新プロパガンダ論/辻田真佐憲・西田亮介 | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

ゲンロン叢書の第008巻、辻田真佐憲さんと西田亮介さんによる「新プロパガンダ論」を読みました。現代日本の政治を考える上でたいへん面白い本でしたので、以下に本書の覚書と感想などをまとめておきます。

辻田真佐憲さんは近現代史研究家であり、プロパガンダ研究をはじめ、政治と文化の関わりについての多くの著作がある方。軍歌や各種音楽の研究者でもあり、直近では「古関裕而の昭和史」を昨年に出版されています。
自分は辻田さんの単著はすべて読んでおり、各種メディアへの出演もチェックしています。昨年11月よりゲンロンが運営する動画サイト「シラス」でも辻田さんはチャンネルを持たれ動画を配信されており、自分はこの動画チャンネルも楽しく鑑賞しています。
西田亮介さんは東京工業大学の社会学者で、公共政策の社会学がご専門。
自分は西田さんの著作は読んでいませんが、西田さんは社会学者宮台真司さんの弟子筋にあたる方で、宮台さんの登場する動画ニュースサイト「ビデオニュースドットコム」にも何度か出演されており、自分は西田さんの登場する動画も鑑賞しています。

本書「新プロパガンダ論」は、2019年~2020年にかけてゲンロンカフェで開催された、辻田さんと西田さんによる計5回の対談を1冊にまとめたものです。
現代日本の政治とプロパガンダ政策についてお2人が語られており、主に辻田さんは歴史的・文化的側面から、西田さんは社会的・制度的側面からの発言をされています。
現代日本の政治の是非について、大筋ではお2人が合意する形で対談が進んでいきますが、ときに意見が一致しない部分もあるなど、スリリングな対談になっています。


本書の覚書(自分なりの要約含む)。

本書の構成は5章立て。
第1章では、辻田さんによるプロパガンダの定義(プロパガンダとは政治的・組織的な宣伝活動を言う)が提示され、古今のプロパガンダの事例が紹介されます。
プロパガンダは上から(政治側から)提示される側面と、下から(大衆側から)便乗する側面があり、しばしばエンターテインメントの形で現れる。
とくに日本では忖度による自主規制が機能しがちであること、その一方でプロパガンダ政策がどの程度現実的に有効に機能しているかが計測困難な点も強調されています。
第2章では自民党を中心とした現代日本の宣伝戦略の事例が紹介され、与野党の宣伝戦略にかけられる経費の差(当然与党が多い)の問題や、野党の戦略性の薄さの問題などが指摘されています。
この中で、辻田さんは自民党の宣伝戦略はプロパガンダであり警戒すべき対象であると発言されていますが、西田さんは自民党の宣伝はプロモーションの域を越えるものではなく、むしろ政治をより多くの人に届けることの重要性を指摘する旨の発言をされており、お2人の意見が対立しています。
本書の主題であるプロパガンダを考える上で、この第1章・第2章はたいへん重要です。

第3章では現代日本の政治・メディア・天皇の問題などが幅広く語られており、共産党・れいわ新撰組・N国党の情報戦略の是非、NHKをはじめとするメディアの問題や、地方行政の問題、新天皇の即位等の話題が登場。とくに天皇制は日本における前憲法的前提であるという指摘は重要。
第4章はコロナの問題が主題。
この章では西田さんが制度面から多くの発言を行っており、コロナによる個人支援以前にそもそも日本では個人事業・中小企業の支援が比較的手厚いこと、その一方で支援に関わる情報発信が少ないこと、生活と事業を分離する政策の重要性(生活には給付を、事業には好条件での貸与を)、新型インフルエンザ特措法は旧民主党時代の補完性原理の影響が色濃いこと、感染症法がたいへん慎重に作られている(らい予防法への反省)ことなど、非常に重要な指摘がなされています。
総じて日本は良くも悪くも全体的な統制に対し抑制的で、政治の強制性が薄い国家であるという構造が分かります。(ただし一方で中間集団の自主規制と同調圧力が非常に強いことには注意)。
第5章では7年半にわたる安倍政権の総括を中心に、日本の政治制度について語られています。
個人的には、記者会見の問題(質問は事前に準備され、首相はプロンプターを読むだけという会見対応の弊害)、放送免許とメディアの問題(総務省がテレビに放送免許を付与する形なので、テレビは自由な政権批判ができない)、内閣人事局の問題(政権による恣意的人事が官邸官僚の跋扈と忖度政治をもたらす)などが重要であると感じます。
現代日本の政治と制度を考える上で、この3章から5章はたいへん面白いです。


考えたことを3点ほど。

プロパガンダへの抗いについて。
「安倍晋三侍」をはじめとする自民党の広報戦略について、これがプロパガンダなのかどうかについては本書では意見が分かれていますが、自分はこの手の広報はプロパガンダであると構えた上で受け止める方が妥当であると考えます。
プロパガンダの受け止め方として自分が頭に浮かんだのは、美術学者である佐々木健一さんが著書「美学への招待」のなかで言及されている、現代美術の受け止め方「しなやかな応答」です。この佐々木さんの著作では、イヨネスコによる難解な不条理劇を、バタイユがファルス(笑劇)として解釈した例などが紹介されています。現代美術作品はその時代の政治・社会状況や、過去の美術史などを反映した難解なものもみられますが、鑑賞の仕方は自由であり、作品の背景を推察したうえで、別の角度から作品の面白さをすくい取って楽しく鑑賞することも可能です。
プロパガンダも同じ、古今のプロパガンダの事例を知ることにより、「しなやかな応答」が可能になる。
自分は上のバタイユの例と同様、笑いの要素が重要であると考えます。プロパガンダは笑いの宝庫。過去の様々なプロパガンダの事例を知った上で現在の広報を見ていくと、馬鹿馬鹿しくて笑えるものもたくさんあります。
新たな政治の広報に対し、一旦プロパガンダであると構えた上で、広報をある種のアート的に「鑑賞」し、しなやかに応答し、「次はこの手で来たか」「これは過去の○○のパクリか」「これは失敗やな」等々、笑えるようになればしめたもの。笑いは政治戦略をいなし、冷静さを取り戻すためにも有効です。
そのための過去のプロパガンダの事例・傾向を知る上でも、本書「新プロパガンダ論」は重要です。

日本の非統制的な統治について。
とくに本書の第4章を読んでわかるように、日本の統治権力は相対的に権力の行使に対し抑制的で、統制的というよりも分権的(むしろ中間集団による自主規制や同調圧力が強い社会)。我々は緊急事態宣言のような政策により国家から統制を受けていると思いがちですが、多くは自主規制の要請であり、権力が直接的に行使されない形をとっています。これは人々が比較的自由に振舞えるという反面、対コロナにおける病床の逼迫(民間病院への統制に対する法的不作為)の例など、感染症に対してはマイナスの側面もあります。
直接的統制が比較的弱いということは歴史的にもそうで、例えば最近の本であれば荒木田岳さんの「村の日本近代史」からもうかがうことができるように、明治の地租改正や市町村制の制定等の地方の諸政策もさほど統制の強いものではなかったようです。日本の統治は伝統的に積極的統制に対しては抑制的、ことによると「縦割り行政」のようなものも全体的な統制を回避する傾向の表れなのかもしれません。(このことは天皇が直接権力を行使しない、天皇不親政の伝統とも繋がるのかもしれません。)
一方で30年代の陸軍統制派の動きや国家総動員体制にみられるように、日本は統制的になろうとすると一気にグダグダになり、ヤバいことになるというのも歴史が示す通り。自分は日本においては文化的にも「程よい統制」が理想的であると考えます。対感染症に対しては日本の政策は弱みをみせますが、その一方で統制が強すぎるあまり暴動のようなものが発生するといったことがないのは、日本の良い点だと思います。
ともすれば現在の自民党政治は非戦略的な直接的統制を志向しがち(昨今であれば入院拒否に対する懲役刑の導入などに代表される)ですが、日本にとってこのような統制がヤバいのは戦前の歴史が示す通り。非統制的な統治を前提としつつ、他国の例に惑わされることなく、日本にとっての統制/分権の比率の模索、絶え間ない補完性原理の追求が肝要なのではないか、本書を読んでこのようなことも感じます。

専門知と総合知の問題について。
本書では、十分に検証された専門家の言説が「専門知」であるとされます。専門知は一般の人にとって難解である上に、専門的になりすぎるため他分野への応用が利かないという面もある。そのため多分野を総合的に俯瞰する、ざっくりとした見取り図たる「総合知」が重要であり、本書ではこの総合知を担うのが評論家であるとされています。プロパガンダに抗うためにもこの総合知的な視点は必要です。
しかし、現在の専門家がこのような評論家のわずかな欠点をあげつらうことがしばしば行われ、その結果総合知的な視点が見失われ、フェイクニュースや陰謀論が流行る土壌になるとの指摘は非常に重要であると感じます。
これで思い出したのが、今から10年くらい前の、橋爪大三郎さんと大澤真幸さんによる著作「ふしぎなキリスト教」と、それに対する宗教学の専門家へからの批判です。橋爪さんも大澤さんも宗教の専門家ではないですが、「ふしぎなキリスト教」はキリスト教を考える足掛かりになる大変わかりやすい著作で、宗教を総合知的に考えることのできる著作した。

しかしこの本を批判する専門家によると、この本には細かい間違いが多数あるらしく、この細かい間違いを逐一指摘する専門家による著作も追って刊行されました。
自分も本屋さんでこの専門家による批判的著作にもサラッと目を通しましたが、その内容は「専門書を全て読め」という非常にマッチョな、とうてい一読書人には届かないと思われる内容であったように記憶しています。
さらに個人的な経験を書くと、自分はキリスト教の高校に通っていましたが、この高校の宗教的な教育方針がなかなか腑に落ちず、違和感を感じながら学んでいました。しかし後に小室直樹さんの著作「日本人のための宗教原論」を読んで、ようやくキリスト教の何たるかがそれなりに理解でき、出身校の宗教的な考えを相対化できたという経験があります。
小室直樹さんとその弟子の橋爪大三郎さんはいずれも総合知の権化のような人で、自分は様々な著作で盲を開かれる経験をしています。一読書人にとって総合知は大変重要です。
本書「新プロパガンダ論」の辻田真佐憲さんは在野の研究者であり、西田亮介さんもさかのぼれば小室直樹の系譜につながるともいえる人、どちらも総合知の発信を大切にされている書き手です。専門的でありつつも総合知的な発信を続ける姿勢は重要であり、自分のような一読書人にとってはたいへん貴重な存在です。



ということで、「新プロパガンダ論」は現代政治とプロパガンダについて考えることができる非常に面白い著作でした。
ゲンロン叢書の中では、個人的には過去に記事化した「新記号論」と並ぶくらいに面白い本。

「新記号論」はかなり難解な本でしたが、「新プロパガンダ論」は分かりやすく読みやすい、まさに総合知として読める本だと思いますので、現代の政治戦略に飲み込まれないためにも、多くの人にお勧めしたい著作です。



おまけ。

今回はサイン本を注文しました。ゲンロンでサイン本を頂くのは初めてです。



辻田さんの著作のある棚とセットでの記念撮影 笑。