読書記録 2015年(2) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近読んだ本についての覚書き。
「読書メーター」への投稿内容とコメントです。
コーマック・マッカーシーの「越境」に関するコメントは
やたらと長く難解な(?)文章になってしまいましたので、
ご興味のある方は覚悟して(笑)お読みください。


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■地方消滅の罠/山下祐介 (ちくま新書)

<内容・感想> ※読書メーターより
地方の衰退は避けられず「選択と集中」が必要であるとする
「増田レポート」への批判と対案の本。
「増田レポート」は経済効率を重視し効率の悪い地域を切り捨てるという
「選択と集中」思想。
これに抗う考え方として、多様性の共生、自治、自立、循環と持続と言った
キーワードを挙げ、国家主導ではなく地域のコミュニティと中間集団を
重視する考え方が纏められています。
平成の大合併が過疎化を促進したこと、一部地域では都心から地方への
回帰が積極的に起こっているなどの例も印象的。
経済対策だけでは少子化は解決しないという言説も納得的です。

<コメント>
ちくま新書から昨年末に刊行された最近の本。
サブタイトルは「増田レポートと人口減少社会の正体」となっています。

増田レポートとは建設官僚である増田寛也さんが中心となって発表された
報告書で、今後の人口減少社会において地方の市町村のうちの約半数が
消滅することを示唆し、
すべての市町村を救済することは不可能であるとして、
「選択と集中」の名の下で地方都市の集約化が必須であるという内容の
報告とのことです。
詳細は中公新書の「地方消滅」という本に詳しいようですが、
自分はこちらの本は未読です。

本書「地方消滅の罠」は、その増田レポートに抗うための本という位置付けに
なるようです。
増田レポート的な考え方は、やや前時代的な集権的・国家主導的な考え方で、
都心の経済効率を重視するために経済効率の悪い地方の村落を
切り捨てるという考え方。
この本では著者の怒りのトーンが強く、増田レポートに対する批判を
前面に押し出した内容になっています。

叙述はやや感情的ですが内容は納得的です。
例えば増田レポートのキーワードである「選択と集中」、これは地方都市の中から
適切な都市を「選択」して拠点都市とし、その拠点都市にリソースを「集中」させる
という考え方、
いわば各拠点に「ミニ東京」を作り上げるという考え方です。
しかし、現在最も非婚化・少子化が進んでいるのが東京であるがゆえに、
拠点都市に「ミニ東京」を作り上げることは全く少子化対策には
ならないというのは頷けます。

都市から地方へのUターン・Jターン・Iターンが積極的に発生していること、
平成の大合併がより過疎化をもたらしているということなど、
自分が知らなかったいくつかの事実も興味深いです。
ちなみに今自分が住んでいる地域は、平成の大合併が住民投票で否決され、
合併を思いとどまった地域です。
自分の周辺で医療や教育などの集約化が行われず、末端での地方自治が
ある程度維持されているのは、合併が否決された成果なのかもしれません。
その他、コミュニティは小さい方が自治に結びつきやすいという事実、
補完性原理から考えても小さいコミュニティが多くあった方が良いというのも
理解できます。
さらに、「人口減少とともに地方は衰退するものだ」という思い込みが余計に
地方衰退を齎すという事実、「これは心理戦である」という著者の主張が
非常に印象深いです。

ところで、自分は「郊外第2世代」であるという自覚があります。
(こちらの記事 → [郊外生まれ] でも細かく書いたことがあります。)
家族や地域などのコミュニティとの関わりが元々薄い人間です。
現在自分は独身で子供もおりません。
別に結婚したくないとか子供が欲しくないなどとは思ってはいませんが
積極的に配偶者や子供が欲しいということもありません。
結婚や子作りに対してはニュートラル、現在の一定の年齢以下の世代には、
こういう考え方の人は多いのではないでしょうか。
結婚しない、子供を作らない人が増えているとうことの背景には主原因として
経済問題が挙げられることが多いですが、自分の経験からいってもきっと
それだけではないのだと思います。
少子化・非婚化にはもっと巨視的な社会構造の変化がそこにはあるのだと
思いますが、最も大きな理由としてコミュニティからの疎外がそこにはあるように
直観的に感じます。


■人口から読む日本の歴史/鬼頭宏 (講談社学術文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
歴史人口学により日本史を俯瞰する本。
各種の遺跡・文献調査から日本の歴史人口を推定してきた歴史人口学の
成果から、日本の人口は縄文期・水稲農耕化期・経済社会化期・工業化期と
4段階に分けて考えることができるとされ、
各人口システムの詳細、
とりわけ経済社会化以降の江戸時代の人口動態・結婚・出産・死亡・人口調整が
どのようであったかについての詳細が纏められています。
各人口システムの終盤には人口の停滞や減少がみられるとされ、
現在の少子化も工業化システムの完成による歴史的必然として
捉えられていることが印象深いです。

<コメント>
前記の「地方消滅の罠」とリンクする本を、
たまたま連続して読むことになりました。
「地方消滅の罠」では、著者は現在の現実に即して実効的な提案を検討し、
全体的に怒りのモードが強い著作でした。
一方こちらの「人口から読む日本の歴史」の方は、もっと歴史的・巨視的な目線で
日本の人口動態・家族形態を俯瞰している本、研究者目線での冷静な
著作となっています。
80年代の著作を前世紀末に文庫化した本なので、現在とは若干時代状況が
異なる面もありますが、少子高齢化の果てに人口減少社会が
到来するということが見据えられた議論になっており、
近代以前の章だけではなく、現代の章も一読に値します。

この本では歴史的な人口変動の要素として、疫病や気候変動の他に、
産業システムの変革が大きな理由として挙げられています。
弥生時代には狩猟採取時代から農耕時代への移行時に伴う人口増加、
室町時代には経済社会化に伴う人口増加、明治後期以降は工業化による
人口増加を経験していますが、
それぞれの産業システムの末期には、
いずれも人口の停滞・もしくは減少を経験しています。
こういったことから、現代(工業化社会末期)の未婚化・少子高齢化ももしかしたら
ある種社会の必然であるという考え方もでき、この本では少子化は
新しい社会への一つの適応形態なのではないかという、
やや
楽観的な印象が書かれています。

婚姻率の考察も興味深いです。
中世以前の農村における下人は主人への隷属的労働力として捉えられ、
婚姻も家族形成もしていないケースがほとんどであるとのことです。
ところが家族的な農業経営が主となった近世以降、
農村の婚姻率は急激に上昇します。
さらに近世においては、現在よりずっと離婚率が高かったとのこと。
婚姻も離婚も、社会構造の変化により比率が変わることが
よく分かる記述が確認できます。

その他、都市機能についての記述も印象的です。
都市は農村から人口が流入するため常に人口が増加しますが、
集住による疫病や都市貧困層の発生により死亡率も高くなるとのことです。
曰く、都市は人口のアリジゴクであるという記述が面白いです。
都市の死亡率が農村より低くなるのは、
実に20世紀に入ってからのことなのだそうです。

「地方消滅の罠」では、「少子化により、生まれてくるはずの子供が
生まれてこないということは、生まれる前に命を絶たれているに等しい」
というような感情的なトーンで書かれていますが、
こちらの「人口から読む日本の歴史」によると、
生まれてくるはずの子が生まれてこないということは、
単に人口調整機能によるものということになるようです。
近世以前では人口調整は主に間引き・堕胎の形を取っていました。
近代以降の人口調整は避妊と家族計画が主となり、
間引きなどの痛ましい例は少なくなりました。
現代において婚姻しないということも、
人口調整機能の歴史的変化の一つと考えることができると思います。
少子化・非婚化・人口減少について考察する場合、
本書は常に参照される必要がある著作であると感じます。


■越境/コーマック・マッカーシー (ハヤカワepi文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
40年代アメリカ南部のニューメキシコ州から、牝狼を送り帰すため、
盗まれたものを取り戻すため、別れた人を探すため、
3度国境を越境し
メキシコへ向かう少年の物語。
多くの事象は偶発的に発生し、主人公の行動も突発的で、死や危険と
隣り合わせで世界からの訪れが不意に次々と発生するメキシコの旅は、
読者を引っ張り込む力があります。
成長とともに様々なものを失っていく少年を描きながら、この世界の中で
神の意志はどのように働いているのかというテーマが作品に込められており、
混沌の中に恩寵があるという考え方を作品から感じます。

<コメント>
ずいぶん久しぶりに海外の長編小説を読みました。
半年前にコンラッドの「闇の奥」を読みましたが、
中編と言っても良いようなボリューム。
このブログを始めてから、650ページに渡る海外文学を読んで
感想を書くのは初めてです。
しかもこの「越境」は90年代の作品で、最近古い文芸作品ばかりを読んでいる
自分にとっては、ずいぶん久しぶりに現代文学を読んだことになります。
この「越境」はある方のおすすめ作品の中の一冊、教えて頂いたのは
1年以上前なのですが、今頃になって読むことになりました。

コーマック・マッカーシーは現在も存命のアメリカの文学者で、
ノーベル賞の候補にも何度も上がっているのだとか。
物語は上記の<内容・感想>のとおり、40年代のアメリカ南部に住む
10代後半の牧童の少年が、様々な理由から3度アメリカからメキシコへ
越境する物語となっています。


この作品には大きく以下のような対比構造があるように感じます。
・北米/中南米
・秩序/混沌
・プロテスタンティズム/カトリシズム
・近代/前近代
・現実的/幻想的
そして、前者から後者への「越境」がこの物語の主題であると考えます。

物語はアメリカとメキシコを往還します。
アメリカにおいては近代的秩序が支配的です。
例えば物語の冒頭で主人公の少年が牝狼を捕獲するシーン。
冷静な作業に対する叙述は、無理やり例えるならロビンソン・クルーソーや
ベンジャミン・フランクリンのような、アングロサクソン-プロテスタント的な
近代人の様相が感じられます。
あるいは物語の後半、行き場のなくなった主人公の少年が
第二次大戦の対日戦に参戦するため軍隊に入隊しようとするシーン。
少年の入隊には制約があり、その裏口入隊の方法までが
半ば秩序的に決められています。
最終的に主人公に心雑音があるため入隊不可となることからも、戦争のような
非日常においても北米世界では近代的で秩序的な印象を受けます。

一方、メキシコ国境を一度越えてからは、
あらゆることが衝動的・突発的に発生します。
主人公が捕獲した牝狼をメキシコに送り帰す旅は、
牝狼が唐突に殺され不意に終わりを告げる。
メキシコからの帰宅後、両親は殺されている。
2度目の越境時に付いてきた主人公の弟は、狙撃された後一旦医師に命を
助けられ、その後主人公の元から唐突に逃亡し、やがて死んでいることが
判明する。
主人公の弟を無償で手当てした医師も、唐突に死ぬ。
物語の終盤、主人公の最後の持ち物である一頭の馬も、
理由もなく賊に刺される。
地震でただ一人生き残った男の話、メキシコ革命を戦った盲目の男の話、
山上に墜落した飛行機の話などが、唐突に挿入される。
世界からの突発的な訪れが連続する作風はなんとなく南米文学に近く
(ガルシア=マルケスみたいな感覚をも感じます)、秩序よりは混沌、
どこの街をいまどうやって彷徨っているのかもよく分からなくなってくる、
幻想的で非現実的な読後感があります。


上に挙げた「北米的なもの」と「中南米的なもの」、
前者から後者への「越境」ということが、この物語のテーマであるように思います。
前者と後者との根源的な差異はどこにあるのでしょうか。
ヒントは地震で一人だけ生き残った人物の挿話の中にあるように感じます。
このエピソードに登場する人物は、神を信じ有意味な世界を信じて生きてきたと
思われますが、地震により自分一人だけが生き残ってしまったあと、自らが
生き残った理由と自らの生の有意味性を根拠づけることができなくなり、
神を弾劾するに至ります。
彼は神に何度も挑戦しますが、神は沈黙を続け、
最後に彼は神の壮大さに恐れおののき、死んでいきます。
彼の最後の言葉を聴いた人物(司祭)の結論は
「神に選ばれた人間など一人もいない、
 なぜならば選ばれていない人間など一人もいないからだ」
「神の恩寵以外のものはすべて現実ではない」

このことを自分なりに解釈してみます。
一神教的な神(世界を創造した全能者)を捉える方法として、
大きく2つの考え方があります。
一方は善悪などのあらゆる価値判断を行う神、
もう一方は単に意志のみが存在する神。
言い換えるならば、前者は主知主義的な神、後者は主意主義的な神、
と言っても良いかもしれません。

前者の例、戒律を守れば救われ守らなければ罰せられる(ユダヤ教的)、
悔悛する者は救われる(メソジスト的)、
救われるかどうかは神により予定されている(カルヴィニズム的)
などの考え方は、神の主知性を頼りにしています。
神は常に正しい判断をされ、神の正しい判断により個人の救済が確定する、
世界は神の意志に基づいており、秩序立っており、有意味である、という考え方。

一方後者の考え方は、世界を創造した神は人知を超えるものであり、
神の価値判断に我々の考えが及ぶはずもない、という考え方。
人が幸福になったり不幸になったりするのも神の主知的な判断ではなく、
単に存在する神がたまたまあることを意志した結果である。
故にこの世界は秩序立っておらず、端的に無意味であるのと同じことである。
この世界に神の意志が働いていない(無神論)のではなく、
神の意志は我々の理解を超えるのであるという考え方。

前者は世界を有意味的で秩序的であると捉える考え方、
後者は世界を無意味的でカオス的であると捉える考え方。
先に挙げた地震で生き残った人物のエピソード。
神を主知的に捉えていた(=世界を有意味的に捉えていた)人物が
自分一人だけの生存の意味(=神の価値判断の結果)を理解することができず、
自らの生存は神の失敗ではないかと神に迫ります。
しかし死の前に彼が悟ったのは、神は価値判断など行っていないと
いうことなのではないか。
世界の有意味性(神の主知性)から、世界の無意味性(神の主意性)への
「越境」・・・。

旧約聖書の「ヨブ記」も、主知主義的な神の認識→主意主義的な神の認識への
「越境」のお話です。
新約聖書のイエスのエピソード、戒律を守れば救われるという主知主義的な
神認識のあり方を誤りだとし、神は善悪の価値判断など行わない、
故に戒律を守ろうが守るまいが、
万人に救済の可能性が残されている、
という原始キリスト教のロジックをイエスは打ち立てます。
主知主義的なユダヤ教パリサイ派→主意主義的な原始キリスト教への「越境」。
このマッカーシーの小説も、北米的・秩序的・主知主義的世界から、
中南米的・無秩序的・主意主義的世界への「越境」を描き、そして、
後者の世界こそが福音であるという、ヨブ記やイエス伝のお話の系列に
つながる物語なのではないか、と、自分はこのようにこの小説を捉えました。
最後にすべてを失った主人公ビリーにも、輝かしい陽光が降り注ぎます。
神が創った本物の太陽は、分け隔てなくすべてのもののために昇ってくるのです。

自分はキリスト教信者ではありませんが、もし神について考えるなら、
やはり善悪の価値判断を行わない、単に意志のみが存在する、
主意主義的な神を信じたいです。
このあたりの記事( → [生きる意味] )でも書いたことがありますが、自分は
この世界は無意味であると捉えた方が良いのではないかと考えています。
もし世界に根本的な価値を判断する秩序のようなものが存在するなら、
各々がその秩序に基づき行動するだけで救われるのなら、
人は他者に対し無条件に優しくなれるはずもありません。
自分は現在の北米的・プロテスタント的なものの根源に、なんとなくこのような
「条件付き救済」のような価値観を感じます。
この世界が無意味で生きる理由がないからこそ、人は理由なく利他的に
振舞える、人は人に優しくなれるのだと自分は考えます。
原始キリスト教においてイエスが説いた隣人愛も、
このような考え方なのではないでしょうか。

この小説で主人公にはこれでもかというくらい次々と不幸事が襲い掛かりますが、
それでも主人公が生きていけるのは、人と人とのつながりがあるからです。
偶然出会った主人公にトルティーヤを分け与えてくれる人がいるから、
主人公は旅を続けることができる。
このトルティーヤの美味しそうなこと・・・。
「神に選ばれた人間など一人もいない、
 なぜならば選ばれていない人間など一人もいないからだ」
「神の恩寵以外のものはすべて現実ではない」
このような考え方も、神(=世界)の無意味性ゆえの、
神(=世界)の優しさなだと感じます。
混沌の中に恩寵がある。


この「越境」は3部作の第2作なのだそうです。
(ということを本を読み終わってから知りました。)
第1作から読んだ方が良かったのかもしれません。
第1作を読むとまた少し作品の印象は変わるのかな・・・。

その他、マッカーシーは映画「ノーカントリー」の原作者であることも知りました。
そういえば、「ノーカントリー」に登場する殺人鬼(ハビエル・バルデムが
怖すぎる・・・)がコイントスで殺人を行うかどうかを確定するのも、
神の主意性の寓意であるようにも感じます。

映画と言えば「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」という映画、
アメリカからメキシコに死体を運ぶため越境するお話ですが、
この「越境」の主人公の最後の旅に少し似ています。
ひょっとしたらこの映画は「越境」の影響があるのかな・・・。
(「越境」の場合はメキシコ→アメリカへの死体運搬なのですが。)
「メルキアデス~」もトミー・リー・ジョーンズが演じるやたら気まぐれで
本心がどこにあるのかわからないカウボーイ(主意主義的表象)により、
バリー・ペッパー演じる北米人が救済されるというお話でした。

そういえば「メルキアデス~」の脚本家ギジェルモ・アリアガはメキシコ人。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督(好きな監督です)の
「バベル」の脚本も同じ脚本家で、そういえばこれもアメリカ/メキシコの越境が
一つのテーマになっていたな・・・などと、いろんなことを思い出しました。


ということで、最近は古い日本のちまちました小説(笑)ばかり読んでいた
自分ですが、やはり壮大な海外文学も読まねばなりません。
(日本のちまちま文学も大好きなのですが・・・。)
読書ラインナップにもう少し海外の文芸作品も加えるよう、
読みたい本を再考しようと思います。