池田市 小林一三記念館 | れぽれろのブログ

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8月3日の土曜日、大阪府池田市にある小林一三記念館を訪れ、合わせて阪急池田駅周辺を歩いてきましたので、覚書と写真などを残しておきます。

前々回の記事で書いた通り、自分は現在にわか鉄道ファンと化しています(笑)。
関西の私鉄のみならず、日本の鉄道を考える上で最も重要な人物の1人が、小林一三です。
その名を冠した記念館が大阪府内にありますので、これはぜひ訪れておこうということで、猛暑の中、阪急宝塚線に乗って池田市まで行ってきました。



(1)小林一三記念館

小林一三記念館があるのは、阪急池田駅の北側。
駅前商店街を北に向かって歩き、旧能勢街道に沿って東へ、中世に池田城があったところのやや東側にありました。


入口。

小林一三の邸宅を改造してできた記念館です。
小林一三記念館は大きく雅俗山荘と白梅館の2つの建物からなります。
雅俗山荘が小林一三の旧邸で、かつては美術館として運営されていましたが、現在は小林一三の生涯を伝える展示と合わせて、邸宅の趣きを味わえる建物になっています。
白梅館の方は後に増築された建物で、こちらは阪急電車や宝塚歌劇団や東宝グループについて展示されています。
この白梅館の内装も面白く、展示スペースは外側から見ると阪急電車のマルーンカラー、内側は阪急電車内の木目調のデザインでゴールデンオリーブ色の座席があしらわれており、楽しいカラーリングになっていました。
その他、小林一三と阪急の歩みが分かりやすい映像で紹介されているスペースもあります。


展示内容の覚書と感想など。

小林一三は1873年(明治6年)に山梨県に生まれ、慶應義塾を卒業後三井銀行に勤務、証券会社の設立のために妻子共々大阪にやってきますが、日露戦争後の戦後不況で証券会社の話は立ち消えになります。
折しも1906年の鉄道国有法により阪鶴鉄道(大阪-舞鶴間の鉄道)が国有化され、阪鶴鉄道が検討中のまま保留にしていた梅田-箕面-有馬間の鉄道敷設計画を一三が引き受けることになり、現在の阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が設立されます。

箕面は滝と紅葉が有名な観光地、有馬は温泉で有名な観光地、大阪市の中心である梅田からこれらの観光地へ人を運ぶのがこの鉄道の目的ですが、小林一三が考えたことはそれだけに非ず。
沿線に住宅地を開発し日本初の月賦で住める住宅を販売、これにより郊外一戸建てから電車に乗って都心へ通勤する生活スタイルが日本で初めて確立します。
同時に起点と終点の開発を行い、休日のレジャーとショッピングをも電車が取り込むことを検討。
最終的に有馬への延伸は断念し、宝塚を終点としここに歌劇場を作ったのは有名な話。今回の展示で初めて知りましたが宝塚より早く箕面に動物園が設立されており、展示のマップを見る限りかなりの量の動物が集められ、宝塚の開発以前から箕面の開発に力を入れていたことが分かります。
一方、起点にはショッピングのためのビルを建て、当初は白木屋に店舗を貸し出して営業していたようですが、やがて阪急自社のテナントを出店するようになりこれが後に阪急百貨店となる、やがて建物は地上8階地下2階の高層ビルとなり、最上階のレストランではコーヒー付きのカレーライスが安価で提供され、阪急百貨店の名物となります。

白梅館では当時の沿線図なども展示されていましたが、中でも楽しいのが、すごろくの展示です。
梅田から箕面・宝塚まで2マスごとに各駅が表示され、その間のマスにも周辺の名所の様子などがカラフルに描かれており、イラストを見ているだけで楽しい。
当時の阪急梅田駅は国鉄梅田駅の南側にあり、高架で国鉄の線路の上を通って北に向かっていましたが、このすごろくの梅田から1マスめには国鉄の蒸気機関車を乗り越えてその上を通る阪急電車がわざわざ描かれているのも面白い(笑)。
神戸線が開通してから作られたすごろくも展示されており、こちらは大阪-神戸から北側の広域にわたるマップが面白く、スタートは梅田または神戸でゴールが宝塚、サイコロの目により途中で箕面ルート・六甲ルート・西宮ルートに分岐するルールで、終盤は宝塚周辺をぐるぐると回り所定のサイコロの目が出ないと上がれない、下手をするとすぐに能勢や有馬に飛ばされる(笑)、「これいつ終んねん」という感じの難易度の高いすごろくになっていました(笑)。

小林一三は野球の普及にも尽力、宝塚に社会人野球チームを作り、西宮に球場を作りました。プロ野球と鉄道の関わりが重要になるのは戦後ですが、これ以前の草創期の野球にも小林一三は関わっていたようです。
東京に進出し東宝を立ち上げたのも小林一三、展示場には往年の役者が描かれたカルタなども展示されてまいた。
東急を立ち上げ沿線開発を行ったのは五島慶太ですが、そのバックにも小林一三がおり、展示によると小林一三は無報酬で五島慶太の経営をサポートしていたようです。
1940年の近衛内閣において小林一三は商工大臣に就任しますが、商工官僚の岸信介とうまが合わず数ヶ月でやめています。統制主義の革新官僚である岸と自由主義経済の体現者である小林では、やはり話が合わなかったのかもしれません。
戦時下は茶に没頭、このときの住まいが現在の記念館になっており、離れには茶室もありました。
戦後は再び東京で復興院総裁になりますが、近衛内閣下で大臣であったことが災いし政界からはパージ。
その後も多くの文化人と交流し、1957年に亡くなっています。

小林一三が行ったことは「無中に有を生じ」させる取り組み。
人の住んでいるところに電車を通すのではなく、誰も住んでいない場所に電車を通し人を住まわせる。
世の中のニーズに応えるのではなく、自らがデザインしたように社会を変える。
現代風に言うとthink differentであり、小林一三はApple的なもを20世紀初頭に体現していた人、と位置付けても良いのかもしれません。
(一応書いておくと、自分は「企業が社会をデザインする」というような阪急-Apple的な考え方にはやや疑念を持っており、阪急的なものの成れの果てが70~80年代の郊外化であれば、果たしてこれがベストだったのかという気持ちはあります。)


こちらが雅俗山荘。小林一三の旧邸です。

1937年竣工の建物。
以前は美術館だったようです。良い感じの建物です。
現在は小林一三の生涯の展示とともに、建物の内装の様子も堪能できます。
予約すればレストランとしても利用できます。
離れには茶室もあり、こちらも利用できるようです。



(2)池田市の様子

さて、ここからは池田市の様子について。
池田市は大阪府の北西部にある市で、西の猪名川を超えると兵庫県です。
応神天皇の時代(いつなのかは具体的に不明)に渡来人である呉織(くれはとり)により機織業がこの地に伝えられ、呉服里(くれはのさと)などとと呼ばれていました。
中世には池田氏が池田城を築城、近世には能勢街道沿いの市場町として栄えました。
近代になると上に書いた通り阪急宝塚線の沿線の街となります。
現在市内にはダイハツの本社やリコーの研究所などがあり、日清食品のカップヌードルミュージアムがあったりします。
小林一三が初めて住宅を売り出したのが池田市室町の住宅地で、これが日本初の郊外分譲住宅地、池田駅南側の呉服神社(くれはじんじゃ)のすぐそばの住宅地がこれに当たるようです。


駅を降りるとすぐ南側に巨大な鳥居。



しばらく歩くと神社が見えてきます。

こちらが呉服神社です。
幼稚園のお魚に誘われ、神社へ。


拝殿。


呉服神社は上の如く応神天皇の時代に遡る、畿内でいつもお馴染みの「起源不明だがとにかくやたらと古い神社」の1つ。
室町時代創建となっている書籍もありますので、実際には中世の池田氏の時代にこの地に建てられたものと思われます。
地元では1月10日のえべっさんで有名な神社のようです。
呉服(くれは)は機織業の渡来人に由来しますので、やはり呉服(ごふく)と関係があるのかも。


こちらは逸翁美術館。

小林一三記念館の西側にあります。
元々は上の雅俗山荘が逸翁美術館でしたが、現在はこの新館に移転。
展示は今回は鑑賞しませんでしたが、また追々訪れたいと思います。


能勢街道周辺の街の雰囲気も良い感じです。





さて、池田市の街には謎の生物が潜んでいます。

ベンチの上や



ポストの上にも


 

商店街ではゆるキャラ化されています。

 

これはウォンバットという動物で、池田市の五月山動物園の名物なのだそうです。
オーストラリア原産で、コアラなどに近い生き物なのだとか。
池田市はこのウォンバットをやたらと推しています。


池田の大決闘 ひよこちゃんvsウォンバット

「大怪獣空想都市!巨大な怪鳥と迎え撃つ魔獣!」
なんやこれ、の看板です 笑。
池田市政施行80周年記念作品とのことで、池田市の市役所の前に真面目に表示されています。
迫りくる巨大化したひよこちゃんから池田市を守るべく、正義のためにウォンバットが立ち上がる、という設定のようです。
一昔前の劇画風、映画広告風の表示が笑えますね 笑。


まち角の図書館

池田市役所前の公園のそばにありました。
自由に借りて読んでもいい書籍のようです。
道端に本があるなんて、なかなか素敵な取り組みですね。


池田市にはこのほかにも見どころはもっとたくさんありますが、暑くて歩いていると死にそうなので、この辺で。
逸翁美術館含め、また訪れたいです。