相模原の事件から | れぽれろのブログ

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先週は26日から仕事で仙台に行っていました。
相模原の事件を知ったのは、空港で飛行機を待っている間のこと。
我が家にはテレビがないため、ニュースはいつもインターネット経由で情報を入手しているのですが、宿泊先のホテルには当然テレビがあり、テレビがあればなんとなく付けて見てしまうもので、今回の事件については、久しぶりにテレビの報道に触れることになりました。

テレビの報道を見ていて感じたこと。
曰く「障害者は殺されても仕方がない」というこの事件の容疑者の思想に対し、この思想のどこに問題があるのかということについての考えが、あまりしっかりと報道されていないように感じました。
なぜこの思想には問題があるのでしょうか?
この思想にNOを突きつけるにはどのようなロジックが必要なのでしょうか?
一億総活躍社会と言われ、個々人が経済的主体となって生産性を上げることが要求される昨今、例えば身体障害者のような、経済的に活躍することが困難な人の尊厳は、どのようにして擁護されるべきなのでしょうか?
基本的人権は近代憲法の基本中の基本、すべての人間の尊厳を重視するような制度設計を心がけるのが近代民主主義国家のあるべき姿ですが、人口減少社会においてますます効率性が重視される中、ナチスの優生思想のような人間の尊厳を脅かす思想に対し、どのように抗えばよいのでしょうか?

これは簡単そうに見えて実は難しい問題です。
以下、自分なりの考えを簡単にまとめてみます。
また小難しい話になってっしまいますが、ご興味のある方はお読みください。


「障害者は殺されても仕方がない」という考え方については、大きく3つくらいの批判が考えられると思います。

1つは生物学的な方向性からの批判が考えられます。
生物は多様であることが生物種として存続する重要な条件です。
皆が同じ遺伝子的形質を持っていると、大災害やパンデミックが発生したときに、絶滅しやすくなります。
故に、様々な遺伝子的形質を持つ主体が共存していることが生物種として望ましく、特定の形質を殲滅することは、生物学的に見た場合、種の衰退へのリスクが高まることに繋がります。
また、自然界は弱肉強食だと言われますが、必ずしもそれが強者にとって常に幸福な状態であるとは限りません。
捕食者が増えすぎて食物連鎖のバランスが崩れると、当然上位の捕食者も絶滅することになります。
新自由主義的優勝劣敗のような多様性に反する考え方は、社会を一つの生物圏と仮定してみた場合、場合によっては勝者の絶滅をも早めることに繋がり、生物種全体として超歴史的に見た場合は決して有効な考え方ではありません。


2つめはリベラリズムの立場からの批判が考えられます。
曰く「あなたが彼の状態に陥った場合、あなたは耐えることができるか」という問いです。
「あなたが障害を持った場合、あなたは殺されることを望むのか。」
言うまでもなく、我々すべての人間は明日にでも病気や障害を持つ可能性を秘めています。
突発的な事故や疾病により、四肢の断裂や身体の不随に陥るリスク、失明や難聴に陥るリスク、心疾患によりペースメーカーの装着が必要となる、腎疾患により透析が必要となる、経済的困窮が鬱や分裂症状をもたらし精神疾患に陥る可能性、回復不可能な難病に罹患する可能性、等々。
軽微なものから重篤なものまで、様々な状態が考えられます。
そうなったときに、あなたは果たして死を望むのかという問題。

意外と忘れられがちな事実ですが、障害/正常の範囲はグラデーション的です。
視覚障害といっても全盲から弱視までその範囲は幅広く、難聴といっても何一つ聴こえないものから、音を意味ある音素として理解できない障害まで、様々です。
(このことへの無理解が「麻原は見えている」「佐村河内は聴こえている」などという安直なレッテル貼りに繋がります。)
心に関わる疾患についても、脳のハードウェア的な損傷による知的障害から、ソフトウェア的なプログラムがうまく機能しない精神障害まで、現れ方は様々なです。
古来より共同体においてまず差別され忌避されたのは、癩病人(ハンセン氏病者)に代表される様々な感染症患者でした。
医学の発達によりハンセン氏病のような感染症が徐々に克服されると、次に目に付くのは重篤な障害者、現代社会はこのような状態と言っていいと思います。
仮に全盲・全聾・重度な知的障害が医学の高度な発達により克服された場合、より軽度な弱視・難聴・精神障害が生産性の低さゆえの「優生学的思想」の次のターゲットになることが予想されます。
障害を持つ、あるいは生産性が低い心身の状態に陥いり、次に社会から排除されるのは私であるかもしれないということは、少し想像力を働かせば理解できる問題です。
このような状態に陥ったとき、人は果たして自らが排除されることに堪えられるのか。


3つめはコミュニタリアニズム(共同体主義)の立場からの批判が考えられます。
人は1人で生きているわけではなく、家族・親戚・恋人・友人・その他近しい人との関わりの中で、コミュニティ(共同体)の中で生きている存在です。
障害を持っている人が、コミュニティの中でどのように受け入れられ、愛されるのかは、事情により様々です。
自分の母親は精神障害を持っていますが、自分は彼女の社会的排除は望みません。
自分の親戚には事故により脳死状態に陥った人がいますが、家族は彼女の死を必ずしも望んではいません。
人は共同体により生きることを動機づけられます。
何かのために、誰かのために生きる。
障害を持つ家族のために生きるということ、障害を持つ方の生存自体が他者の生きるための動機づけになることも十分に考えられ、生産性が低い主体=他者の役に立たないなどとは、一概には言い切れません。
重篤な障害を持ち施設に収容されている人が、その家族や知人によりどのように受け入れられているのかは非常に複雑で一筋縄ではいかず、幸福の在り様も様々です。
人は人に対する共感能力があります。
意志の疎通が困難なほど重篤な障害であれ、多くの場合、周囲の人は簡単に彼の死を望みません。
ましてや国家のような巨大なアソシエーションが、例え安楽死であれ強制的に死に至らしめることは、ローカルな共同体主義の立場からすれば、あってはならないことです。


もちろん、これらの批判に対しては、様々な逆方向からの批判も可能です。
生産性を高めることは当然悪いことではありません。
生物的形質の多様性と医学の進歩による疾病の撲滅は矛盾します。
「私が障害を持ち生産性が低下すれば、私は殺されてもいい」などという美学を持つ(これ自体かなり想像力の欠如した物言いであると自分は思いますが)人も、いることだと思います。
コミュニティに寄り添うことのできない孤独な障害者も存在します。
障害を持つ方の存在がそのご家族にとって重い負担となっているケースも存在することだと思います。
重篤な障害を抱えたまま生きるということの苦しみも理解できます。
国家の原資の問題(障害者への福祉の提供が経済的に困難となる)も、あるいは施設の運用・維持についての非常に困難な問題もあることだと思います。
場合によっては重篤な障害・疾病を抱えた人に対して安楽死・尊厳死を認めた方が、当事者やその近しい人にとって幸福であるケースもゼロではないことは想像できます。
しかし、だからといって、あらゆる障害者=排除という思想が許容されていいはずはなく、社会が安楽死・尊厳死を安易に許容する方向に進むことは、大きな問題があることだと考えます。

だいぶ以前に書いた「人間の境界」の記事でも触れたことですが、社会のあらゆる問題は境界問題(線引き問題)です。
境界問題の対処については、熟慮の末に仕方なく意思決定する線引きと、杜撰で安直な線引きがあります。
我々が陥ってはならないのは、今回の容疑者の主張のような、あるいはそれに同調するするような一部政治家の主張のような、安直で杜撰な線引きを声高に叫ぶことを許容することです。
このような杜撰な主張は、安楽死・尊厳死を含めた障害を持つ方々への対処についての、政府の政策的意思決定の杜撰さを許容する(例えば安楽死・尊厳死を乱発する)ことに繋がります。
「社会が経済的に困窮する中、一部の障害者が排除されるのは仕方がない」と我々の多くが思った時点でそれは政策として実現される、恐ろしいことですが、近代民主主義社会とはそのような社会でもあるのです。
そして、そのような排除の論理は、まわりまわって排除を叫ぶ者自身に帰ってくる可能性を持った問題なのです。


最後に動画を貼っておきます。
ジャーナリスト神保哲生さんの報告。
自分の記事のような率直で過激な物言いはしていませんが、主に自分の言う「リベラリズム的立場からの批判」に近い位置から、真摯に問題点を指摘されています。
とくに「仮に障害者がいなくなったとすると、社会は別の弱者を探し出す」という指摘は重要であると感じます。
ご興味のある方はご覧になってみてください。


・相模原障害者殺傷事件
 日本社会の中に潜む事件の遠因を考える