歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 (英国ロイヤルオペラ) | れぽれろのブログ

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9月23日、秋分の日の水曜日、兵庫県立芸術文化センターに行ってきました。
目的はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の鑑賞、
英国ロイヤルオペラの公演です。
何度も書いていますが自分はモーツァルトのオペラが好きで、
しかも「ドン・ジョヴァンニ」は登場人物の1人の名前をハンドルネームに
使っているくらいですので、
すごく好きなオペラなのです。
しかも今回は自分のオペラ鑑賞史上、最もチケット代が高い公演です。
(思わず奮発してしまいました・・・。)

ということで、れぽれろがレポレロに会いに行くの巻、
「ドン・ジョヴァンニ」についてのメモ書きと合わせて、
この日の感想などをまとめておきます。


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まずは恒例のオペラそのもののメモ書き(能書き?)から。
「ドン・ジョヴァンニ」はモーツァルト作曲、ロレンツォ・ダ・ポンテ脚本の三部作、
(「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」)の第2作です。
舞台は17世紀のスペイン。
主人公はヨーロッパ全土で2000人近い女の子を口説き、
セックスしまくっている放蕩貴族ドン・ジョヴァンニ。
サブキャラクタとして3人の女の子が登場します。
かつてドン・ジョヴァンニと関わり、捨てられた女の子ドンナ・エルヴィーラ。
作品の冒頭でドン・ジョヴァンニと関わり、その上父を殺された
悲劇の女の子ドンナ・アンナ。
そして作中の物語の流れの中でドン・ジョヴァンニと関わってしまう、
恋人との結婚を控えた明るい農民の女の子ツェルリーナ。
この3人の女性たちのドン・ジョヴァンニに対するアンビバレントな心理を描きつつ、
作品冒頭でドンナ・アンナの父(騎士長)を殺害してしまったドン・ジョヴァンニが
騎士長の亡霊の報復により地獄に落ちるというのが物語の主要プロット。
これにドンナ・アンナの悩める恋人ドン・オッターヴィオと、ツェルリーナの許嫁の
マゼットの「真面目な」男の子2人が女の子たちに絡んでいきます。
そしてドン・ジョヴァンニの従者で、主人のセックス遍歴をノートに延々記載し
カタログ化した上、それを嬉々として語るというマニアックな趣味を持ち、
ときに主人のおこぼれに預かり、ときに主人に酷い目に合わされながらも
金目当てに主人の元を離れられないという、下衆でコミカルな三枚目
レポレロが物語に色を添えます。

音楽はモーツァルト独特の美しくて綺麗で可愛らしいものですが、
その物語の性質上、「フィガロの結婚」や「コジ・ファン・トゥッテ」と比べて
ややロマンティックで激情的・悲劇的な色彩を帯びます。
とくに2幕フィナーレの地獄落ちのシーンでは、とても古典主義音楽とは
思えないような、不気味で恐怖感漂う革新的な音楽が流れます。
さらにこのオペラはもちろん重唱も魅力的なのですが、
「フィガロ」や「コジ」と比較してやや独唱が重視されている感じもします。
とくに各幕の中盤でサブキャラクタたちのアリアが連続する部分が
とりわけ魅力的だと思います。

そしてこのオペラは解釈・演出上の面白さも幅広いです。
主人公ドン・ジョヴァンニを女たらしの大悪人として描くか、あるいはすべての
女の子に分け隔てなく愛と快楽を与える美学的な存在として描くのか。
アンナとツェルリーナは果たしてドン・ジョヴァンニに「陥落」したのか、
そうでないのか。
女の子たちのドン・ジョヴァンニへの揺れ動く思いをどのように解釈し描くのか。
そしてドン・ジョヴァンニは脚本どおり地獄に落ちるのか、
はたまた地獄落ちを免れるのか。
オーソドックスな解釈であれば、ドン・ジョヴァンニが非道徳的・放蕩的・カオス的な
18世紀以前の貴族の象徴、それに対するのがドン・オッターヴィオに象徴される
道徳的で秩序的な革命期前夜の市民(ブルジョワジー)で、
後者が前者を葬り去ってめでたしめでたし、というお話になるのだと思います。
(これは象徴的な意味で、実際のオッターヴィオの身分がどうであるかは別。)
しかし、オッターヴィオが最後にアンナに捨てられる(結婚を留保される)
ところからみてもモーツァルト&ダ・ポンテは単にドン・ジョヴァンニを
葬り去ることを正義としているのではなく、
急速に没落する旧来的な
貴族社会こそが本来的である
(人は簡単に道徳的で秩序的で理性的な
市民にはなれない)とする
アイロニカルな表現と捉えることもできると思います。
自分は決して様々な演出を網羅的に鑑賞しているわけではありませんが、
結構いろんな演出があって面白いのもこのオペラの楽しみの1つだと思います。


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ということで、この日の公演の覚書と感想など。

2階建ての直方体の建物が舞台上に設置され、
この建物が回転する中でお話が進んでいきます。
そして舞台のこの建物の上に、プロジェクターで映し出されたドローイングを
中心としたアニメーションが重なり、これが演出上重要な意味を持ちます。

冒頭、序曲と共に白い文字が舞台上の壁面にプロジェクターで次々と表示され、
これがどうもドン・ジョヴァンニがセックスした女の子たちの名前を連ねた
レポレロのカタログであるらしく、舞台装置が白色の文字で
白く埋め尽くされていく様子は、
男の子が女の子を性的に支配していく様子を
否が応でも連想させます。
これ以降もプロジェクターは効果的に使用され、
場面によって血や雲や花や女体や炎などが壁面に描き出されます。
1幕中盤のドン・ジョヴァンニの独唱(シャンパンの歌)のシーンでは、
レポレロのカタログらしき文字がドン・ジョヴァンニをぐるぐると高速で取り巻き
(このシーンは眩暈的な効果がある)、このプロジェクター映像がどうも
ドン・ジョヴァンニ自身の心証を表しているらしいことがだんだんわかってきます。
1幕のオッターヴィオの独唱シーンでは壁面に白く「アンナ」の文字、
2幕のエルヴィーラのの独唱シーンでは壁面に白く「エルヴィーラ」の文字が
表示されることから、今回の演出では過去のエルヴィーラだけでなく、
物語序盤のアンナもドン・ジョヴァンニに「陥落」していたことが
示唆されます。
(そういえば物語序盤の三重唱のアンナは妙に嬉しそうに見えたりもしました。)

各サブキャラクタの独唱シーンにおいて、通常の演出なら不在のはずの
ドン・ジョヴァンニがたびたび登場してくるのも印象的です。
1幕のレポレロの独唱(カタログの歌)では、エルヴィーラがレポレロの解説
そっちのけで(笑)ドン・ジョヴァンニの方に向かいますし、
1幕のオッターヴィオの独唱のときも、
アンナはオッターヴィオを無視して
ドン・ジョヴァンニの方に向かいます。
しかし、2幕のエルヴィーラとアンナそれぞれの独唱のときは、
2人ともドン・ジョヴァンニを拒絶。
これは1幕時点では彼女らのアンビバレントな心理が描写され、
2幕においては決別を描写しているということなのかもしれません。

今回の演出でもう一つ印象的なのは、ドン・ジョヴァンニがどんどん精神的に
不安定になっているように見えることです。
2幕後半のレポレロとの二重唱、騎士長を晩餐に招待するシーンで、
ドン・ジョヴァンニはヒステリックに石像を叩きつけて破壊します。
(次のアンナの独唱シーンでアンナが割れた石像=父の像を抱えながら
アリアを歌うのも印象的。)
2幕フィナーレの晩餐シーンでも、ドン・ジョヴァンニは食事や演奏を
全然楽しんでいるように見えません。
騎士長が登場する地獄落ちのシーンでも、ドン・ジョヴァンニは自身の美学的な
生き方を誇り、甘んじて地獄に落ちてくというような様子は微塵もなく、
また過剰な地獄の刑罰(例えば真っ赤な業火に包まれるだとか)を
連想させるような演出もなく、ただ自ら舞台上をフラフラよろめいたり
転げまわったりするだけのドン・ジョヴァンニは、
快楽に溺れた結果懲罰を受けた
ただの哀れな一人の男に過ぎないという印象を強く与えます。
上記の2幕のエルヴィーラやアンナの独唱シーンにおいてドン・ジョヴァンニが
拒絶されるように見えるのは、女の子たちの決別の意志という意味合いの他に、
刹那的な快楽をいくら重ねても結局は女の子の愛情を得られないままで
あるという、ドン・ジョヴァンニの不幸さ加減が表されているのかもしれません。

さて、今回の演出で最も挑発的(?)なのは、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの
シーンの後、サブキャラクタ6人のその後を描くシーンが大胆にカット(!)され、
一気にフィナーレの六重唱に進むところです。
しかもこの六重唱中ドン・ジョヴァンニは生きており、観客に許しを請うような
ポーズを続けたかと思うと、最後は舞台の後ろの方に引き下がり、
うずくまったまま物語はおしまい。
何なんでしょう、この情けないドン・ジョヴァンニは・・・笑。
この演出ではドン・ジョヴァンニは悪人として描かれていますが、己の美学を貫き
潔く死んでいくわけでもなく、罰に悶え苦しみながら地獄に落ちていく訳でもない、
生きながらえて許しを請うようなショボいイメージで描かれています。
最後に(おそらく)死んだわけではないということは、
ショボいドン・ジョヴァンニを許すという世界の優しさなのか、
あるいは罰を受けて死ぬことさえ許されず更生して罪を償うべきであるということ、
死刑を廃止した今日的な欧州標準の罰に対する考え方:犯罪者を社会から
抹消するのではなく更生させることにより被害者の感情的回復につなげていく、
ということが表されているのかもしれません。
カットされたシーンはサブキャラクタの心象描写として重要なシーンだと
思いますが、それを描かずにフィナーレを迎えるということは、
この演出上はあくまで主人公ドン・ジョヴァンニの心象がこそ重要で、
そこに演出上のメッセージ性があるということなのだと感じました。

ということで、今回の演出は始めの方に書いた類型で言えば、
「アンナ陥落-ドン・ジョヴァンニ悪人-ドン・ジョヴァンニ生き残り」のパターン。
しかしドン・ジョヴァンニが大悪人ではなく、不安定な弱い人間として
描かれてるところが今日的で面白い演出なのだと感じました。
ここまでドン・ジョヴァンニを不安定に描かれると、
個人的には何やら寂しい気もするのですが・・・笑。

あと細かいことですが、2幕のドン・ジョヴァンニのセレナード(窓辺のアリア)の
シーン、エルヴィーラの侍女が全裸になっていたように見えたのですが、
あれは全裸だったのかな・・・。
遠目でよく分からなかったので、もっと前の方の席を取ればよかったなとか、
余計なことを考えたりもしたのでした。

演奏の方はものすごく素晴らしくて、どの歌手も良い仕事をされていて、
本当に満足する演奏でした。
とにかく声と音を聴いているだけでものすごく心地よい。
やっぱり高いオペラはいいね、などといちいち値段を思い出してしまうような演奏。
とくにオッターヴィオの2幕の独唱など、感極まったような歌唱が印象的。
アンナの2幕の難しい独唱も良かったし、レポレロもエルヴィーラもツェルリーナも
それぞれ素敵です。
ドン・ジョヴァンニ役のイルデブランド・ダルカンジェロはイケメンで
はまり役なのですが、この人はレポレロもレパートリーとしている人で、
個人的には10年ほど前に鑑賞したレポレロの印象が強いです。
今回の演出上のドン・ジョヴァンニのキャラからしたら
ダルカンジェロはちょっとカッコよすぎるのではないか、
などとこれまた余計なことを考えたりもしました。


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ということで、夢のような楽しい公演でした。
年末以降ちょっとまだ予定が立たないので、
次のオペラ鑑賞がいつになるのかは分かりませんが、
来年以降もまた生の舞台を鑑賞したいですね。