読書記録 2015年(1) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近読んだ本についての覚書き。
「読書メーター」への投稿内容と、それに対するコメントです。
一部昨年末に読んだ本も含まれています。


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■フランクフルト学派/細見和之 (中公新書)

<内容・感想> ※読書メーターより
フランクフルト学派の思想を追う本。
中でも最も印象的なのはホルクハイマーとアドルノによる「啓蒙の弁証法」です。
「神話は既にして啓蒙である」「啓蒙は神話に退化する」つまり暴力は既に理性を
含んでおり、理性は暴力に退化するのが必然であるとの考え方が紹介され、
これを乗り越えるための歴史への客観的な視点と自己省察、自然への追想の
大切さが、アウシュヴィッツへの歴史的反省とともに述べられています。
その他ベンヤミンの芸術を巡る思想、そしてフランクフルト第二世代の
ハーバーマスによるシステムと生活世界の考え方が印象的です。

<コメント>
これは去年の年の瀬に読んだ本です。
昨年の10月に出版された最近の新書です。
去年は主に古典的な名著というか、一昔前の本を中心に読んできましたので、
日本の著者の最近の本を読むのは久しぶり、昨年夏に読んだ
武田徹さんの「暴力的風景論」以来となります。
今年も昔の本を中心に読みたいと思っていますが、
定期的に現在の本も挟んで行きたいと思っています。

この本は戦間期ドイツで誕生したフランクフルト学派の主要な理論をコンパクトに
まとめた本で、主にフロム、ホルクハイマー、ベンヤミン、アドルノ、
ハーバーマスが紹介されています。
以下各学者についての印象的な著述のメモ。

エーリヒ・フロムはマルクスとフロイトの理論の統合。
マルクスの有名なテーゼ「上部構造(経済)が下部構造(意識・文化)を規定する」
ということをフロイト的(精神分析的)に解釈し、経済的利益追求が
ナルシシズムやリビドーに由来するということを示したのだとか。

マックス・ホルクハイマーはいわゆる「批判理論」を定式化された方。
デカルト的な主体/客体の二元論は、社会(客体)を所与のものとして受け入れる
ことに繋がりがちであり、社会を客体として分析しつつ主体として変革しようとする
態度が大切であるとのこと。
経済を客体的に分析しつつ、経済を主体的に変革しようとしたマルクスの態度の
影響があるようです。

ヴァルター・ベンヤミンはフランクフルト学派の枠に収まらない多面的な人物。
アレゴリーの芸術批評家、ドイツ系ユダヤ人の文人、ユダヤ神秘主義者、
戦闘的マルクス主義者、ポストモダンの先駆者と、
たくさんの顔を持つのだそうです。
自分は写真作品が好きなので「複製技術時代の芸術作品」「写真小史」を読んだ
ことがあり、いわゆる「アウラ」の喪失をやや肯定的に捉える考え方は好きです。
この本で触れられている内容では、古典的芸術の編集不可能性に対し、
映画などのメディアの編集可能性を肯定的に捉えていること、
そして芸術の自律性への批判が印象的です。
メディアの編集可能性は未来の歴史の編集可能性とリンクし、
社会変革の可能性とリンクします。
芸術の自律性への批判、芸術のためだけのの芸術という考え方だけではなく、
社会のための芸術という考え方もあってよはずだと自分も考えます。

そしてテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」。
上に書いたとおり「神話は既にして啓蒙である」「啓蒙は神話に退化する」。
自分なりに意訳すると、神々が登場する神話の時代は暴力あふれる時代ですが
このような神々とて暴力の背後には理性が働いている。
現在の人間は理性的であるとされますが、理性的な人間が理性的に職務を
こなすとアウシュヴィッツのようなことが起こる。
このあたりはアーレントの「エルサレムのアイヒマン」ともリンクしそうです。
ちなみに自分はマーラーが好きなので、アドルノの「マーラー-音楽観相学」
「音楽社会学序説」を読んだことがあります。
「マーラー-音楽観相学」はずっと昔に読みましたがなかなか難解で内容が
読み込めていない部分もあるため、再読してみたいと思います。

上記の方とは一世代違うユルゲン・ハーバーマスについては、
「システム」と「生活世界」の考え方が印象的です。
政治システムは権力が機能するシステム、経済システムは貨幣が機能する
システム、このような「システム」は、言語より別の機能(権力や貨幣)が
重要となる
非コミュニケーション的なもの。
なので、言語が機能するコミュニケーション的な「生活世界」が
重要であるとのこと。
自分なりに言い換えると、人間が人間であるためには言語を介した
コミュニケーションが重要、企業労働を含めた「システム」内では役割や
マニュアルが優先され、
主体的にコミュニケーションを行っているようでいて実は
個々人の発言の背景には権力や貨幣が付いて回るため、
各人の主体性は
保たれていないということ。
なので、システムが全域化していくことは非常に危険であると感じます。

昔の書籍に比べ、現在の新書はやはり分かりやすく読みやすいです。
この本で紹介されている著作のうちのいくつか、
とくに「啓蒙の弁証法」はどこかで読んでみたいです。



■桜島・日の果て・幻化/梅崎春生 (講談社文芸文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
梅崎春生の短篇4作品。
戦中の極限状態を描く「桜島」「日の果て」が、
戦前の日常「風宴」と戦後の日常「幻化」に挟まれる構成。
最も印象的なのは軍規が乱れたフィリピン戦線での兵士の逃亡と処刑を描く
「日の果て」で、極限状態での殺伐とした心理状態と、誰が生き残るのかという
物語の面白さがあります。
終戦直前の鹿児島兵役を描く「桜島」も戦争による感情の摩耗が印象的。
そして病棟から逃げ出した男の旅路を描く「幻化」では戦後の日常の怠さと
その中に潜む死が描かれており、生と死の間を揺れる阿蘇の火口のシーンが
とりわけ心に残ります。

<コメント>
梅崎春生は過去に「蜆」を読んで印象的だったので読んでみました。
本短編集には4作が収録されています。
「風宴」は戦前の日常を描いた作品、
「桜島」「日の果て」は戦中の非日常の作品、
「幻化」は戦後の日常を描いた作品、という構成。

戦中2作はあらためて戦争の滅茶苦茶さを感じる作品です。
終戦直前の鹿児島兵役を描く「桜島」は、米国の九州上陸を待つ
兵隊さんたちのお話。
著者の体験に基づくと思われる兵士の心理状態や、軍国主義の権化のように
描かれる上官の描写が(彼が最後に死なないことも含め)印象的です。
「日の果て」はフィリピン戦線のお話で、物語的にはこの短編集の中で
最も面白い作品です。
規律に縛られる軍隊人が逃亡を夢見、そして実際の逃亡者に嫉妬に似た
感情を持つ。
軍規の名のもとに感情的に逃亡者の殺害を指示したり、全然関係のない人間を
突発的に殺害することを正当化したりという、非日常での軍人の狂気面が
強く描かれています。
この作品、映画化もされているようで、古い映画のためYouTubeで
全編が鑑賞できます。
自分もところどころ見てみましたが、原作とは終わり方も含め構成・テーマが
異なるようです。

戦中の非日常は厳しいものですが、戦前戦後の日常を生きる「怠さ」もまた
苦しいもの。
日常の中にも常に死や病や絶望が潜んでいるものです。
とくに印象的なのが「幻化」です。
主人公は心に病を持っており、主人公が旅先で出会う男も交通事故で妻子を
失っています。
飛行機からはオイルが漏れ、大水で家は流される。
生きることは常に死の危険と隣り合わせで、そのこと自体が苦しみを
もたらします。
このような生きることの「怠さ」を引き受けながら、
それでも何とか楽しみを見出しながら生きていくのが人間というもの。
ズクラ取りの少年やあんまの女性とのふとしたことからの繋がり。
我々の人生はラストシーンのように阿蘇の火口をさまようようなもの。
火口に落ちずにいられるのは、鑑賞者がいるからです。
人に生きる力を与えるのは、人と人との繋がり以外にはありません。



■意識と本質/井筒俊彦 (岩波文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
事物の「本質」をどのように定義するかということを巡る
東洋哲学を中心とした分析の本。大まかに、
 ①事物に個体的な本質のみがあるという立場、
 ②普遍的本質が実在するという立場、
 ③普遍的本質がイマージュの世界に存在するという立場、
 ④普遍的本質を理性的に捉える立場、
 ⑤本質が存在しないという立場
に分類され、それぞれの例として
 ①本居宣長,松尾芭蕉,リルケ
 ②朱子,マラルメ
 ③曼荼羅,易,カッバーラー
 ④プラトンのイデア,孔子の正名
 ⑤禅
などが挙げられています。
東洋の直観を西洋の枠組みで再分析する、非常に広範な知的探求の本です。

<コメント>
昨年読んだ井筒俊彦さんの「イスラーム文化」が非常に分かりやすい
本だったので、本書も読んでみました。
しかし、この本は非常に難解で、最近読んだ本の中では最も読みにくい
ものの一つです。
1983年の著作で、る20世紀中盤から後半のいわゆグランドセオリーを追求する
流れの中にある著作で、他分野を横断的に論じ全体像に近づこうとするという、
そういった目的から纏められた著作のようです。
東洋哲学がテーマの本ですが、東洋哲学は近代人の目から見た場合一般的では
ないため、西洋哲学をベースとして解析されるという著述の仕方となっており、
このため読み下すには西洋哲学の基礎知識が必要、プラトン主義、スコラ哲学、
ユングやフロイトなどの心理学、フッサールの現象学、サルトルの実存主義、
言語学などなど、
ちょこっとだけでも知っていると読みやすいと思います。
逆に哲学的前提が全くない場合は、この本は相当に手ごわい本であるのでは
ないかと思います。

この本のテーマは事物の「本質」を東洋哲学がどのように定義してきたかと
いうことを分析した内容となっています。
その中で、一部マラルメやリルケなど(著者の趣味なのか)西洋の詩人も
登場します。
この本に何らかの意味があるのかというと、少なくとも社会的意義は
あまり見出せそうにありません。
どちらかというと知的遊戯に近い、興味のない人にとっては
空中戦を見ているような本となることだと思います。
「イスラーム文化」は多文化理解のための非常に有用な本でしたが
こちらはそうでもない本、しかし個人的には非常に楽しく読みました。

主な内容は上記の<内容・感想>のとおりですが、
読みにくいので少し書きなおしてみると

1.事物に本質があるという立場
 A.事物に個体的な本質のみがあるという立場 (本居宣長,松尾芭蕉,リルケ)
 B.事物に普遍的な本質があるという立場
   a.普遍的本質が実在するという立場 (朱子,マラルメ)
   b.普遍的本質がイマージュの世界に存在するという立場
      (曼荼羅,ユング,易,スフラワルディー,カッバーラー)
   c.普遍的本質を理性的に捉える立場 (プラトンのイデア,孔子の正名)
2.事物に本質は存在しないという立場 (禅)

と、大雑把にこのようにまとめることができると思いますが、
個別の詳細を短く纏めなおすことは自分の力量では不可能です。

この本のメインは、1-A-b.イマージュの世界と、2.禅 の分析です。
全12章のうち、イマージュの世界に4つの章、禅に3つの章が割かれています。
イマージュの世界についてはこの本のP.214の図が、
禅についてはP.170の図がそれぞれ重要です。
自分なりに図を書きなおしてコメントしようかなとも思いましたが、
面倒なのでやめます(笑)。


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★おまけ

読書メーターで「2014年おすすめランキング」を作れとの指示が出されており、
作ってみましたのでリンクを貼っておきます。
http://bookmeter.com/u/418702/cat/317606