文明の海洋史観/川勝平太 | れぽれろのブログ

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川勝平太さんの「文明の海洋史観」(中公文庫)を読みました。
非常に面白い本で、かなり気が早いですが、今年のマイベストの1冊になること間違いなしの本です。

川勝平太さんは1948年の京都生まれの経済学者、比較経済史が専門、2009年より静岡県知事を務められている方。
本書「文明の海洋史観」は1997年の著作で、読売論壇賞を受賞しており、2016年に文庫化されています。本書は90年代にまとめられた論文をベースにしたもので、自分の記憶ではおそらく90年代末のNHK人間大学でこの著作に関わる内容が放送されていたと思います。



本書の概要(自分なりの要約含む)。

本書は梅棹忠夫の著作「文明の生態史観」をアップデートするものです。
梅棹忠夫の生態史観は、ユーラシア大陸を模式的に分割し、各地域の歴史と特徴をまとめた論考です。(概要はこちらの記事の下の方でまとめています。→[読書記録 2014年(7)]
簡単に概要を記載すると、ユーラシア大陸の中央に乾燥地帯があり、その周辺が第2地域(中国・イスラム・ロシア・インド)で古代から近世まで帝国が形成された場所、その東西の端っこが第1地域(西洋・日本)で他地域に先駆けて近代化を達成した場所。(詳細は上のリンク先にある図が分かりやすいと思います。)
この梅棹理論の特徴は、西洋と日本の類似性を指摘し、近代化のスピードは民族・人種の優劣等によるものではなく、地形と場所の問題、「空間」の問題であると捉えられている点にあると考えます。

自分は「文明の生態史観」の感想(上のリンク先の記事)で、「現在からみると第1地域は東西の差異の方が目立つ」と書いています。

本書「文明の海洋史観」は、まさにこの梅棹理論の第1地域の差を詳述するもので、キーになってくるのが海洋です。梅棹理論は陸上の地形を重視するものでしたが、川勝理論は海洋をベースにして梅棹理論をアップデートし、第1地域の東西の差、具体的に西ヨーロッパと日本の差を詳述しています。
西ヨーロッパも日本も、7~8世紀以降大陸の帝国(それぞれイスラム帝国・中華帝国)に従属する存在でしたが、14~16世紀を画期として17~18世紀に独自の経済革命を成し遂げ、近代化に至る土壌が形成されたと、本書ではまとめられています。

西ヨーロッパの場合、7世紀以降台頭したイスラム帝国に押され、これをきっかけに自主防衛的に形成されたのが中世フランク王国です。
長らく東方のイスラム帝国が先進地域で、西ヨーロッパは後進地域でしたが、15世紀末にレコンキスタを完成させ、16世紀にはレパントの海戦でイスラムを破ります。このきっかけになったのが海洋への進出で、ヨーロッパの域内の労働・資源の不足を大西洋・インド洋の先にある南北アメリカ・アフリカ・アジアのフロンティアに求めました。
この結果西ヨーロッパは経済成長し産業革命に至りますが、それはフロンティアを前提にしたものであり、域外への拡張をベースとする近代化は断続的な軍事拡張と自然破壊をもたらすことになりました。

一方の日本の場合、7世紀に白村江の戦いで中華帝国に敗れ、これをきっかけに律令国家が形成されます。
西ヨーロッパに対するイスラム帝国と同様、長らく日本にとっては中華帝国が先進地域でしたが、13世紀の元寇以降日本は倭寇という形で海洋に進出、14~16世紀にかけて環シナ海(東シナ海・南シナ海)にて明帝国を脅かす(北虜南倭)存在になります。
西ヨーロッパはレパントの海戦でイスラムに勝利しますが、日本は逆に16世紀末の朝鮮出兵に失敗し、17世紀以降日本は海洋から撤退、鎖国に転じます。

日本は域内の労働・資源の不足をフロンティアに求めるのではなく、農業改革により域内の土地の生産性の上昇(勤勉革命)を成し遂げ、19世紀半ばに至るまで軍縮(戦国時代に隆盛を極めた鉄砲を放棄)と自然調和をベースとする独自の豊かな文化を形成するようになります。

このように、梅棹理論の大陸・地形ベース、「空間」ベースの思考をアップデートし、大西洋・インド洋・環シナ海への進出を考慮に入れ、西ヨーロッパ/日本、海洋へのさらなる拡張/海洋からの撤退、産業革命/勤勉革命、フロンティアの拡張/土地の生産性向上、軍拡/軍縮、自然破壊/自然調和、という対立軸を描いたのが川勝理論の概要です。
西ヨーロッパも日本もともに19世紀後半に帝国主義化し、第2地域(イスラム帝国・中華帝国)に進出しますが、そのベースとなったのは17世紀以降の生産革命であり、その形は西と東で大きく違ったものであったということが、本書では描かれています。


本書のさらに面白い点は、ダーウィン生物学-マルクス主義-唯物史観-戦後東大アカデミズム的なもののオルタナティブとして、京都学派-今西生物学-生態史観-戦後京大アカデミズム的なものを考えている点にあります。

本書は1997年に出版されており、そのもとになった論考は90年代、ちょうどソ連崩壊後の時期、共産主義の不可能性が明らかになった時期と重なります。
戦後日本の東大を中心とするアカデミズムの世界では、長らくマルクス主義的唯物史観が権威を持っていました。
ダーウィンの進化論(生物は闘争と淘汰により単線的に進化する)にヒントを得たマルクス主義的発展段階説(文明は封建制から資本主義を経て共産革命に至る)は、「時間」を重視した考え方。ヨーロッパや日本あるいは他後進地域が現在どの発展段階であるかという、時間ベースの議論が成され続けました。
しかしソ連の崩壊により、当然のことながらこの議論のベースは揺らぐことになります。

それに対し、川勝理論が重要視するのは京都学派の伝統です。
京都学派は西田幾多郎にさかのぼり、物(≒主語)概念より場所(≒述語)概念を重視する、「空間」を重視する思考であると考えることができます。
この「空間」ベースの京都学派の思考が、戦後の京大教授である今西錦司の生物学の主テーゼである棲み分け理論(生物世界を闘争-淘汰モデルではなく、共存モデルで考える)に影響を与え、それが梅棹忠夫の生態史観(「空間」による地域の分割と歴史モデルの提示)につながっている。
マルクスが近年においても読み返される必要のある重要な思想家であることは言うまでもありませんが、発展段階説を取るマルクス主義的唯物史観、その「時間」的モデルは今日ではその有効性に限界がある。
そのオルタナティブとして、京都学派をベースにした「空間」的モデルから派生した梅棹生態史観を元に、海洋と経済との関わりを加味してアップデートしたのが本書の海洋史観であり、マルクス的発展段階説を超克する1つの歴史経済モデルとして考えることができます。



本書は様々なことを考えさせる本ですが、差し当たり考えたことなどを3点ほどまとめておきます。

「空間」の重要性。
空間が政治・文化を規定するという考え方は最近の当ブログでしきりに出てくるテーゼで、W・H・マクニールやJ・ダイアモンドの歴史学、原武史の政治思想史などを考える際にも、空間についてコメントしてきました。
本書「文明の海洋史観」は海洋という空間から日本史を考えることのできる大変刺激的で面白い内容、その空間という概念が京都学派にもリンクしているということがたいへん面白いです。
あらためて京都学派の重要性が分かると同時に、その京都学派自体、その発生過程は京都という都市空間とおそらく関係があるのではないか。梅棹理論や川勝理論の空間的な見立てを日本国内に適用すると、東と西に首都圏と近畿圏という2つの大都市圏があり、それぞれの地形的な差異・海上交通の航路の差異が、政治的・文化的な差異と関連しているのではないか、等々考えることもできそうです。
首都のオルタナティブとしての京都学派と、近畿圏及び京都という都市空間の関連性をあれこれ考えると、近畿圏周辺の街歩きがまた楽しくなりそうです。

環境の臨界問題と近世日本の勤勉革命について。
現代世界の環境の臨界問題(地球規模での人口増加と資源の限界問題)は絶え間ないフロンティアの拡張の延長上にある問題で、西ヨーロッパ的な海洋進出がその起源であると考えることができます。
西ヨーロッパのオルタナティブとしての近世日本の勤勉革命(フロンティアからの撤退と土地の生産性向上)を考えることは、拡張主義の放棄を考えること、現代世界の環境の臨界問題を考えることとリンクします。
個人的には「勤勉革命」という語感がどことなく気に入りませんが(これは人口学者速水融による命名だそうです)、拡張主義ではない産業改革という視点は重要で、これを地球規模で考えることのがいかなる条件にて可能であるかについては検討に値します。
同時に渡辺京二「逝きし世の面影」で描かれたような近世日本の捉え方も変わります。自分は過去より、「逝きし世の面影」で描かれた日本は「本来の日本の姿」などではなく「前近代の社会の姿」であると書いてきましたが、海洋史観を経由するとこの自分の解釈も修正を迫られます。
近世日本に「前近代の社会の姿」を見るというのはまさにマルクス的発展段階説-東大アカデミズム的思考につながる見方であり、これを海洋からの撤退と空間的棲み分けの結果であるという京都学派に連なる見方で考え、近世日本の勤勉革命的なものの成果であると捉えると、「逝きし世の面影」もまた違ったものとして見えてきます。

情報化社会について。
本書は1997年の著作であり、情報化社会については楽観的な見方がされており、情報は分けても減らず、排他的な所有には適しない、故に情報化社会は私的所有権の根幹を揺るがし、同時に情報化により必ずしも大都市に住む必要はなくなり、都市への遍在から地方の時代へ、等々書かれています。
この本から20年以上経過した現在、重要な情報がグローバル企業のライセンス産業等により囲い込まれる一方、不確かな情報が拡散・蔓延しそれが国際政治に影響を与えるという事態に陥っており、私的所有の緩和どころかグローバル格差は広がるばかり、大都市一極集中は進むばかりです。
海洋史観は今後の世界環境や経済の考え方に重要な示唆を与えるものですが、本モデルで情報化社会を考えるには当然のことながら限界がある。
現在アップデートされるべきなのは、同じく梅棹忠夫による著作「情報の文明学」であるのかもしれません。「情報の文明学」は、人類の産業が農業(消化器官の充足)→工業(筋肉や骨の代替)→情報産業(脳の代替・充足)と発展してきたこと、同時に農業や工業も情報産業的に生産・消費される時代が来る、等々まとめられている著作です。
「情報の文明学」は歴史的な時間軸に沿って情報の変遷を考えたと読める著作ですが、京都学派に立ち返ると、ここでもおそらく空間的な思考が重要になるのではないか。例えば見田宗介による交響圏モデル(情報化社会における個体・群体の関わりを空間的に示したもの)を京都学派的にアップデートする、等々の思考が重要になってくるのかもしれません。



ということで、「文明の海洋史観」は様々なことを考えさせる本でした。
さかのぼって梅棹忠夫や京都学派のその他の著作も読んでみたくなり、また読書の幅が広がりそうです。