読書記録 2014年(6) | れぽれろのブログ

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最近読んだ本について、「読書メーター」への投稿内容とコメントです。


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■金閣寺/三島由紀夫 (新潮文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
金閣寺を放火した若者の人生と、犯罪へと至る心理を描写した作品。
吃音で悩み自閉的で、世界をうまく生きられない主人公に固着した金閣寺の美。
女性関係の失敗や、少年期に出会った他者(師匠・友人)の内面を知ることが
積み重なり、最終的に自らに固着した美=金閣寺を破壊する行為を選びます。
世界を変えることができるのは認識か行為か、というのが
この作品のテーマの一つです。
結局単純な行為では世界の本質は変えられないのですが、このことを半ば
認識しながらも行為(放火)を選ぶ主人公に、
生きることの苦しみを感じます。

<コメント>
三島由紀夫、「真夏の死」「花ざかりの森・憂国」の短編集が面白かったので
長編も読んでみることにしました。
前にも書きましたが、三島由紀夫の面白さは、
しっかりとした物語構造があること、そして文章が美しいことです。
逆に「憂国」や「蘭陵王」のような著者独自の美学的な部分については
自分はそんなに共感的ではありません。

この物語は、お寺の若い見習い僧侶によって金閣寺が放火された
実在の事件をモティーフにしていますが、内実は著者によるフィクションです。
物語の主人公は、この世界をうまく生きることができない人間。
彼に固着した金閣寺の美、その金閣寺を破壊することにより、
世界に復讐する・・・。

主人公が「世界への復讐」を決意するのに、大きな3つの転機があります。
1つめ、少年期よりお世話になっているお寺の老師、
主人公は成長するに従い、だんだん彼の俗物ぶりに気づいて行きます。
2つめ、少年時代の親友が大学入学後に突然亡くなるのですが、
その死の真相が主人公の予想外のものであったことに後々気づき、
さらにその死の真相について、全く意外な人物から聞かされることになったこと。
3つめ、女性との性的関係での「失敗」が続くこと。
幼いころの初恋の女の子(彼女は壮絶な死を遂げます)の面影を、
主人公は少年期に京都南禅寺で見かけた女の子に投影します。
その南禅寺の女の子に後々偶然に出会い、かなり親しい関係に
なりかけるのですが、そこで主人公はまたしても「失敗」します。

主人公は、老師に裏切られ、親友に裏切られ、女の子を前にしての
自らの身体機能にも裏切られます。
この裏切りを、「世界とはそういうものだ」と納得することが大人になると
いうことなのだと思うのですが、主人公は大人になりきれず、犯行に至ります。
(どうでもいいことですが、「世界とはそういうものだ」という納得があると、
人間は不思議と性的に機能するようになるものです。)
女性とうまく接することができない主人公は誠実な子供、
それに対するシンボリックな存在が内反足の友人で、
彼は諦念を経由した大人として描かれ、いとも簡単に女性をモノにします。

では、主人公は「世界への復讐」を貫徹できたか?
答えはNOだと思います。
我々の生きる現実の世界において、
金閣寺は再建され、現在でも京都の観光名所となっています。
浅間山荘に立てこもろうが、サリンを捲こうが、秋葉原にトラックで突っ込もうが、
世界はそれをただの事件として扱い、結局世界の本質は変わらない。
主人公の必死の行為=放火も、世界を変えることには繋がりません。
ラストシーンの意味は、このことの主人公の理解を現しているようにも見えます。

この作品の一つのテーマ、「世界を変えるのは、認識か行為か」。
世界を行為で変えられるという考えが、子供の誠実さ。(主人公)
世界は認識により変えるしかないという考えが、大人の諦念。(内反足の友人)
この通り、主人公は世界を変えられませんでしたが、完全に諦念した人物、
例えば老師の俗物ぶりなど、共感できる部分はないですね。
ある部分での誠実さと、ある部分での諦念を、両方残した人物が、
理想的な人間と言えるのかもしれません。

あと、この本の表紙は、速水御舟の「炎舞」です。
燃え盛る炎の描写と、うっすらとした煙の描写が素敵な作品ですね。


<関連リンク>
・「蘭陵王」の感想 →  ※一番下です。
・「真夏の死」の感想 →  ※一番下です。
・「花ざかりの森・憂国」の感想 →  ※一番下です。


■迷宮としての世界・下/グスタフ・ルネ・ホッケ (岩波文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
上巻から引き続き芸術作品を古典/マニエリスムに分類し分析しています。
アルチンボルドやモンス・デジデリオについて詳述され、
夢・狂気・倒錯・性愛などマニエリスムの諸要素を分析、16,17世紀と20世紀を
行きつ戻りつしながら、多くの面白い作品を取り上げています。
古典とマニエリスムは相反する要素であるため統合不可、
しかしそれぞれを忘れた作品は擬古典主義や形式主義に堕す。
19世紀までは評価されにくかった多くの非古典主義的(=マニエリスム的)作品に
光を当てた功績が大きい本なのだと思います。

<コメント>
だいぶ昔に澁澤龍彦の「幻想の画廊から」という本を読んだことがあります。
建築物崩壊画家、モンス・デジデリオを自分が知ったのは、
この澁澤さんの本によります。
また「貴婦人と一角獣」のモティーフに性的な意味を読みとることや、
イタリアのボマルツォの公園の紹介など、この澁澤さんの本は
「迷宮としての世界」と、取り扱うテーマがよく似ています。
「迷宮としての世界」の出版が1957年。邦訳が1966年。
「幻想の画廊から」の出版が1967年。
澁澤さんの本はホッケの著作からの影響もあったのかもしれません。
そして、「迷宮としての世界・下巻」も「幻想の画廊から」も、
表紙はアルチンボルドです。

上巻の感想のときに自分が書いた「日本美術で考えてみる」ということ、
この下巻の巻末の解説(この解説がなかなか熱い 笑)で触れられています。
人は同じようなことを考えるものですね。
この解説によると、60年代の日本はマニエリスム的なものが
ブームであったらしく、その熱狂ぶりも面白いです。
(面白ければなんでもマニエリスム、とか 笑)。

さて、全然関係ないことかもしれませんが、この著書のような
古典/マニエリスムの分類の仕方で少し考えたこと。
現代の映画作品で考えると、なんとなく米国アカデミー賞受賞作品と、
カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの各賞の受賞作品の差が
古典的/マニエリスム的と言ってよいのかもしれません。
完成度が高く優れた作品が受賞するのがアカデミー賞、
完成度よりもアヴァンギャルドさ、前衛的な面白さを重視するのが
カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの国際映画祭、と自分なんかは理解しています。
(ちなみに、自分は後者の方が楽しくて好きです。
またどうでもいいことですが、「完成度の高い優れた作品を観よう」と思って
カンヌ受賞作品を観ると、肩透かしを食らいます。
「カンヌはわからん、つまらん」と言っている人は、
おそらく映画の見方が米国的なのだと思います。)
この本による古典/マニエリスムの分類で、なんとなくこんなことも考えました。

<関連リンク>
上巻の感想 →  ※一番下です。


■地獄の思想/梅原猛 (中公新書)

<内容・感想> ※読書メーターより
テーマは「地獄」すなわち仏教的な「苦」の世界。
前半は、釈迦の「苦」に対する考え方、及び
天台宗・浄土宗(源信・法然・親鸞)の思想についてまとめられ、
仏教的な「地獄=苦」の考え方の系譜が辿られます。
後半は、日本文学に現れる仏教的な「地獄(苦)」を俯瞰、
源氏物語・平家物語・世阿弥・近松門左衛門・宮沢賢治・太宰治が取り上げられ、
煩悩や修羅が描かれた世界を見ます。
人の苦しみと文学は切っても切れないもの。
一切皆苦のこの世界をなぜ生きるのか、
「地獄(苦)」についての思想・文学に生きることのヒントを見る本だと思います。

<コメント>
梅原猛さんの本は初めて読みました。
仏教的な「一切皆苦」という考え方は、生きるということを考える上で、
自分はすごく妥当な考え方だと思います。
人は悩み苦しむ生き物です。
自分の生まれた時代・地域・置かれた立場・能力・健康状態・経済状態など、
状況に応じた様々な悩み・苦しみが存在します。
病気や飢えの苦しみもあれば、煩悩や愛欲の苦しみもあり、
これらはどちらが軽いとは一概には比較できません。
なので、苦しみ(地獄)を思うことは、人生を思うことです。

この本の第1部は、わかりやすい仏教史の記述になっています。
とくに第2章、原始仏教の苦に関する考え方がとくに分かりやすく、
教科書的な記述になっていると思います。
第2部は文学と苦の関係、この部分が本書のメインテーマです。
源氏物語、平家物語、世阿弥、近松門左衛門、宮沢賢治、太宰治。
自分は最近宮沢賢治を読んだ以外では、これらの作品は読んだことがなく、
能や文楽にも多くは接したことはありません。
源氏物語の浮舟や、平家物語の平氏残党の苦の乗り越え方、
宮沢賢治の他者のために苦を背負う生き方、等々、面白いです。
これらの著作を読んでみたくなりました。

しかしよく考えてみると、別にこれらの文学だけではなく、
国内外を問わず多くの文学は苦をテーマにしています。
上で取り上げた三島由紀夫の「金閣寺」も苦の物語、
以前に読んだ葉山嘉樹もやはり苦の物語と言えると思います。
文芸に苦はつきもの、やはり一切皆苦なのだと感じます。


<関連リンク>
苦しみの構造 →