ジョナス・メカス カメラ、行為、映画 | れぽれろのブログ

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18日の土曜日、国立国際美術館に行ってきました。
この日は半年に一度の恒例行事、中之島映像劇場の上映日です。
約2か月ぶりの美術館。
秋晴れのさわやかな一日、清々しい気持ちで国立国際美術館へ。

ここ2年ほど、中之島映像劇場は秋に欧米の作家の作品を上映し、
春には日本の種々の映像作品を紹介するという流れになってきています。
秋は一昨年はマイケル・スノウ、昨年はビル・ヴィオラの映像作品が
上映されていました。
今回はジョナス・メカスという映像作家の作品の上映とのこと。
知らない作家さんなので、楽しみです。

ジョナス・メカスはリトアニア出身でアメリカで活躍した作家さん。
1922年にリトアニアに生まれ、ナチス政権下で1944年に亡命しようとするも
失敗し、ドイツの収容所へ。
その後難民としてあちこちを移動し、最終的に1949年にアメリカに亡命。
1950年代から身の周りの映像を日記的に撮影することをはじめ、
60年代から本格的に映像作品に取り組み始めた作家さんとのことです。

今回は1971~72年の「リトアニアへの旅の追憶」という作品と
1964年の「営倉」という作品の二本立ての上映でした。
どちらも面白い作品でしたので、覚え書きをまとめておきます。
なお、中之島映像劇場の担当の方は、昨年までの森下明彦さんではなく、
現在は大橋勝さんという方に変わられているようです。


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まずは「リトアニアへの旅の追憶」という映像作品、
ジャンルとしては日記映画ということになるのだそうです。

この作品は1950年代のニューヨークのブルックリンの記録映像から始まります。
都市の日常的な風景や田園での行楽の様子などの映像が続きます。
基本的にはモノクロ映像ですが、時々カラーの映像も登場します。
50年代と言えばアメリカの中産階級が増大した時期、いかにも中間層といった
人たちがパーティーをしたりピクニックをしたりしている姿が印象的です。

その後本編と言える映像。
1971年にメカスはリトアニアに一時帰国します。
その時の自らの旅の記録映像、家族や友人と過ごした日々の記録を
まとめた映像が次々と流れてきます。
映像はカラーになり、先ほどまでのアメリカの都市風景とうって変わって
リトアニアの農村の風景が主体になります。
母親や兄弟と再会し、彼女らをカメラに収めるメカス。
農村の日常風景、調理、食事、洗濯、家族との団欒、
農作業、知人宅での憩いなどの映像が続きます。
編集方法も50年代の映像とは異なり、細かい断片的なカットを連続的に並べたり、
早回しを多用したりで、単純な記録映像というよりも加工映像といった要素が
非常に強いです。
この映像の効果がどことなく幻想的な雰囲気となり、故郷への旅の微熱的な
心のテンションが表現されているようにも見え、さらに旅の記憶が断片的に
湧き上がってくるような、
ある種のフラッシュバック的回想シーンのような
効果を出していて面白いです。
(面白いですが、この映像はやや眩暈的な要素が強く、
目まぐるしく変化するようなスピード映像が苦手な自分は
少し酩酊的になり、しんどかったです。)
音楽はリトアニアの民謡(?)のようなものやソ連の労働歌のようなもの、
聖歌のような音楽が挿入され、ブルックリンとの対比が強調されているように
見えます。
ときにカメラを別の人に渡したりしているのか、
メカス自身が写りこんでいる映像も登場。
そして過去のこと、戦争の記憶、収容所の記憶などが、
台詞として断片的に紹介されます。
それでもリトアニアは思い出あふれる故郷。
全体的に、母親を映した部分がとくに映像として印象的です。
断片的な映像が多い中、母親の部分はやや1カットが長いような気もしました。

その後ドイツを訪れ、かつて過ごしていた収容所へ。
(収容所のシーンも断片的な連続カットではなくなります。)
そしてウィーンへ移動し、かつての友人たちとの再会を挟み、
最後はウィーンの火事のシーンで終わります。

50年代ニューヨークの中産階級(現実的な映像)と、
70年代の当時はソ連邦であったリトアニアの農村(幻想的な映像)の対比。
かつての故郷の記憶、収容所の記憶、友人の記憶を辿り、
それが亡命後のニューヨーク(冒頭)へと繋がる円環的な構造。
極めて個人的な記録映像ですが、約半世紀の時を経てそれが
歴史の記録となる、パーソナルな記録が歴史的記憶につながる面白さ。
背後に感じられる戦争の悲劇と、人に生きる動機付けを与える
コミュニティの力強さ。
そういった要素を映像から感じました。

当時カメラは高価なもので、映像を撮影することができる人も
限られていましたが、現在はスマホに動画撮影機能も実装されており、
「一人一映像」といえる映像過多の時代。
YouTubeの登場により、個人の記録映像が膨大なアーカイヴスを形作る時代。
歴史的記録は今後どのようにどうなるのか・・・
そんなこともこの作品を観ながら考えたりもしました。


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2本目は1964年の「営倉」という作品、
かなり特殊な構造を持つドキュメンタリー映像で、非常に面白い作品でした。

有刺鉄線と金網に閉ざされた狭い空間に10人の男性が収容されています。
営倉とは軍隊の懲罰房。
この監獄の囚人たちと看守たちとの間の暴力的なやり取りが、
最初から最後までひたすら続く悪夢的な映像作品です。
早朝4時30分の起床のシーンから始まり、囚人はたたき起こされ、
いきなり暴力的な仕打ちを受けます。
着替え、整列、点呼、囚人たちは常に背筋を伸ばし、
移動するときは腕を腰の位置にあて腿をあげて駆け足の体勢。
発言するときは「sir」を付け、常に大声を張り上げて喋らなければならない。
何もしていないときは聖書と思われる本を立ったまま気を付けの姿勢で黙読。
少しでも逸脱した行動をとると、容赦なく看守の暴力にさらされる・・・。
喫煙も全員で整列して規則的に、食事(?)のために部屋を出るときも駆け足、
途中、ものすごいハイテンションで営倉を掃除したりするシーンが挟まります。
この生活に耐えられなくなった囚人は別の牢屋のような場所に移動させられ、
さらに過酷な罰を与えられます。
最後は就寝のシーンで、怒鳴り声と暴力に充ち満ちた
悪夢のような一日が終わります。
映像もここでおしまい。

実はこの作品は、元々舞台で演じられる演劇作品を
カメラで撮影したものであるとのことです。
生々しい軍隊の懲罰房の様子をリアリスティックに舞台化した当時の
前衛演劇作品を鑑賞したメカスは、これを撮影し映像化することを思いつき、
劇の上映が終わった後日、
観客のいない舞台で上演時と同じように
演者に演じてもらい、
それをカメラで撮影したとのことです。
なので、舞台作品のドキュメンタリーという映像なのですが、
被写体はあくまで虚構です。
虚構の演劇作品ですが、その内容は劇作家の実体験を元にした
リアリティ溢れるものになっています。
ドキュメンタリー作品だが内容は虚構、しかしその虚構は
リアリズムを元にしているというややこしい構造。
虚構が階層構造を成し、結果として何だか非常に不思議な
映像になってしまっています。
解説によるとこういう構造の映像作品は極めて珍しいのだとか。

この作品、リアリティに基づいているとはいえ、やはり虚構であると
意識してよく観ると、演技はやはり誇張があるように見えてきます。
毎日こんなテンションで暴力に塗れていたら、
囚人だけではなく看守もさぞ息苦しいだろうと思うような暴力の連続。
さらに、今回の上映では字幕がないため、何を言っているのか分からない
(少なくとも自分は)ということもあり、暴力がよく分からないままどんどん
ヒートアップしていくところが、奇妙な面白さを醸し出しています。
とくに掃除のシーンなど、囚人全体がわけがわからないくらい
ハイテンションになっていき、ものすごい演劇的強度のあるシーン、
ある種の劇のハイライトといえるシーンになっており、
そのことが逆にこれが虚構であるということを印象付けられます。
しかし、ふとした瞬間のリアリティはまた現実を元にした暴力であることを
思い出させ、見るものを混乱させます。
映像とは、虚構とは、記録とは、あれこれ考えてしまう作品です。

そして、旧日本軍においても、とくに初年兵に対する暴力や虐めは過酷なもの
だったようですが、どこの国の軍隊もこのような「味方に対する暴力性」を
有しているのだということを
改めて印象付けられます。


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ということで二作品とも楽しく鑑賞しました。
映像としての美術的な面白さ、「見ること」の楽しさという点については、
一作年のマイケル・スノウや昨年のビル・ヴィオラの方が
ずっと面白い作品でした。(とくにビル・ヴィオラは異常に楽しかった。)
しかし、映像とは、歴史とは、記録とは、虚構とは、などと考えてみた場合、
メカスの作品もこれまた非常に興味深い。
今回上映されたどちらの映像も、多重的な構成をもっており、
ドキュメンタリー映像として非常に面白いものになっています。

ということで、映像作品の幅は広い・・・。
中之島映像劇場、次回の上映も楽しみです。


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<関連リンク>
中之島映像劇場の過去記事

・ビル・ヴィオラ初期映像作品集 心の旅路
http://ameblo.jp/0-leporello/entry-11641150272.html


・限定と豊饒-マイケル・スノウの実験映像-
http://ameblo.jp/0-leporello/entry-11391131703.html