血流と不安障害 | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近の人付き合いの中で、また苦しみや悲しみについて考えることが
多くなりました。
今まで苦しみについては一般的なことを何度か記事にしてきましたが、
自分自身の具体的な苦しみについては、小児喘息の記事(→こちら)を除き、
あまり書いて来ませんでした。
今回はもう少し具体的に、自分の中の1つの苦しみについて
まとめてみたいと思います。

自分は脳貧血を起こしやすいということは過去何度か書いたことがありますが、
この背後にはまず血流に対する何らかの障害があり、そしてそれに付随して、
明らかに神経症的な不安障害と思われる症状があります。
このことは書き留めておこうかどうか相当迷ったのですが、
やはり何らかの形でまとめておくのも良いかなと思い、記事化しておきます。
長い記事ですし、全く楽しい記事ではありませんが、
ご興味のある方はお読みください。
なお、以下の記事には出血だとか恐怖感だとか、そういった記載が
登場しますので、人によってはご気分が悪くなる可能性があるかもしれず、
このあたりをご注意の上お読みください。


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まずは血流の問題について書きます。
自分はちょっとした出血でもすぐに気分が悪くなります。
具体的には顔面から血の気が引き、一時的な吐き気や倦怠感に襲われ、
やがて意識喪失に至ります。
過去に体験した症状をいくつか並べてみます。

○幼稚園のころ、近所の公園の滑り台でうつ伏せになって遊んでいたときに、
顎を切ったことがあります。
この時の出血で顔面から血の気が引き、朦朧とする意識の中なんとか
数十メートル先の家まで歩いて帰り、玄関先で意識を失います。
これが意識喪失に対する最初の記憶です。
(このときの顎の傷は今でも残っています。)

○小学校1年生のとき、採血で気分が悪くなり、うずくまったことを覚えています。
これ以降、採血で何度か気分が悪くなってうずくまったり、意識を失っています。

○22歳のとき、食事中に舌を噛んで出血、このときに意識を失っています。
このときは出血していることには気づかずに、痛みとともに先に意識を失い、
その後目が覚めてから出血していることに気づきました。
なので、出血による不安から意識を失ったのではなく、
出血そのものが意識喪失の原因であると判断しています。

○26歳のとき、夜中に急激な腹痛とともに意識を失います。
しばらくして意識は戻りましたが、相当酷い腹痛のため救急車を呼びました。
原因は結石で、尿管から一時的に出血したため、意識を失ったのだと推測します。


また、この何らかの血流の障害は、
お酒を飲むことにより悪化する場合もあります。
自分はお酒を飲みすぎると、酔いつぶれる前にまず顔面から血の気が引きます。
なので、酔いつぶれた経験はありません。
どれだけ飲むと血の気が引くかどうかはそのときの体調に左右されます。

○大学*回生のとき(一応伏字にしておきます)、ビールをコップに3杯ほど
飲んだだけで血の気が引き、うずくまります。
これが飲酒に対する最初の気分の悪化の記憶です。

○27歳のとき、職場の宴会で2時間ほど飲んだ後やはり血の気が引き、
寝転んだまま起き上がれなくなります。
これは一般的な「飲みすぎ」に近いかもしれませんが、自分の場合は全然
酔っている感じがせず、嘔吐感もなかったのが特徴的かなと思います。

○30歳のとき、やはり職場の宴会で、1時間ほど飲んでトイレに立ったとき、
トイレで急激に血の気が引き、意識を失います。
このとき意識喪失の現場を誰にも見られなかったので、
そのまま何食わぬ顔をして(笑)席に戻りました。
すぐに意識が復帰したので急性アルコール中毒などではなく、
やはり一時的な血流の問題なのではないかと推測しています。


誰しも出血したりすると気分が悪くなったり倒れたりすることはあると思います。
飲酒で倒れる人もいると思います。
しかし、自分の場合はそれがそのときの体調などに応じて、
過度に起こりやすいのではないかと思います。
おそらく心臓・脳・その他血流関係が人と比べて先天的に弱いのではないかと
推測しています。

なお、採血に関しては、横になって頭を低くした状態で採ってもらうことにより、
症状の発生をかなりの程度抑えられることが経験的に分かっています。


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ここまでは前ふり。
以降が本題です。

上記の「血の気が引きやすい」「意識を失いやすい」ことが、
自分の場合は不安障害と結びついています。
不安障害は様々に分類されるようですが、自分の場合はやや
パニック障害に近いのではないかと思います。

一般にパニック障害というと、突然強いストレスと不安感を覚え、
強い動悸・息切れ・めまいなどが発生、「死ぬのではないか」という
不安感とともに、その不安感がまた症状を増幅して行くという、
そういう病気のようです。
「広場恐怖」のように外出に対して恐怖を覚えたり、あるいは
「また症状が起こるのではないか」という不安感がさらに症状を誘発する
(「予期不安」というのだそうです)ということもあるようです。

自分の場合は動悸などは起こらず、不安感が誘発された際に動悸の前に
血の気が引き、意識を失ってしまうという経過を辿ります。
なので、パニック障害なのかどうは厳密には不明です。

一般に誰でも病気やけがなどの気持ち悪い話を見聞きした場合に、
気分が悪くなるということが起こりやすいと思いますが、自分の場合、
それが過度に起こりやすい状態であると理解して頂けるとよいと思います。
また「予期不安」も相当に強いものがあります。

以下、過去の経験をいくつか並べてみます。

○小学校3年生のとき、学校の体育館で戦争の啓発映画を見ていた際、
強烈に血の気が引いてうずくまってしまいます。
(現在はどうか知りませんが、80年代後半ごろは小学生であっても容赦なく(笑)、
戦争の映像などを児童に見せることがありました。)
おそらく目の前の映像に没入しすぎて、ある種の精神的疲労から血流の障害を
引き起こしたものと推測します。
これ以降、映画などの「暗い空間で映像を凝視し続けること」に対する恐怖感が
発生し、何度か体育館などで気分が悪くなることを経験していますが、
小学生は忘れやすいので、
しばらく経つと不安感などは消失していきました。

○同じく小学校3年生のとき、体育の跳び箱の授業中に意識を失います。
跳び箱を飛ぶ寸前に意識を失い、そのときの転倒時に右手を強く打撲し、
数週間骨が腫れ続けました。
自分は運動が苦手で、跳び箱のような器械体操はすごく嫌いでした。
このときも跳び箱に対する恐怖感から血流に影響を与え、
症状を引き起こしたものと思われます。
これ以降、自分は器械体操などの体育の授業に対する強烈な恐怖感が
発生することになりますが、この後自分は「体育の授業を真面目にやらない」
という形で、
この恐怖感を克服していくことになります。
真剣に走らない、逆上がりの練習をしない(なので今でも逆上がりはできません)、
球技などではボールを回避しプレイに参加しない、等々。
高校生の頃には、体育の授業を露骨にエスケープする(笑)こともありました。

○小学校6年生の2学期の始業式のとき、運動場で15分ほど立っていた際に
気分が悪くなり、うずくまります。
おそらく成長期によくある、長時間起立していた際に起こる貧血なのだと
思います。
しかし、このときの経験から長時間起立することに対する恐怖感が発生し、
以降強烈な予期不安に襲われることが多くなり、
何度か朝礼時にうずくまることになります。
しかし、そのうち「気分が悪くなっても別にええか」と開き直るようになり、
これにより恐怖感が薄れ、中学2年生のころにはほぼ症状を克服します。

○高校1年生のころ、朝の礼拝の際に意識を失います。
自分はキリスト教系の高校に通っており、週に1回、
朝に約1時間の礼拝がありました。
このときに牧師様がいろんなお話をするのですが、病気・けが・戦争・死などの
テーマについて語られることも多く、それらの話に没入することにより不安が
増幅し、その日の体調の影響もあったのだと思いますが、
最終的に
倒れることになりました。
礼拝は椅子に腰かけた状態で行われますので、
この時は長時間起立していたわけではありませんでした。
なので「起立していなくても症状が起こる」ことに相当ショックを受け、
これがまた予期不安を引き起こし、以降何度も礼拝時に血の気が引いて
うずくまることを繰り返します。
また、「血」「心臓」「脳」といった単語に極端に過敏になります。
結婚式やお葬式などの「席から容易に離れることができない式典」も
避けるようになります。
このときの予期不安は相当に酷く、高校1年生のときの校外学習や体育祭などの
行事は自分はすべて欠席、人付き合いにも影響を与え、
友達もどんどん少なくなっていき、学校以外どこにもでかけないという状態が
ほぼ1年以上継続することになります。
この時期は重ねて小児喘息の症状(中学3年生のころよりややマシに
なってましたが)
もあり、また、ちょうど同時期に父が亡くなりましたので、
具体的な将来に対する不安の影響も大きかったのだと思います。

この時期の症状の克服方法は以下の3つ。
・深呼吸して気分を落ち着ける
・対象に深く没入しない
・人生を真面目に生きない
とくに1番目と2番目はかなり有効で、この対処法は現在でも継続して
使っています。
3番目は2番目に付随して起こってきた考え方で、父の死のことなどの影響も
あってか、自分は人生に意味などないと完全に割り切るようになります。
このあたりが功を奏したのか、高校2年生のころには修学旅行に参加できるように
なるまでに回復します。
とくに高校2年生の末期に起こった母の入院をきっかけにした様々ないきさつ
(→こちらの記事参照)のあとは、ほぼ不安が消失したように思います。
これは予期不安に対する行動療法に近い効果があったのではないかと、
今から振り返って思います。
以降大学受験を乗り越え、大学3回生の秋までは友達も多く、それなりに楽しい
学生生活を送ることになります。
しかしこの時期の「人生に対する無意味感」は、かなり今の自分の人格形成に
大きな影響を与えているのだと感じています。

○大学3回生の9月11日、友人の家で徹夜で麻雀をしている際、
意識喪失を引き起こします。
座った状態で長時間、楽しく麻雀をしていた際、疲れから少し気分の悪化を
感じましたが、それでもゲームを継続していました。
その後、唐突に強烈に血の気が引き、意識喪失、友人たちが救急車を呼んで
大騒ぎになりました。
おそらく、徹夜で相当披露しているにも関わらず、
ゲームにかなり没頭したことが原因なのだと考えます。
この「遊んでいても倒れる」ということがまた相当にショックで、
高校時代に克服したと思っていた症状について、意識喪失を含め、
また何度も繰り返すようになります。

このときに自分は脳の検査を受けています。
これは絶対に脳の血流やら何やらに問題があると考え、MRI等の検査を
受けましたが、結果は全く異常はありませんでした。
脳神経外科の先生からは「気にするな」ということで、片づけられてしまいました。
なので、多少血流の問題に影響があるにせよ、やはり神経症的な部分が
主たる問題なのであるのだと考えるようになります。

このとき自分は20歳、以降自分は20代を通じて、
かなり行動を制約することになります。
上記の「深呼吸する」「対象に没入しない」に加えて、
・とにかく避けられる限り疲労を避ける
・外出は必要最小限にする、長時間の外出を必要とする交友関係を作らない
・徹夜をしない、徹夜に発展する交友関係を作らない
・お茶などの飲み物を携帯する
  (水分を取ると割と落ち着きます)
・不安を紛らわすために文庫本を持参する
  (文章を読んでいると不思議と落ち着くのです)
・無理やり怒る
  (怒ることにより脳に血が上るようになりこれが意外と有効なのですが、
   しかしこの手段は時と場合を選びますし、うまくいかない場合もあります)
・周りに迷惑をかけても気にせず、倒れるときは倒れて良い、と考える
・不安を回避するためにあらゆる手段を尽くし、
 不安を誘発するような責任ある立場を回避する
・建設的なことは何も考えないようにする、
 不安を誘発しない非建設的なことのみを考える
これらのことを心がけるようになります。
この結果、「生き生きとする」ということに対する大きな制約が、
相当な無力感を誘発し、生きるということに極端に後ろ向きになっていきます。

これ以降の就職活動と運転免許の取得は相当に大変でした。
就職活動は負担を減らすため、頑張らなくても合格しそうな企業に限定しました。
面接時も倒れたりしないか相当心配でしたが、ある種の精神安定方法に
逆に長けてきたことが功を奏してか、面接時の落ち着いた振る舞いが
非常に印象がよく、通常2回の面接のところ1回で合格しました。
運転免許はもう取得はやめようと思っていましたが、実際就職して生活してみると
やはり車がないと不便で、仕方なく免許を取得することにしましたが、
実技は1週間に2コマ程度に限定してできる限り負担を減らして受講したため、
免許取得まで5か月程度かかりました。
幸いにも今まで運転時に気分が悪くなったことはありませんが、運転はできる限り
1時間以下に抑え、南大阪と和歌山北部以外への移動は制限するよう
心掛けています。
このころは交友関係も相当に限定され、せっかく女の子と仲良くなっても、
すぐに関係を終わらせてしまうようになってしまいます。

この20代前半の酷い内向性の時期は相当に辛いものでしたが、
この時期に家に籠って読んだ書籍や聴いた音楽、その他美術関連の
知識などは、今でも自分を形作っています。
今自分がこのブログで記載している記事の多くは、
この内向性の時期の「貯金」によって成り立っているといっても良いと思います。

就職して5年目、26歳のときから気持ちがかなり改善し始めます。
一人で美術館に行ったり演奏会に出かけたりすることができるようになり、
これ以降頻繁に、京阪神方面のあちこちに出かけるようになります。
一人だといざ倒れても誰にも迷惑をかけないので、一人の行動が中心でしたが、
他者と一緒に行動する機会も徐々に増えてきました。
29歳のときには職場メンバーとの「徹夜カラオケ」も克服(笑)、
30代になると、体調に注意しながらも、かなり人付き合いができるようになります。
上記のお酒を飲んでの意識喪失もこのころですが、
「お酒のせい」と割り切って全然気になりませんでした。
女の子とも仲良くできるようになり、
「自分はすぐに気分が悪くなったりしてびっくりするかもしれないけど気にしないで」
といって付き合うことができるようになり、実際多くの子はこういう体調のことを
比較的受け入れてくれるという事実にも気づくようになります。
この30代前半の時期は、人付き合いはやはり限定的であり、心の奥には不安は
残っていましたが、それなりに楽しく、充実していた時期であったと言っても
よいかもしれません。

○35歳の9月15日、この時期仲の良かった子と美術館に出かけ、
かなり疲れてかえって来たあと、自宅で意識を喪失します。
(このことは、こちらで記事にしています。 )
これまでも年に1~2年に1回程度、時々血の気が引いてうずくまる程度のことは
ありましたが、「出血」も「お酒」も伴わない意識喪失自体はおそらく
10年以上ぶりでした。
なので、10年来のショックと落ち込みを経験し、克服したと思っていた不安障害が
また発生するようになります。
この時期の不安障害は今までのどの時期より酷く、
この2013年の年末までに少なくとも5回は職場で血の気が引いてうずくまり、
そのうち何度かは早退しています。
上司は「気にするな」と言ってくれますが、同時に「早く治せよ」とも言われます。
これ以降、何度か病院を受診しましたが、心電図で少し不整脈が
見られた程度で、血液検査などでもとくに異常は見られず、
お医者さんからはやはり
「気にするな」の一言で帰されてしまいます。
「早く治せ」と言われても、治すことができません(笑)。
心療内科や精神科を受診すべきなのかもしれませんが、
こちらはいろいろと面倒なので、行っておりません。

この事件の1週間後にびわ湖ホールにいって「ワルキューレ」を鑑賞(→こちら
していますが、ワーグナーのオペラは長いので、実はこの演奏会、
相当迫りくる不安と闘いながら鑑賞していました。
幸いにも血の気が引いてうずくまることは回避しましたが、
大好きだったオペラ鑑賞も不安とともに鑑賞する必要が発生したことは、
かなり絶望的な気分になりました。
この後、実はいくつかの演奏会の鑑賞などの予定をキャンセルしており、
体調の比較的よいときのみ出かけるようになりました。
それでも行動療法的に心を慣らすことは大切だと考え、
無理やりでかけるよう心がけるようにしていました。
この時期のブログ記事にも体調不良のことは時々触れるのみで、
細かいことは書いておりません。
ビルヴィオラの映像作品(→こちら)も、プラハ国立歌劇場の魔笛(→こちら)も
冷や汗をかきながら鑑賞したことを記憶しています。
この時期にカツァリスの演奏会(→こちら)で、このブログで知り合った方と
お会いして少しお話ししているのですが、
体調を気にして、演奏終了とともに
ろくに挨拶もせずに自分はすぐに引き上げましたので、
たぶん相当におかしな
印象を与えてしまっていたのではないかと、振り返って思います(笑)。

この時期、近所に住んでいた仲良しの子と毎日のように会っていたのですが、
その子ともやがて会わなくなってしまい、2014年ごろからは自分はまた
ほぼ誰とも会わないようになってしまいました。
この時期は本当にいろいろなことが辛くて、とくに屋外への外出がものすごく辛く、
美術館や演奏会以外の屋外への外出ができるようになるのは、
長谷寺へのお参り(→こちら)まで、意識喪失から約半年かかっています。
これ以降、5月には尾道(→こちら)と呉(→こちら)に旅行に行くまでに
回復しましたが、実は道中はものすごく不安に苛まれています。
特にひどかったのが島根・鳥取方面への旅行の際の帰り(→こちら)、
大雨で電車が止まり高速バスで帰ったのですが、バスの中で血の気が引き、
バスを降りて道に迷った方がまだ気分的に楽だし、ひょっとしたら楽しいかも
しれないという、相当混乱した状態(笑)で、わけのわからないところで
下車したことを記事にしています。

それでも、これ以降はできるだけ出かけるようにしようと、
割と無理やり予定を入れるようにしています。
これは筋トレを継続している人が、筋トレをやめることとが不安になるという
状態に似ているかもしれません。
このある種の行動療法を兼ねた(?)外出を止めると、本当に動けなくなるのでは
ないかという、「不安に対する不安」を避ける、不安のスパイラルを避けることを
目的にしていたりするのです。


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これ以降現在まで、比較的小康状態を保ちながら推移してきています。
しかし、自分がこの症状を何度も繰り返す経験からある程度確信していることは、
この不安障害は根本的には一生治らないのだと言うことです。
そして、今後歳をとるにつれての心機能の低下その他に伴い、
むしろ悪化するのではないかとも思います。
自分が今心がけていることは、治らないということを理解しながら、
できる限り症状の発生を回避すること。
ひょっとしたら何らかの向精神薬の投薬が効果があるのかもしれませんが、
仮に薬が効いたとしても薬がなくなると元に戻るということは回避したいという
思いもあり、行動療法の方がまだよいのではないかと思い、
心療内科の類は受診せず、自己流の行動療法を続けています。
(※一般的な投薬を否定しているわけではありません。
 過去の喘息の記事でも書いたとおり、継続的な投薬は当然病気によっては
 有効に作用します。)

自分はよく人から、「冷めている」「できるのにやらない」「熱意が感じられない」
「好きだという気持ちが伝わってこない」などと言われます。
これは明らかに、背後に思春期以降の不安回避のためのある種の
心の構えがあり、このことが性格形成に影響を与えているのだと自己分析します。
自分は親しくなった人にときどき「生きる意味などない」などといって
困らせたりするのですが(笑)、その背後には、明確に「真剣に生きる」ということを
回避する心の構えがあります。
「真剣に世界と向き合う」「真剣に何かに没入する」ことは、
短期的には可能ですが、長期にわたってこの状態を維持することは、
自分にとってはそれなりに困難なことなのです。

自分の不安障害など、倒れる際の打ちどころさえなんとかなれば、
別にそれが原因で死ぬわけでなく、そんなに大したことではありません。
世の中にはもっと大変な症状を抱えている方もおられます。
しかし自分の不安障害は、ある種の共同的な社会生活を営むこと、
ある種の幸福を感じることについては、明確に行動と体験に制約が伴います。
多くの方がそうであるように、自分についても、生きるということに
一定程度の苦しみと悲しみが伴っているのです。

昨今は不安障害の方への配慮がわりと社会的にも進んでいるのか、
集会や式典などで「もしご気分が悪くなった方は遠慮なく申し出てください」
のようなアナウンスもよく聞きます。
実はこの一言、結構救われるのです。
こういう細かな配慮は社会にとって重要だと感じます。
一方、先日の台風に伴う近畿圏の大雨で、一定雨量に達したため
JRは予告なく電車の運転を中止し、
結果列車内で気分の悪くなった方数名が
救急搬送されるという事件が発生しました。
この中にはおそらくパニック障害などの方もおられたのではないかと推測します。
せめて次の駅まで徐行運転し、駅構内で一時停止するくらいの配慮は
必要なのではないかと自分は考えます。


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ということで、少し自分の苦しい部分について書いてみました。
またいつもの結論になるのですが、社会は困っている人をサポートする必要が
あり、また、困っている人は社会に頼ってもよいのだと自分は考えています。
こういった考えに至るのも、自分の過去の経験が少なからず影響しています。
自分についても、自身の大きな負担にならない限り、
可能な範囲で何かをサポートし、何かにコミットしていけたらいいなと
考えています。