平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

3月5日の金曜日、「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)」と題された展示を鑑賞しに、京都市京セラ美術館に行ってきました。緊急事態宣言も明け、久しぶりの美術館訪問。というより、昨年のコロナ以降、京都の美術館を訪れるのは初めてです。
過去何度も訪れた京都市美術館は「京都市京セラ美術館」と名前が変わり、リニューアルされて運営されていました。以前の古い建物の構造は残されており、地下部分に新たに入口が設けられ、スロープを下って受付に入る構造。今回の特集展示は、以前からある旧館を越えたその東側の奥にある新しい建物の中で展示されていました。
新館からはガラス越しに裏庭の庭園も見えて良い雰囲気。京都市美術館は歩くと床がきしむくらい古い建物でしたが、新設された新館はその心配もなく、静かに鑑賞することができました。


「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)」は、平成の30年間の日本の現代美術をふり返る展示との内容。
入口にはまず壁一面に文字や写真や映像が掲示された巨大な年表がどんと展示され、平成の30年間の出来事を振り返ることができると同時に、その時代の代表的な美術作品を確認することができる展示になっていました。
うたかた(≒バブル)から瓦礫(≒東日本大震災)へというのがこの展示の流れ。年表に掲げられた出来事も災害が多いです。思い出深い事件が確認できる一方、時代ごとの代表的な美術作品は有名なものもありますが自分の知らないものも掲示されており、おそらく必ずしも超有名作品が掲示されるというものではなく、監修者の一定の歴史観が反映された年表になっているようにも見えます。

年表を越えると、合計14の作家集団とその代表的な作品が並べられていました。
タイトルの通り、バブル時代の昔懐かしい印象の(?)作品から、東日本大震災をモティーフとした作品などが登場する一方、外国人やジェンダーなどを問題化した今日的な視点の作品も見られます。
全体的に非常に情報量が多い展示で、過去作品を単に展示するだけではなく再構成された展示も多く、作家自身による自己作品の再キュレーションという印象の作品も目立ちます。一部の作品はおそらくかなりハイコンテクストで、情報から文脈を追うのがなかなか困難な作品もみられます。
選定された作家や作品についても上の年表と同じく、客観的に選定された平成を代表する有名作家が並ぶというわけではなく、監修者の歴史観が反映されたチョイスになっているようにも思いますが、これは展覧会の規模からして誘致できる作家が限られるという制約もあるのかもしれません。


個人的に最も面白かったのは、人工知能美学芸術研究会という作家による「S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら」という作品です。
これは2014年に発覚した佐村河内守氏による音楽の代作問題を主題化した作品。聴覚障害を印象付ける空間(防音構造、耳をテーマにした絵画)の中に佐村河内守氏による「指示書」のコピーが掲げられ、その下に彼の交響曲第1番(実際は新垣隆氏が作曲した)のスコアが展示され、展示スペース全体にこの交響曲第1番の演奏が流れる。合わせてフェルメールとカメラオブスクラについての文章がまとめられています。
カメラオブスクラという技術を用いたフェルメールが自分で絵画を制作したと言えるなら、新垣隆という「技術」を用いた佐村河内守がなぜ自分で音楽を制作としたと言えないのか。
一部の現代美術では、作家が作品のコンセプトを企画書や指示書の形で提示し、作業者がその指示に基づき作品を制作・設置するということが行われます。この場合でもその作品は作業者の作品ではなく、指示した作家の作品であるとみなされる。ルーベンスや岩佐又兵衛の工房作品も、今日ではルーベンスや岩佐又兵衛の作品として鑑賞されています。
この考え方に従えば、指示書を制作した佐村河内は作家であり、指示書を元に記譜するという「作業」を行った新垣は作業者にすぎないと考えることも可能なのではないか。逆に佐村河内守が作家でないとするなら、現代美術の多くの作家たちも実は本質的な意味で作家とは言えないのではないか。その人物が作家であるといえるか否かは単に社会の関数の問題であり、判断に普遍性はないのではないか。
もちろん佐村河内氏は客観的に見て真摯な作家であるとは言い難い面も多々あることは確かで、そのことを忘れることもまた問題ではあると思いますが、この作品は現代美術・音楽全般に対する問題定義のみならず、佐村河内を糾弾した社会(聴覚障害に対する無知から来る糾弾を含む)に対する問題定義をも感じることのできる作品で、非常に意義深い作品です。
本作はメディアによるレッテル張りが横行した平成という時代を振り返るにふさわしい作品であると言えるように思います。

もう1点あげるなら、IDEAL COPYという作家の「Channel:Exchange」という作品が面白かったです。
各国の貨幣が床に敷き詰められ、その上に設置されたテーブル上に天秤が置かれ、各国の貨幣とIDEAL COPYによる独自貨幣とのトレードの様子が象徴化されています。
これはIDEAL COPYが独自に貨幣を鋳造し、この独自貨幣と参加者が持参した実際の各国貨幣を、単純に重量に応じて交換するというパフォーマンスの痕跡を展示した90年代初頭の作品で、冷戦体制崩壊後の世界総自由主義経済社会を小バカにしたような作品であり、今日の新自由主義社会批判への射程を含むこのような作品は個人的には好みです。
情報量が多いゴテゴテした作品が多い中、本作は比較的シンプルな構成で、配置も整っており、20世紀の古き良き時代の(?)コンセプチュアルアートといった雰囲気で、鑑賞しやすい作品でもあります。


全体を通して。

1点は美術史の問題。
自分は平成年間、とくに過去20年間はそれなりの頻度で現代美術に接していますが、本展は平成をふり返るという企画展示にも関わらず、自分が思い出せる作家はContact GozoとChim↑Pomのみで、後は知らない作家の作品ばかりが並んでいました。
自分にとっての平成時代の作家と言えばまず森村泰昌、やなぎみわ、塩田千春、束芋などの名前が思い出され、その他にも多数の面白い作家の名前が思いつきますが、本展で知っている作家がこれだけ少ないということ、自分の住む世界線と本展の歴史を形成する世界線が全く異なっていることは、非常に面白かったです。(もちろん上にも書いたように誘致できる作家が限られているという問題の方が大きいのかもしれませんが。)
まだまだ自分にとって知らない作家は驚くほどたくさんいる。しかもその作家さんたちはある一定の層にとって、彼らこそが平成の美術家であるという形で歴史化されている。
本展は新たな歴史観を形成するチャレンジングな展示であると個人的には感じますが、自分は地方都市に住み、地方で開催される美術展を鑑賞し、美術雑誌などはほとんど読んでいない人間ですので、ひょっとしたら東京に住んで美術雑誌を読んでいる人たちからすると、この展示の歴史観が普通なのかもしれません。

ポストモダン、価値の相対化、大きな物語の喪失などと言われて久しい時代ですので、歴史観の差異は思えば当然のことですが、そんな中で自分の認識を刷新するような新しい歴史観を味わうのは面白かったです。

もう1点はキュレーションの問題。
作品をどう展示するかという問題、キュレーションの問題が前面化したのは、平成時代以降の大きな特徴なのかもしれません。本展は、展示を展示する、作家の過去作品や過去展示を作家自身が再キュレーションし展示するような傾向の作品もみられましたが、こういった作品も平成的であるといえるのかもしれません。
自分はキュレーションに要求されるのは主観性ではなく客観性であり、ある程度の監修者の主観が入り込むのは仕方がないにしても、それは最小限であることが望ましいと考えるタイプの人間です。作家による自己作品の再キュレーションも面白いとは思いますが、各作家の作品は制作された時代の作家の考えをできる限り反映する形で展示するのが妥当であり、とりわけ平成という時代の歴史をたどるという展示の趣旨においては、時代ごとの作品の客観性が保たれる展示の方が望ましいのではないかという感想は覚えました。
このあたりは、元々自分はアートフェスのような様々な作品が入り乱れる展示よりも、美術館内での編年体による展示が好みであり、言い換えると「生きた美術」より「死んで標本化された美術」が好みであるタイプの人間ですので、このような感想になるのかもれません。
平成時代を通して進行した、美術館の展示からアートフェスへという流れは、個別作品からキュレーションへという流れとリンクしているようにも思い、その意味でも本展は(自分の個人的な好みは横に置いても)平成時代を通じた現在の美術展を考える上で、興味深い展覧会であると思います。