読書記録 2014年(14) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

年初から後ろ向きの記事(笑)で申し訳ありませんが、
昨年末に読んだ本についての覚書をまとめておきます。
「読書メーター」への投稿内容と、それに対するコメントです。


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■美について/今道友信 (講談社現代新書)

<内容・感想> ※読書メーターより
美とは何かについてまとめられた本。
本書は芸術という枠に留まらず、生活や人生を含めた様々な角度から
美について論じられていいます。
いわゆる古典的な真・善・美においては、真(存在の意味)や
善(存在の機能)より美(存在の恵みと愛)の価値が高く、
美学的に
振舞うことが人生の希望、よりよく生きることにつながるとされています。
一方で芸術については、世界の諸事象の輝きを永遠化することが
芸術家の営みであるとされ、鑑賞者が芸術を解釈(理性的理解)することが
世界の価値に遭遇することにつながるとされているのが印象深いです。

<コメント>
美について考察された1970年代の本。
本書は「芸術の上での美」という観点と、「生きる上での美」という観点の
2つの方向性からまとめられているように読めます。

「生きる上での美」としては、この本では究極のところ美を利他性として
位置づけています。
人がある行為を行うとき、快/不快で判断することが最も原初的であるとされ、
正義や善悪を参照することについてもその次の段階で、究極的な状態では
ないとされています。
人は利他的に振舞うことが最も美しく、そして生きる上で尊い行為であり
生きる幸福に繋がるのではないかという結論。
この考え方は、最近読んだ本の中では例えば宮沢賢治の美学などに
近い結論です。
確かに利他的に美しく生きることは尊いことですが、
この考え方は容易に政治利用されることにも注意が必要だと感じます。
利他性=美はあくまで内発的である必要があります。

一方「芸術の上での美」についての考察も非常に面白いです。
芸術家の目的は、世界の諸事象の輝きを表現すること。
鑑賞者の目的は、芸術を解釈することにより世界の価値に触れること。
自分は美術でも音楽でも文芸でも映画でも、作者の内面を表現するものより、
世界のありようを何らかの形で作品化するようなものを好む傾向にあります。
芸術によって表現された世界のありようは必ずしも美に収斂するものでは
ありませんが、この本にまとめられれている芸術についての考察も多くは
非常に共感的です。



■情報の文明学/梅棹忠夫 (中公文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
1962年に執筆された著者の「情報産業論」という論文、及びその論文を巡る
その後の反響と、著者自身の80年代時点での考えにつて纏められた本。
人類史の変遷は農業→工業→情報産業という変遷であると説かれ、
それは消化器官の充足→筋肉や骨の代替→脳の充足という機能の変遷に
あたるされています。
現代においては農業や工業の大部分の営みも情報産業的
(美食やデザイン重視)、今では自明であることも書かれていますが
先見性が面白いです。
「文明の生態史観」が地域を模式的に分析したのに対し、
本書では歴史を分析しているともいえます。

<コメント>
以前に同じ著者の「文明の生態史観」という本を読み、
これが面白かったので本書も読んでみました。
「文明の生態史観」がユーラシア大陸の地政学的な要素から
歴史を読み解いているのに対し、本書では人間の身体的機能から
歴史を読み解いている形になります。
(この点、上の<内容・感想>は少し説明不足です。)

この本にまとめられている、人間の身体的機能と産業の関係を簡単にまとめると、
 農業:消化器官の充足
 工業:筋肉や骨の代替
 情報産業:脳の充足
となるとのこと。
人類はまず消化器官を充足させる(お腹いっぱいになる)ために農業を発展させ、
続いて自らの筋肉や骨に負担を書けない形でより大きな力を得ることを
目的として工業を発展させてきました。
そして人間の脳を満足させることが情報産業の目的であるとされています。
情報産業・情報化社会という言葉は今では当然のように使われていますが、
この著者が60年代に文章を発表した際には、一般的な言葉では
なかったのだとか。

そして、農業や工業がかなりの程度発展した時代においては、
農業や工業でさえも情報産業的になってくるという考察がなされています。
美食の追求は、消化器官の充足だけではなく脳の充足を含むため、
情報産業である。
工業製品のデザインを重視することは、工業的機能の追求だけではなく
やはり使用者の脳を満足させる要素があるため、情報産業である。
工業の変化については、フォーディズム(同品種大量生産)から
ポストフォーディズム(多品種少量生産)という現代の流れとも
リンクしていますし、コンピュータの位置付けが「機能性・スペック重視」から
「生活スタイルの革新」(アップル社のような考え方)への変遷という
文脈にも通じる気がします。

なお、この本の文章によると、60年代~80年代を通してテレビ業界は
いつまでも革新的であるとされていることも非常に面白いです。
現在テレビ業界は非常に保守的になってしまっていると感じますが、
なぜ保守化したのかを考えてみるのも面白そうです。

<関連リンク>
「文明の生態史観」の感想 → 


■日本文化史研究(上・下)/内藤湖南 (講談社学術文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
日本文化について、大正期から昭和初期の著者の文章を集めた本。
上巻では主に古代から中世についての著述が中心。
日本文化は古代より徹底して中国文化の影響を受けており、
決して独自に発展したものではないとされます。
しかし文化の受容に際し常に日本なりの独自の変化が生じ、
奈良朝の律令体制は唐のものよりずっと機能的であったこと、
弘法大師が著した著作の中に唐のものより詳細な唐詩に対する
規則についての著述が見られること、
藤原隆信らの鎌倉期の肖像画が中国絵画の以上の発達を遂げていること
などに触れ、日本文化の特徴を纏めています。

日本文化についての考察、下巻では中世から近代にかけての著述が中心。
上巻と同様に日本文化の外来性と独自性についての考察が主要なテーマで、
古来中国文化の影響下にあった状態から独自の日本文化と呼べる状態に
なるまでの変遷について考察されています。
とくに室町時代の応仁の乱が重視され、応仁の乱前後で日本の権力基盤が
根底から変化し、合わせて一部旧文化の破壊が行われ、その後旧文化から
取捨選択されたものが発展し、
日本的なるものが出来上がっていたとの
考え方が示されています。
後世の研究に大きな影響を与えた書籍であると思います。


<コメント>
本書は統一的に著述された本ではなく、著者の様々な機会での文章や
講演録などをまとめたものとなっています。
文章の順番は、歴史の時代順(おおむね古代→現代の順)に並べられており、
それぞれの文章が纏められた時代順ではありません。
なので、大正期~昭和初期の文章がバラバラに収録されている形になります。

この本の文章のうち最も有名な言説は、
「今日の日本文化を研究するなら応仁の乱以降を考えるだけで良い」
という旨の有名なテーゼ。
自分はこれが誰の言説なのか知りませんでしたが、
この本を読んで内藤湖南の考え方であったことを初めて知りました。
この本によると、応仁の乱の混乱により下剋上の時代となり、旧来的な
貴族文化を知らない下層武士や農民により旧文化が徹底的に破壊され、
そしてこの時代にのし上がった下層武士が新たに旧文化を取捨選択・
発展させたものが、現代の日本文化の元になっているとのことです。
このことは武家政権が初めて誕生した平安/鎌倉の比ではないほどの
断絶であるとされています。
室町期に断絶があるという考え方は戦後の日本の歴史学にも大きな影響を
与えたと思われ、例えば網野善彦さんも、室町期から急に社会が世俗化すると
いうような考察をされていたと記憶していますが、
このあたりも内藤湖南の
議論の延長上にあるのかもしれません。

その他、この本では日本文化は内発的か外発的かということも
大きなテーマとなっています。
日本文化は古代より徹底して中国文化の影響下にあったことが述べられ、
しかしそれでもその受容に対しては単に従属的に影響されただけではなく
中国本土では見られなかったような独自の文化的発展があったことが
述べられています。
この本が書かれた当時(1910~1920年代)は中国に対する日本社会の
近代としての先進性は明確でしたので、日本文化固有論・優越論のような
考え方が多かったのかもしれませんが、文化が多国間で互いに
影響し合いながら歴史的に発展していくことは今日的には自明だと
思いますので、
このあたりは現在からみるとそんなに重要な論点でも
ないように感じます。