神社仏閣探訪シリーズ。
今回は大阪府の平野部と丘陵部の境目にある4つの社寺を取り上げます。
各社寺に訪問したのは昨年の秋から冬にかけて、なので少し季節外れの写真となります。
ご興味のある方はお読みください。
国土地理院の地図閲覧サービスのページでは、標高や土地の凹凸を確認できるモードがあります。
色別標高図で大阪府とその周辺を表示させると、以下のようになります。
青い部分が標高が低く、青→緑→黄→橙と色が変わるに従って標高が高くなって様子が確認できます。中央の青い部分が大阪平野、その東側の黄色の部分が生駒山地で、これより東の緑色の部分に行くと奈良盆地(奈良県)になります。
青の大阪平野と黄~橙の山々の間にある緑色~薄黄色の部分が丘陵地帯です。今回はこの大阪平野と丘陵地帯との境目にある社寺を取り上げます。
図の左上の赤丸部分は千里丘陵の境目、図の右上の部分は枚方丘陵の境目、図の右下の赤丸部分は羽曳野丘陵の境目、図の左下の部分は泉北丘陵の境目です。それぞれの丘陵部と平野部の段差の部分には、どのような社寺があるのでしょうか?
以下、千里丘陵→枚方丘陵→羽曳野丘陵→泉北丘陵の順に取り上げます。
(1)垂水神社
まずは吹田市にある垂水神社(たるみじんじゃ)を取り上げます。
垂水神社は大阪平野と千里丘陵の境目にある神社、最寄り駅は阪急千里線豊津駅です。
周辺の凹凸の様子を拡大すると、以下のようになります。
南の青い部分が大阪平野で、標高は約6メートルと低いです。
ここから北に急激な段差があり、緑色の部分が千里丘陵、ちょうどこの地図の「垂」の字のあたりに垂水神社があります。その北側が千里丘陵となっており、北に進むと関西大学のキャンパスがあり、さらに北には千里ニュータウンが広がっています。
垂水神社はこの丘陵部の段差の中腹あたりにあり、丘を登り切ると標高約40メートルになります。
神社の入口の鳥居。
これは南側の平地にあります。
北に向かうとさらに入口が。
奥に階段が見えます。この階段で丘陵部を登る格好になります。
階段を登ると…
拝殿が見えてきます。
この拝殿は丘陵部の急な高低差の中腹あたりにあります。
この高低差に沿って、垂水の滝と呼ばれる滝があったのだそうです。
孝徳天皇の時代(7世紀中ごろ)、現在の大阪府の中心部に難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)という都があり、その都が旱魃に襲われた際に、この垂水の滝から高樋を通して都に水を運んだのだそうです。これによりこの地の豪族が垂水姓を賜ったのだとか。
志貴皇子の有名な和歌、「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」は、この地の垂水を表しているのだそうです。
現在の拝殿は1974年に改築されたものとのこと。
神社の奥の森に中にさらに階段が続いています。
この付近は住宅地になっていますが、神社付近の森は残されています。
今から10年前の2011年、この周囲の森にマンションの建築計画が持ち上がりましたが森を残すために神社が土地を買い取り、その結果マンションの建設は中止となったのだそうです。
現在はこの森を回避するように、さらに北側に宅地開発が進められています。
頂上に到着。
これはてっぺんから南向きに撮影した写真です。
丘の上にも入口があります。
ちなみに神社の周囲はこんな感じ。
丘陵部の段差に沿って住宅が並んでいます。なかなか大変そうなアップダウンです。
こちらは神社の南側にあった「雉畷碑記」。
1921年(大正10年)に建てられた碑のようです。
雉子畷(きじなわて)は、古代に淀川の長柄に橋を架ける際に、難工事でなかなか建設が上手くいかず、このため人柱が捧げられたのだとか。
要するに人間を生贄として川に沈めたということのようです。その人柱となった人物を称えた碑が現在も残っています。なかなか野蛮な碑です 笑。
1921年ともなれば昭和初期の国粋化時代まであと数年。公のための命の犠牲を仁徳と解釈するような、戦前のよろしくない風潮を感じさせる碑です。
(2)成田山不動尊
続いては寝屋川市のお寺です。大阪平野と枚方丘陵との境目にあるお寺を見てみます。
周辺の地図は以下のような感じ。
この図の中央やや右側の「成田山不動尊」の「成」の字のあたりに成田山不動尊があります。
最寄り駅は京阪本線香里園駅、この地図では左上に少し路線図が見えていますが、この北側に香里園駅があります。
この地図の左側の青い部分が標高約5メートルの大阪平野部、東に向かうに従って徐々に標高が高くなり、成田山不動尊の西側に急な段差があり、お寺のある部分の標高は約35メートルです。垂水神社の周辺ほどきつい坂道はありませんが、それでも地形はぼこぼこしており、成田山不動尊は周囲に比べて小高い場所にあるお寺です。とくに西側と北側に段差があります。
垂水神社は段差の中腹にありましたが、成田山不動尊は坂の上にあるお寺となります。周囲には香里園の住宅地が広がっています。
山門の様子。
10月末に訪問しましたので、七五三参りの看板が出ています。
さらに門があり、
こちらが本堂です。
成田山不動尊は正確には成田山明王院といい、宗派は新義真言宗智山派、千葉県成田市にある有名な成田山新勝寺の別院という位置づけになっています。
建立は1934年(昭和9年)、できてからまだ100年も経っていないという新しいお寺です。
このお寺の建設については京阪電鉄が大きく関わっています。
京阪沿線は大阪の中心部から向かって鬼門(丑寅)の方向にあるため、他の私鉄沿線に比べて宅地開発が遅れたという事情がありました。京阪沿線の住宅の価値を上げるため、厄払いの意味を込めて、関東から成田山のお不動さんを誘致(?)し、新たに丘陵部にお寺を建設したという経緯があります。
このため、今でもこのお寺の周辺には「成田」という地名が残り、京阪電車には各車両に成田山のお守りが取り付けられています。成田山といえば首都圏の京成電鉄ですが、京成と京阪にはこんな接点があったりします。
日本人は自ら無宗教と称する傾向がありますが、昭和の時代に鬼門などを気にするとか、今でもお守りとか、「どこが無宗教やねん」と諸外国からツッコミが入りそうです 笑。
このお寺の面白いところは、お寺の北にある奥の院がお寺より低い位置にある点です。
奥の院の段差。
この手前が奥の院です。
これは奥の院側(北側)から丘陵の上(南側)に向かってを撮影した写真。この段差の上側が、先ほどの本堂があった場所です。
成田山奥の院。
この奥にお不動さんやその他の仏様が祀られていました。
ちょうど丘陵部に穴を掘って作られた奥の院です。丘陵部の地形を生かした面白い奥の院になっています。
笑魂塚。
関西演芸協会による碑です。
よくある「招魂碑」の「招」に笑いの字を充てた碑になっています。神社の厳めしい碑に比べ、こういうお寺の碑の方が和みますね。
お寺の周囲の地形。
このような段差がみられます。左側が平野部、右側が丘陵部。
京阪香里園駅のすぐ東側も急な段差になっていました。
坂道の様子。
古い商店が坂道に沿って並んでいます。
割と古い建物で、かなり以前から丘陵部の斜面に商店があったようです。屋根が少しずつ高くなっていっているのが面白い。
「成田」の地名。
「成田南」って、ここは千葉県舞台のヤンキーギャグ漫画「カメレオン」の世界かと、思わず混乱してしまいます 笑。まさか大阪府内で「なりなん」の地名が見られるとはびっくり。
(3)美具久留御魂神社
続いては南東の羽曳野丘陵へ。
富田林市の美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)を取り上げます。
最寄り駅は近鉄長野線喜志駅です。
富田林市は大阪平野からはかなり南にあるため、この地図の右側の喜志駅付近で既に標高が50メートルほどあります。
この地図の左側(西側)が羽曳野丘陵で、中央やや左下の神社マーク(鳥居マーク)のある部分が、美具久留御魂神社のある地点です。神社の西側は丘陵部よりさらに小高い丘(山)になっており、標高は100メートルほどあります。
山の下に神社の拝殿があり、山そのものがご神体で、これが西側の溜池を経て羽曳野丘陵につながっているという形になります。このさらに西側には金剛ニュータウンが広がっています。
なお、この地図の左上に見える「文」の記号の学校が、野球で有名なPL学園です。
美具久留御魂神社の鳥居。
鳥居をくぐるとすぐに拝殿が見えます。
お参りの前に、ゆるキャラ「みぐくるん」がお出迎え(中央下側)。
美具久留御魂神社の起源は古く、崇神天皇の時代にさかのぼるとのことで、例によっていつのことやら分かりません。
この地に出没した大蛇が周囲の農民たちを悩ませ、大国主(おおくにぬし)を祀って神社が建立されたとのことです。羽曳野丘陵近辺は古代大和の拠点に近く、オオクニヌシは出雲系なので、説話の背景には大和と出雲の抗争があると思われ、この抗争の時期には信仰の地として存在していたのではないかと推測されます。
「みぐくる」は「水潜る」と思われ、垂水神社と同じく水に関わる信仰があった場所なのだと思います。
その後14世紀の鎌倉方と楠木氏の争いにより焼失、1585年に豊臣秀吉と和歌山の根来・雑賀衆との戦いにより再び焼失、現在の建物は再建されたものです。
奥にある丘陵部の山に登ります。美具久留御魂神社はここからが本領。
山そのものがご神体とのこと。
階段が続く。
突如現れる八紘一宇の碑。
皇紀2600年(1940年)記念の碑とのこと。
こういう碑が突如出てくるのも、神社あるある。
さらに山の上に向かいます。
道なき道になり、どこまで登るのか不安になってきます 笑。
いのしし注意。
同じく富田林市の瀧谷不動尊でも見られた表示です。
南河内の山にイノシシはつきもの 笑。
簡素ながら、なにかがお祀りされています。
頂上付近と思われます。
これ以上進んだら怒られそうな気もします。イノシシに会うのも嫌なので、降りることにします 笑。
丘陵部に小高いご神体の山がある神社で、なかなか雰囲気の良い神社です。
八紘一宇や皇紀2600年云々はともかく、単純に訪れるなら、今回の4つの社寺の中で個人的には一番お気に入り度は高いです。
下山後、神社の周囲の道にも皇紀2600年記念碑が。
たまたま写りこんだ自民党議員のポスターとセットの写真になりました。
富田林市のゆるキャラ「とっぴー」。
それなりに可愛げのあるデザインですが、大阪市城東区の「コスモちゃん」、大東市の「ダイトン」にデザインが似ているように思います。同じ人によるデザインかな?
神社の周辺、丘陵部は緩やかな坂になっています。
この坂の上にはPL学園があります。
坂に沿って見えてくる溜池。
南河内や泉州は溜池の多い場所です。
木々の間に見えるPLの塔。
貴志駅の東側には聖徳太子の碑が。
富田林市の東側、喜志駅から東に進むと太子町に着きます。
太子町は聖徳太子にゆかりのある町です。右には小野妹子の墓の碑もあります。
太子町のゆるキャラ「たいしくん」。
(4)聖神社
最後は和泉市にある聖神社(ひじりじんじゃ)です。
泉北丘陵(信太山丘陵)にある神社で、最寄り駅はJR阪和線の北信太駅です。
地図の右側、「聖」の字のあたりに聖神社があります。
北西の青い部分が平野側で標高約10メートル、南東の神社付近が標高約50メートル、北西にJRの路線が見えますが、この北側に北信太駅があります。
この神社は西側の低地に早くも鳥居が見え、坂を上がりながらそれなりの距離を歩いたところに聖神社の拝殿がありました。この神社のさらに東側には泉北ニュータウンが広がっています。
神社のかなり西側、低地にある鳥居の様子。
それなりに巨大な鳥居です。
鳥居の下を車が通れるようになっています。対向車は鳥居の外側を通る構造になっているようです 笑。道路のど真ん中に鳥居の足がありますが、これは土地の権利やら道路交通法上はどうなっているのかな?笑。
鳥居を越えて神社まではそれなりに長い道のりです。
なだらかな坂と集合住宅が見えます。
この坂の上が泉北丘陵(信太山丘陵)です。
古墳が見えてきました。
姫塚古墳という古墳だそうです。
歩けば古墳が見えてくるのが、河内南部と泉州北部の特徴です 笑。
古墳の周りの池も良い雰囲気。
…と思うと、鳥居の向こうはまだ住宅地です。
いつ着くねん!と突っ込んでしまいます 笑。
三度目の鳥居。
今度こそ拝殿に辿り着きました。
聖神社は日本歴史地名体系によると創建不明となっていますが、神社敷地内の表示では674年の創建となっており、天武天皇の勅願により建てられた神社のようです。別名を信太明神とも言われ、平安末期には後白河法皇の尊敬も厚く、熊野詣の経路にある神社として栄えました。
1604年に戦乱により焼失しましたが直後に豊臣秀頼により再建、その後1938年に解体修理が施され、桃山時代の特徴がよく残る、今回取り上げる社寺の中では建物としては最も古いものだそうです。
敷地内にひっそりと佇む戦没者記念碑。
ということで、丘陵地の境目に存在する4つの神社仏閣を取り上げました。
丘の下、丘の中腹、丘の上、それぞれに様々な目的で建てられた社寺たちは面白く、同時に平野-丘陵間の高低の様子も確認することができました。
共通点としては、どれも周囲が住宅地・ニュータウンになっているということ。
昭和の宅地建設の際に、神社周辺の森が脅かされる場所もあれば、ご神体の山林が残されている場所もある、宅地に沿って複数の鳥居が残されている場所もあれば、宅地のために新たにお寺を立てる場所もあるなど、なかなか面白い差異が確認できました。
畿内では神戸方面でも、六甲や須磨の山々に向かって、丘の上に建てられている社寺もあります。
最近は神戸方面にもよく遊びに行っていますので、そのうちこちらも記事にしようかなと思っています。