冊の教科書がありましたが、「生きる力」の方はあまり授業で使用した記憶はありません。「にんげん」は中学まで使用していました。現時点で調べてみると「にんげん」は全国解放教育研究会による編著ということになっており、過去長きにわたって大阪府内の学校で使用されていた教科書でしたが、現在は使用されていないようです。
「にんげん」はとにかく表紙が怖い印象が強く、だいたい子供の肖像画が使われていましたが、この子供の眼や表情、全体の色合いがなんとなく暗く、小学生にとっては怖さを感じさせる教科書でした。調べてみると、表紙は長く丸木俊(原爆の図で有名な画家)が担当されていたらしく、今考えるとなるほどと思います。
「にんげん」では様々な人権の問題や戦争などをテーマとした文章がひろく扱われており、差別問題、障害者、在日コリアン、貧困、戦争、原爆などのテーマが扱われていたように記憶しています。多くの会話文は関西弁で書かれており、とにかく内容は生々しくて怖かった印象が強いです。これと比較して「生きる力」の方はおそらく全国区で採択されていた教科書で、教訓的・道徳的な話が多く、子供ながらに「にんげん」と比較してヌルいなと感じていた記憶があります。

小学校時代の平和教育でとりわけ印象に残っているのは「ヌチドゥタカラ」という沖縄戦をテーマにした文章です。これは「にんげん」に載っていたのか、副読本的に他の教材として採用していたのかは記憶は曖昧です。80年代後半当時はわら半紙で製本した複写教材を使用することも多く、こちらもわら半紙の教材であったのかもしれません。沖縄戦でたくさんの民衆が亡くなる様子が描かれた内容で、これも内容も挿絵も子供としては怖いものでした。検索してみると丸木位里・俊夫妻の絵本がヒットしますので、これもおそらく丸木夫妻のものだったと思われます。
この文章に登場する「イクサユンシマチ ミルクユンヤガティ ナギクナヨシンカ ヌチドゥタカラ」の一節は今も記憶しており、今日時点で検索してみると琉球の御詠歌がヒットしますので、この本の独自のフレーズではなく当時から沖縄に伝わっていた伝統的な歌のようです。(意味は「戦は終い、弥勒(平和)がやがて来る、嘆くなよ臣下(みんな)、命は宝」と思われます。)
民衆が戦争に巻きまれる場面は怖いものでしたが、とりわけ印象的なのが民衆が日本軍により自決を迫られる場面です。自決のための銃をくれという民衆に対し、日本軍は銃は渡さず「剃刀で、鎌で、鍬で、棒で、殺れ!」と命令する場面がとくに怖く、今でもよく覚えています。当時は図工の時間にも道徳の授業が進出(?)し、この「ヌチドゥタカラ」をテーマにした切り絵も作った記憶があります。
大阪は戦前から琉球移民が多い場所で、とくに大正区をはじめとする大阪湾岸の地域は琉球移民の子孫が集住している場所です。このような経緯から沖縄戦の様子が教材として積極的に採用されていたということもあるのかもしれません。
この他では、「広島の姉妹」という原爆をテーマにした本などが、教材として使用されていたように記憶しています。

中学校では小学校以上に人権教育・平和教育が系統立てて行われていた印象です。在日コリアンの方の講演を聴いたり、障害者施設の映像を見たりという授業もありましたが、とりわけ差別に関わる教育と戦争に関わる教育について積極的であったように思います。
差別問題については、近世の身分差別の起源から水平社宣言あたりまで、一通り歴史を学んだ記憶があります。差別の起源として、とくに豊臣秀吉による兵農分離政策を重視していたのが印象的です。大阪は太閤秀吉が好きな人が多いので、その秀吉を朝鮮出兵時の残虐なエピソードと絡めて取り上げ、差別問題を印象付けて記憶させる意図があったのかもしれません。
授業では具体的に差別に関わる近世以来の呼称も学ぶことになります。そうなると中学生は(とくに男子は)アホなので、授業で学ぶとすぐにこの使ってはいけない言葉で人を罵倒したりするようになります。そして先生に注意され問題化される。差別発言があったということになり、満を持して(?)人権啓発団体が学校にやってくる。各クラスで長い講義が行われ、差別問題が今なお残存していること、被差別者は貧しい境遇から立ち上がり頑張っている存在であること、差別発言は行ってはいけないことが印象付けられます。この講義で自分がよく覚えているのが昔話「猿蟹合戦」のたとえで、猿を差別者に、蟹を被差別者に、蜂・栗・臼を大衆になぞらえ、被差別者と大衆がともに差別と戦うという姿勢の重要性が訴えられていたのが印象的です。

今から考えると差別発言を巡るやり取りなどは若干のマッチポンプ感をも感じますが、やり方の是非はあれ、歴史を通して教育する姿勢はそれなりに大切なものであったと振り返って感じます。

平和教育の方も中学時代はかなり力が入っていました。かつての戦争について、加害の事実と被害の事実を切り分けて学び、前者は南京事件や大陸での日本軍の振舞いについて学び、後者は空襲や原爆について学ぶことになります。
南京事件については具体的に写真を使っての授業が行われ、首が切断された写真など様々な恐ろしい写真が授業で使われていました。(数年前にイスラム国による首切りの画像を授業で使用したとのことで問題になった事件がありましたが、当時の自分が受けてきた授業では首切り画像は日常でした。)
90年代前半当時は実際に兵隊として現地に行った人たちがまだ元気な時代で、校外学習ということでグループごとに分かれて戦地の体験の聞き取りを行う授業もありました。当時の大阪の部隊の多くは中国大陸に派遣されていましたので、自分も中国戦線で出征した人の話を聞きに行きましたが、大陸での生活の話や食べ物の話が中心で、あまり残虐な話などはなかったような記憶です。このあたりは話者の個性も反映されるものなのだと思います。(当然個人ごとに語りたいこと、語りにくいことがあり、話者による差も大きい。)

被害の方のテーマでは、毎年8月6日に行われていた平和登校と、3年次の修学旅行がとりわけ印象的です。
8月6日は当然夏休みなのですが、この日は毎年登校日で、朝から校庭に整列し8時15分から黙祷を捧げます。続けて校長や生徒会などの演説や宣言などが長々と行われ、当然猛暑の季節なので、暑さで倒れる生徒が続出することになります。校庭での式典が終わるとだいたいその後は原爆に関わる映像を見ることになり、登校日は午前中で終わりますが、この午前中の間に生徒はかなり疲弊します。
3年次の修学旅行は長崎でした。自分の住む地域では伝統的に修学旅行は広島か長崎のいずれかでしたが、90年代前半は長崎へ行く学校が多かったように思います。新幹線で博多まで向かい、まずはバスで太宰府天満宮にお参り、その後バスで長崎まで行き、1日目の夕方から夜にかけては被爆者の体験談の講演でした。2日目は午前中から原爆資料館をみっちりと見学、平和祈念像の前で集合写真の撮影をした後でようやく自由行動となり、グループで長崎の町を歩いたこの2日目の午後以降は楽しいものでした。3日目はほぼ帰路のみで、旅行の大半が原爆関係であったのが印象深いです。
こういった平和教育は怖いし気持ち悪しいしで、当時子供であった自分にとってはたいへん嫌なものでしたが、戦争についての加害と被害についてそれなりに網羅的に学ぶことは、実施する意義は大きいかったと考えます。ただし、もう少し威嚇的でない形で実施されるべきであったのではと、振り返って思う部分もあります。

高校は私立のキリスト教の学校に通いました。この高校では道徳の授業はなく、倫理社会(一般的な高校では履修できる?)のような公民の授業もなく、その代り聖書の授業というものがありました。この聖書科でときどき在日コリアンの問題を扱ったりということはありましたが、おおむね公立の小中学校に比べると、人権教育・平和教育については低調であったという記憶です。
ただし修学旅行の行き先は南京で、当然虐殺に関わる記念館も見学することになります。当時の南京への修学旅行は定員制で、とくに希望しない生徒は北海道も選択することもできました。ちなみに自分は北海道でしたので南京の記念館は見学していません。
(余談ですが、そもそも公民の授業が選択できないというのは正しかったのか。この高校は数学演習や英語演習という謎の演習の授業が多く、自分が卒業後に単位の履修不足が問題化した経緯もあるので、公民の授業もひょっとしたら不足していたのかもしれません。
また、漢文の授業が必ず週1コマあり、中間・期末試験では漢文だけの試験も行われていました。このこともあって、漢文の教師が「この学校には道徳や倫理の授業がない。なので漢文を通して古代中国の倫理を学べ。」などという、謎の漢文マウンティング発言を行っていたのも印象に残っています。)

自分は90年代後半に再び公立の大学に進みました。大阪の公立大学でしたが、とにかく人権教育が盛んであったという印象です。
入学式は朝から中之島の中央公会堂で行われ、その後大学のキャンパスに移動、入学初日の午後からいきなり人権教育に関わる映像を鑑賞し、解説を含め2時間ほど教育を受けたあと、ようやく各学部の建物に移動して集合写真とオリエンテーションという流れで、終わりはかなり遅い時間になっていた記憶があります。このときの人権教育のビデオもなかなかよくできており、取り立てて差別心を持たないない学生が、うっかりした発言から差別者になってしまうという実態が描かれたドラマで、「気を付けろ」という意図がよく伝わってくる映像でした。
授業においても、一般教養では人権教育に関わる科目がずらりと並び、差別問題、障害者問題、在日コリアン問題、ジェンダー問題などの授業が一通り誰でも受講できる形になっていました。とくに差別問題のについては毎年複数の授業が設定されていました。これらの一般教養の授業は概ね人気で、多くは試験もなく、一定程度の出席とレポート提出のみで単位が取れ(中には出席だけの授業もあった記憶です)、自分もいくつか履修したように記憶しています。ちなみに自分は工学部でしたので、人文系の講義を受講したのは一般教養のみ、学部教育がどのようであったのかは詳しくは把握していません。

人権をテーマにした講義は、当然小中学時代のような威嚇的な内容ではなく、大学なので概ね学問的に差別や人権の問題を掘り下げていくという内容であったと記憶していますが、中には学生に対して糾弾的な発言をし、それに対し学生が反発するという一幕もあったと、間接的に聞いたこともあります。
大学内ではこのような人権教育の授業のあり方に批判的な教員も存在し、自分が受講していたある一般教養の授業では、担当教員が学内の人権教育のやり方に疑問を呈したあと、「本学の人権教育の在り方には批判も多いことは知っておいてほしい」と強く言っていたのも印象的です。(ちなみにこの教員はインナーシティ問題や貧困に関わる問題を長くテーマとして扱われていた方で、独自のやり方で社会問題について考えておられ、単なる反人権派のような方ではありませんでした。)
今から考えると、おそらく90年代後半あたりからこのような人権教育に対する反対論が大きくなり、少し人権教育に対する風向きが変わってきたころであったのかもしれません。しかし事態は人権派vs反人権派のような安直な対立ではなく、自分の経験からももっと複雑なものであったように感じます。
(余談ですが、当時の大学の人権教育の授業では、推薦図書に小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言 差別論」もあげられており、教科書販売コーナーで「差別論」が平積みになっていたのもよく覚えています。しかし「ゴーマニズム宣言 戦争論」が出版されたのも自分が在学中のころ。こちらは当然のことながら(?)学内で販売されることはありませんでした。この90年代後半はいろんな意味で風向きが変わった時期なのだと思います。自分は当時「差別論」も「戦争論」もどちらも読みましたが、「差別論」は今考えても比較的良い本であったとの印象です。)


以上、大阪府下の人権教育・平和教育の経験を、自分なりに記憶をたどって簡単にまとめてみました。このような教育が他府県においても一般的なのかどうか、現在の大阪府下の教育がどう変わっているのかは、自分は詳しく知りません。
一部威嚇的であったり、マッチポンプ的であったり、初等中等教育にしては恐怖を煽りすぎであったりと、問題のある授業も無きにしも非ずでしたが、このような教育は穏当な形で今後も行われるべきであると考えます。現在もしこのようなテーマを扱った教育が行われていないのであれば、やはり何らかの形で実施するべきであるのではないかというのが自分の所感です。