放送禁止歌 | れぽれろのブログ

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以前の音楽の記事で、Blanky Jet Cityの「悪いひとたち」のCDが、歌詞の問題からメジャーレーベルとして販売できなかったことを書きました。
歌詞の問題による自主規制は古くからの問題。
今回は80年代以前、当時の日本民間放送連盟(民放連)による「要注意歌謡曲指定制度」にて指定された楽曲など、いわゆる放送禁止歌について、いくつかの楽曲を並べてコメントしてみたいと思います。

民放連により要注意歌謡曲指定制度が制定されたのは1959年のこと。
ラジオ・テレビが普及し放送事業が拡大していた時代、放送という公共性の強い媒体で取り上げてよい楽曲であるか否か、その判断のための一つの指針として、要注意歌謡曲指定制度が制定されたようです。
簡単に言うと、この制度で指定された楽曲は、ラジオやテレビで放送すべきではないと判断されたということです。
この制度は決して法的なものではなく、民放連による自主規制です。
時代を経て1983年まで制度は存続しましたが、現在ではこの制度自体はなくなっているようです。

自分は森達也さんの1999年のドキュメンタリー作品「放送禁止歌 -唄っているのは誰?規制するのは誰?-」でこの要注意歌謡曲指定制度について知りました。
森さんのドキュメンタリーでは、この制度は各放送局に対する具体的な拘束力や罰則規定はなく、あくまで判断の目安として民放連が規範を示しているだけであって、最終的に放送するかどうかは各局の自主的な判断に委ねられていたという事実が示されています。
つまり、規制している人は実は誰もいなかった、というのが森さんのドキュメンタリーの結論です。
しかし現実には各局はこの指針に従い自主規制を続けました。
実際のところ、他律的根拠があれば楽なので、各局は指針の通りに機械的に○×を判断していたということのようです。

以下、森さんのドキュメンタリーにも登場した5つの楽曲を並べてみます。
取り上げる楽曲は60年代~70年代のもの。
「なぜこれが当時は放送不可だったのか?」と思うか、「これは今でもやっぱり難しいな」と考えるか、現代の状況と重ね合わせて考えながら聴いてみると面白いかもしれません。



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・自衛隊に入ろう/高田渡 (1969)

 


まずはフォークシンガー、高田渡の楽曲から。
原曲はアメリカのフォークソング、そこに高田さんが詞を付けています。
この曲はかなり有名な曲のようで、自分の母もときどきサビの部分を鼻歌で歌ったりししていたので、子どものころから自分はこの曲は知っていました。(母は1951年生まれで、横浜の短大でフォーク部に所属していました。)
自衛隊を茶化したような楽曲ですが、動画中の高田さんのコメントにもあるように防衛庁自体にも受け入れられていたという事実もあるようです。
つい鼻歌で歌ってしまう楽しいメロディですが、歌詞はシニカルなもの。
森さんのドキュメンタリーによると、高田さんは19歳でこの曲を作詞、しかし歌い始めてすぐに放送禁止扱いになったのだとか。
当時もこの楽曲は問題だと捉えられていたようですが、もし今この曲を放送したら今の方が大炎上しそうです。(個人的には今聴くとと「えらい呑気な曲やな」という感じを受けます。)
「右でも左でもない」は今では右の定型句、しかしこの動画の当時は「右へ行っていいのやら、左へ行っていいのやら」と称している主体は、今より左だったのかもしれません。(それだけ時代が右にシフトしているということなのだと思います。)
合いの手を入れて茶化しているのは岡林信康さんでしょうか?
四条河原町云々の合いの手が入っているので、京都でのライブなのかも。



・悲惨な戦い/なぎら健壱 (1973)

 


楽曲が放送禁止とされる主な理由には、政治的理由によるもの、差別に関わるものの他に、猥褻であるからという理由の場合もあります。
この「悲惨な戦い」はまさに猥褻物陳列がテーマ。
若秩父という名の力士のまわしが土俵上で外れ、それがテレビを通じて全国に放送され、さらには会場の照明の手違いからスポットライトが照らされ、あまつさえサポートに入った弟子が転んで若秩父の○○を掴むという、楽しいドタバタ・ギャグソングになっています。
今聴くと他愛もない楽曲に聴こえますが、これも要注意歌謡曲に認定。
若秩父は実在の力士ですが、この歌は当然のことながらフィクションで、この歌詞のように土俵上でまわしが外れた事実はありません。
なぎらさんは若秩父のファンなのでこの歌を作ったようですが、森さんのドキュメンタリーで「失礼なことしちゃったかな」と語っていたのも印象的です。



・SOS/ピンクレディー (1976)

 


有名な曲ですので、なぜこの曲が放送禁止?と思われるかもしれません。
要注意歌謡曲は、楽曲全体が問題であるとされるものと、部分的に問題であるとされるものがあり、この曲は後者に当たります。
楽曲の冒頭にSOSのモールス信号(・・・ --- ・・・)が挿入されており、遭難信号が放送されるのは問題であると判断されたようです。
この動画は比較的最近のDVDかカラオケか何かなの映像なので、きっちりモールス信号も流れていますが、YouTubeで検索してみると、70年代当時のテレビ映像と思われるものは、すべて冒頭部分はカットされています。
遭難信号の放送は今でも問題であると判断されるようで、数々の放送禁止歌がノーカットで放送された森さんのドキュメンタリーにおいても、唯一この曲だけは「ピー音」入りでした。
自分はたまたま昨年末のレコード大賞でピンクレディーの「SOS」を聴きましたが、モールス信号部分はやはり改変されており、やっぱり今でも無理なのだなと感じました。
ちなみに「男は狼」であることが当然視されたような歌詞は、現在の女性目線からすると別の意味で非難が起こりそうな気もします。



・放送禁止歌/山平和彦 (1972)

 


かなりストレートなタイトル、要注意歌謡曲指定制度そのものを茶化したようなタイトルです。
すべて四字熟語(一部は五字熟語)でそろえられた歌詞が面白く、熟語のつながりから、政治やら猥褻やらに関わる表現規制を風刺したように読める内容になっています。
1番の4フレーズめ、「山平和彦 時節到来」は、元々は「職業軍人 時節到来」であったらしく、森さんのドキュメンタリーで1999年時点の山平さんが歌われていた歌詞も「職業軍人」になっていました。(このテイクもなかなか良くて、以前はYouTubeにも上がっていた記憶がありますが、現在は見られなくなっているようです。)
山平さん自身はこの曲は世間からは喜ばれるであろうという期待があったようですが、民放連を舐めているという理由で放送禁止になったのではないか、と語られています。
上の「自衛隊に入ろう」などに比べると、現在もしこの曲が放送されたとしても、意外とあまり反発は出ないようにも思います。



・手紙/岡林信康 (1970)

 


岡林信康さんは多くのプロテストソングを作られた方で、放送禁止とされた楽曲も多い方です。
この「手紙」は放送禁止であること自体が有名な楽曲、放送禁止歌の中の放送禁止歌とでもいえるような楽曲です。
上に取り上げたいくつかの楽曲のようなシニカルさやユーモアやアイロニーはなく、かなりストレートな部落差別批判、結婚差別批判の音楽になっています。
部落差別自体を糾弾している楽曲であるにも関わらず放送禁止であったということが、部落差別問題の根深さが現れているように感じられ、このことの背景には、当時公然と多くの結婚差別が行われていたということもあるのかもしれません。
自分はこの曲のメロディラインは結構好きで、よく鼻歌で歌ったりしており(あんまり大っぴらに歌っていると誤解されそうですが)、この曲は今でもカラオケにも入っているので、カラオケでも歌ったこともあります。



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以上、5曲を並べてみました。

大阪府吹田市にある国立民族学博物館の常設展示、音楽を取り扱ったブースの一角に、放送禁止歌のレコードばかりを並べたスペースがあり、上記のレコードのうちのいくつかも展示されていますので、ご興味のある方は訪れてみても面白いかもしれません。
自分がこれらの楽曲を知った森達也さんのドキュメンタリーも以前はYouTubeで見られましたが、残念ながら現在は見られないようです。
森さんのNONFIX三部作「職業欄はエスパー」「放送禁止歌」「よだかの星」はいずれも名作ですので、DVD化等で見られるようにしてほしいですが、なかなか難しいのかも。

なお、表現規制で最も問題なのは、公的機関による規制が定められることです。
国家やそれに準ずる機関による規制を召喚させないためにも、ある程度の自主規制は致し方ないなというのが自分の考え方。
しかし、議論を経ないまま機械的に自主規制を続け、楽曲がなかったことのようになるのは問題です。
今回取り上げたような曲が消えてしまうのは、あまりにももったいない。
以前のRADWIMPSの記事でも書いたことですが、何らかの形で被害を被る当事者に配慮しつつ、自主規制と公表の機会のバランスを取るのは、重要なことであると感じます。
森さんのドキュメンタリーのラストシーンでは、規制しているのは視聴者自身であるということが示唆されます。
我々が「こんな曲を放送して良いのか?」と気軽に口にした瞬間、表現規制が始まっているのだということを認識することは、これまた重要なことだと思います。