動きすぎてはいけない/千葉雅也 | れぽれろのブログ

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昨年秋からのバタバタ(年末の記事に少し書きました)も、この年初で一段落、先週から本を比較的きっちり読む時間ができましたので、久しぶりに本の記事を書きます。
千葉雅也さんの本「動きすぎてはいけない」(2017年の文庫版)を読みましたので、感想などをまとめておきます。

本書を読もうとしたきかっけは、批評誌「ゲンロン7」の小特集、東浩紀さん、國分功一郎さん、千葉雅也さんの鼎談がきっかけです。
面白そうなので、國分さんと千葉さんの本を読んでみようと思い、まず千葉さんの本を手に取ってみました。
千葉さんは「ゲンロン2」にもメイヤスー論で登場されており、昨年のゲンロンカフェでの浅田彰さんの還暦イベントにも登壇されていた方。
千葉さんは1978年生まれで、自分と同じ年です。
「動きすぎてはいけない」は2013年の書籍、まずタイトルが面白そうですし、幸いに文庫化されていますので、文庫派の自分としてはこれ幸いと、読んでみることにしました。

本書はいわゆるポスト構造主義の哲学者、ジル・ドゥルーズに関する研究書です。
しかし単なるドゥルーズ解釈には非ず、おそらく千葉さんご自身の考えが多分に反映されたものになっています。
抽象度の高い議論で難解、そもぞも自分はドゥルーズを読んだことはなく、ロジックを追うのはかなり大変でしたが、ちょこっとだけでも思想史の流れを知っていると、幾分読みやすくなるタイプの本ではあります。
抽象度が高い分、様々な物事に応用できる、興味深い内容になっていました。


以下自分なりのまとめ・覚書・感じたことなどです。

一般にドゥルーズは「リゾーム」なる概念の提唱者として知られています。
リゾーム(地下茎)はツリー(木)の対概念。
ツリーはいわゆる形而上学的なもの、てっぺんに神様(あるいは真理のようなもの)がいて、事物には重要度があり、その順にヒエラルキー(階層)を構成する、といった世界イメージ。
例えるなら近代的組織のようなもの、トップに社長がおり、その下に役員→管理職→指導職→一般社員→パートがいる、みたいな世界イメージです。
しかし現実の社会はそうはなっておらず、リゾームはフラフラと世界をさまよう遊牧民のようなイメージで、個体がそれぞれ無秩序に動き、所々で出会い、干渉しあい、また離れていくようなイメージ。
ジャクソン・ポロックの絵画のように、うねうねと形と色が干渉しあっている状態を想像するとよいのかもしれません。
ツリーからリゾームへ、階層的なものから遊牧民的なものへ、同一性から差異へ、これがモダン(近代)からポストモダン(後・近代)への移行である、というモデルを示したのがドゥルーズである、とおおよそ自分は理解しています。

本書「動きすぎてはいけない」のキーワードは「接続」と「切断」です。
本書では接続的なものと切断的なものを対立する概念と捉え、、抽象度の高い記述が続いて行きます。
自分なりに意訳すると、ツリー的な世界、近代国民国家や近代企業のヒエラルキーを伴う世界、同族性の内側での「みんな仲間」は、その強制性に於いてある種ファシズム的。
一方のリゾーム的な世界はどうか。
差異を肯定する世界(みんなちがってみんないい)は、「みんなちがう」という世界モデルの強制性において、やはりファシズム的です。
「みんなちがってみんないい」的な喜ばしき共生が、強制的に予定されているのはやはり問題、このようなリゾーム界の在り様を、本書では接続的ドゥルーズといい、批判的に取り扱われます。
あるいは、シャープに分離されれば超越化するという説。
リゾーム的世界において、Aを徹底的に分離すれば、Aは非Aのすべてに対し接続過剰となるとなるので、これはまた問題である。
これはなかなか難解な思考モデルですが、部分を全体化する営み(=ロマン主義)がファシズムの源泉になるようなイメージ、あるいは、分断された個人がネット(全体的な空間)に過剰に接続しファッショ化するみたいなイメージでしょうか。
このような接続的なもの(ファシズム化)に抗い、切断的なものを一旦称揚するのが本書の立場です。
ざっくりと、接続=リゾーム界のうねうねした関係性が繋がっていく働き、切断=離れていく働き、とイメージ的に捉えても、おおよそ間違いではないのではないかと思います。
関係性が過剰に接続されファシズムに至るのを危険視し、同時に関係性が完全に切断されると人は1人では生きていけないので、本書では切断の後の再固体化が重視されます。
接続を回避し、切断に傾きつつ、完全なる切断を回避する、そのためにはどうすればよいのか。

もう1つのキーワードは「生成変化」です。
生成変化はドゥルーズの概念で、ツリー的に固定された静的な世界理解ではなく、リゾーム的に個体がうねうねと動き、互いに関係・影響し合い、変化してく動的な世界において、事物は固定的でなのではなく、常に生成し変化するものとして捉えられます。
事物に本質ありとするイデア的(後期ギリシャ的)な世界把握は本来的ではなく、事物の実態は空で関係性のみが存在する縁起的(初期仏教的)な世界把握が本来的である、といったイメージでしょうか。
本書ではこのような生成変化の在り様を肯定しながらも、その速度を問題視しているように読めます。
過剰に生成変化する世界(速度過剰≒生成変化が乱され混然一体となる世界)≒接続的なものはNG、かといって、生成変化のない世界(速度ゼロ≒完全な分断と固定)≒完全に切断的なものもNG。
接続過剰と切断過剰に抗うには生成変化の速度制御に意識的である必要あり、すなわち動きながらも「動きすぎてはいけない」ということのようです。

ではどうすればよいのか。
本書では過剰接続≒ファシズム的な世界に抗うため、サディズム/マゾヒズム、イロニー/ユーモアという対立する概念を持ち出し、両方のバランスを認めつつ、後者の立場を称揚しています。
イロニー(皮肉)は概念を強制的にずらし非形態化し破壊する行為(サディズム)、ユーモア(諧謔)は概念の破壊伴わず(マゾヒズム)別の形態を勝手に作り出す行為、「所詮あいつはこんなやつ」と対象の別の側面を暴き冷笑するのがイロニー、「あいつはこんな変なやつ」と対象を別の角度から主観的に捉えなおし滑稽さを指摘するのがユーモア、くらいのイメージでしょうか。
世界を能動的に否定する(サディズム-イロニー)のではなく、世界を受動的に受け入れた上で受け流す(マゾヒズム-ユーモア)を称揚。
しかし完全に後者に依拠するとそれは分裂病や精神的勝利法と変わらないので、バランスが必要と言うことなのだと思います。

美術ファンにとってイメージ的に分かりやすいのが、本書で提示されるピエト・モンドリアン、ジャクソン・ポロック、フランシス・ベーコンの絵画の例です。
具象絵画ではなく、モンドリアンのようながちっとした抽象(純粋形式)でもなく、ポロックのようなうねうねした抽象(抽象表現主義)でもなく、ベーコンのような中途半端な身体、ゆがみによる中途半端な抽象化を称揚しています。
とくに70年代以降のベーコン作品は、分断された人体が再構築されるような作品が増えていきます。
手・足・腰・口・耳・乳房・性器などがバラバラにされたあと、再度独特の方法論で繋ぎ合わされたような、そんな作品たち。
ある種の規則性・統一性の元で人体が再び統合していくような後期ベーコンの作品は、切断→再固体化のイメージにぴったりです。

本書では過剰接続と過剰切断は否定され、切断に傾きつつも完全には切断されない、中途半端さが肯定されているように読めます。
中途半端さの肯定、このあたりは超越論批判としても読めるように感じます。
一神教的な神(ツリー的世界の頂点)は当然NGとして、仏教的な悟りや涅槃(生成変化ゼロ、完全なる切断)もNG、空や涅槃と言った概念の超越化を避ける、本書の中途半端さの肯定は、仏教でいうとナーガールジュナの中観派に近いような感触を覚えます。
世俗的な例で言うと、この中途半端さは昨今流行りの(?)ハームリダクションの肯定にも通じるように感じます。
シャープに分離すると超越化する、悟った如来や悟りが予定されている菩薩がいつの間にか神格化され超越へと転化する、完全な断酒を試みるとかえって反動的に飲んだくれてアル中化する、などなど、いろんな例が浮かんできます。

超越化やファシズム化を防ぐためのこのような中途半端さの獲得、生成変化を重視ししつつ速度制御する、ある程度動きつつ動きすぎない、このためには、世間にクロックを合わせすぎないことがおそらく重要なのだと感じます。
マスメディアの速報性、あるいはSNSの自動応答的即時性からある程度距離を置く、実践としてはまずはこのあたりがベターなのではないかという感触です。
その他、サディズム・イロニー(≒能動)が否定され、マゾヒズム・ユーモア(≒受動)に傾きつつも、完全に受動になりきらない中途半端さの重視、このあたりは昨年流行った中動態のイメージに近いのかもしれません。
本ブログのキーワードは「苦しみ」ですが、苦しみでしかないこの世界を能動的に批判・攻撃(サディズム)してもかえって苦しみが増幅するのみ、かといって世界からの受苦に堪える(マゾヒズム)のは単に苦しいのみですので、苦しみをユーモア的に受け流しつつ、ときにイロニー的に振舞いつつ前に進む中庸さが大切、といったような実践的な解釈も可能なのではないかと感じます。


ということで、興味深い本でした。
この流れから、中動態ブームの火付け役(?)、國分功一郎さんの本も読まねばなりません。
「動きすぎてはいけない」は浅田彰さんや東浩紀さんの仕事の延長上にある書籍のようですので、両者の本も読まないといけませんね。


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おまけ

・インディアンレッドの地の壁画/ポロック
インディアンレッドの地の壁画
抽象表現主義の例です。
うねうねした雰囲気が、遊牧民的に関係しあうリゾームの構造のイメージに近いのかも。


・赤、青、黄のコンポジション/モンドリアン
コンポジション
純粋形式の例。


・ジョージ・ダイアの三習作/ベーコン

歪んだ身体、中途半端な抽象化。

ちなみに「動きすぎてはいけない」が出版された2013年は、ベーコンの回顧展が大々的に開催された年でもあります。
自分もわざわざ東京国立近代美術館まで見に行きました。

[フランシス・ベーコン展]
もう5年も前になるのですね。