「名作」と「好き嫌い」 | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

自分は音楽や美術が好きで、文芸作品や映画なんかも好きなのですが、
長らくこういった「作品」に接していると、つい考えてしまうのが
「名作って何なんだろう」という問題です。
世の中には、いわゆる名作・名画・名曲・名演などと言われているものがあります。
ある程度多くの人が普遍的に「名作だ」と言われる作品もあれば、
評者によって意見が変わる作品もあります。
逆に、駄作・駄曲・駄演などと評されるも作品あったりしますね。

長らくブログを書いておりますが、自分は「これは名作だ」という書き方を
したことはありません。
少しコミカルに「おおっ、名作が目の前に!」みたいな書き方は、
探せば出てくるかもしれませんが、断定的な作品評価をすることは
意図的に避けています。
その代わり、「これはこのあたりがこうなっている。だから面白いと思う。」
という書き方をしています。

作品の好き/嫌いを表明される方も多いと思います。
自分の記事でも「これが好き」という書き方はやたらと(多すぎるかも)登場します。
しかし「これが嫌い」という書き方は、おそらく一度も登場したことが
ないと思います。これも実は意図的に避けています。

このあたりの考え方を少しまとめてみます。


「名作」というものは定義できるでしょうか?
自分は、理論的には定義できないと考えた方がよいと思っています。

例えば絵画作品では、形態のリアリティと色彩のリアリティは両立困難です。
古典的な西洋絵画は、形態のリアリティを遠近法などを用いて表現すると、
とくに遠景は暗く表現され色彩が曖昧になって行く傾向があります。
逆に、光の移ろい、色彩のリアリティを追求した印象派のような絵画になると、
色彩表現を重視するあまり、形態が曖昧模糊としてきます。

音楽においても同様なことが言えます。
プレストのスピード感とアダージョの抒情性は両立できません。
楽曲にスピード感や抒情性など、様々なを要素を織り交ぜて作曲すると、
今度は統一性が損なわれます。
(例えばマーラーはこういう音楽なのだと思います。)
構築的で楽譜再現性の高い丁寧な演奏と、即興的でグルーヴ感のある演奏は、
両立しません。

作品には必ず「相反する要素」があります。
「相反する要素」のどちらを重視するかは、作者・鑑賞者の主観によります。
仮にあらゆる芸術作品を俯瞰的に観察できる「神の目」のような主体があったと
仮定しても、「相反する要素」のどちらを優れているとするかは、
観察者の主観に依存することになります。
そして多くの作品は、無数の「相反する要素」のかたまりなのです。
ゆえに、理論的に名作は定義できない、このように自分は考えます。


何が名作か、何が重要視されるかは、実は時代によって変わります。

19世紀フランスで最も上演回数が多かったオペラは、
マイヤベーヤの「ユグノー教徒」というオペラなのだそうです。
しかしこのオペラ、現在上演されることはほとんどありません。
(自分は見てみたいのですが。)
17世紀~18世紀に活躍した音楽の父バッハは、
19世紀にメンデルスゾーンが「発掘」するまでは、忘れられた存在でした。
17世紀の画家フェルメールは大人気の画家ですが、18世紀以降忘れられ、
再び脚光を浴びるのは19世紀になってからです。

江戸時代に活躍した伊藤若冲や曾我蕭白は現在人気の絵師ですが
おそらくここまで人気が出てきたのはここ20年くらいのこと、
辻惟雄さんらの近世美術史家の尽力によるところが大きいのだと思います。
逆に20年以上前の画集などを見ていると、近世日本画といえばまず文人画、
続いて琳派や狩野派や京都円山派、そして大衆的なところでの浮世絵、
こんなランク付けが見えてきます。
しかし現在、与謝蕪村、池大雅、谷文晁などの文人画は、
あまり脚光を浴びている気はしません。
これらの方々も、今後時代が下るとまた「再評価」となるのかもしれません。

バッハなどのバロック作曲家の管弦楽作品は通常古楽器で演奏されますが、
一昔前はモダン楽器で演奏されていたそうです。
モダン楽器のブランデンブルク協奏曲など、
自分の世代ではなかなか想像しにくいです。
逆に鍵盤楽器の作品の場合は、現在でもモダン楽器(現在のピアノ)での
演奏も多いですね。
このあたりはグールドの録音の影響などもあり、
自分もピアノ演奏の方をよく聴く傾向にあります。

展覧会や演奏会というのは、作品の再発見のプロセスです。
古典美術の展覧会が開催されるたびに新しい名画が「発見」され、
クラシック音楽の演奏会ごとに、新たな解釈が再生産されます。
上記のとおり、名作は普遍的には規定できないものです。
しかし、常に時代により、名作と言われるものの見直しがかかります。
この「リアルタイムでの評価見直しプロセス」が、
展覧会や演奏会の一つの醍醐味なのだと思います。


続いて好き/嫌いの話。
自分は「好き」をやたらと表明しますが、本当のところ、
好き/嫌いという感情もあまり信用していません。

ある作品を好きになるのには、きっと妥当なタイミングがあるのだと思います。
自分はカミュの「異邦人」が好きなのですが、これは高校生のときに読み、
好きになりました。
この作品は、社会に対し鬱屈した想いを持っている少年(笑)が読むと
グっとくる小説なのだと思います。
ガルシア=マルケスの「百年の孤独」。こちらは大学生のときに好きになった作品。
こちらは、時間に余裕のある、ヒマを持て余したお金のない大学生(笑)が、
ヒマにまかせて丹念に読み進めると面白いような小説なのだと思います。
谷崎潤一郎の「細雪」は社会人になってから読み、好きになりました。
この作品は30年代の歴史・社会のことを少し知っていたが方が面白いし、
ある程度社会経験があった方が面白く読める小説なのだと思います。
自分の場合、仮に高校生のときに「細雪」、大学生のときに「異邦人」、
社会人になってから「百年の孤独」を読んでいたら
ひょっとしたら「ふーん」で終わっていたかもしれません。

好きな人の好きな作品は好きになる、という傾向もあります。
自分がショパンや椎名林檎が好きなのは、好きな人の影響です。
その他、何度も接していると好きになってくる、という傾向もあると思います。
自分の通っていた高校では、朝一番にバッハの「ゴルドベルク変奏曲」の
アリアが流れていました。
何度も聴いているとこのアリアが好きになり、今でも「ゴルドベルク変奏曲」は
すごく好きな曲なのです。
あるいは、自己の意思の結果、ということも考えられます。
ワーグナーなど、「こういう音楽はきっと面白いはずだ」という意思を持って
聴き続けることにより、だんだんと好きになって行く、
こういう要素があると思います。

好き/嫌いは、単に経験とタイミングの組み合わせの結果です。
「わたしはこういう理由だからこの作品が好き(あるいは嫌い)なのだ」という
説明は、心の奥底を探って行くと、多くの場合後付けです。
しかし、コミュニケーションにおいて「好き」を表明することは
とくに害はないと思うので、自分はやたらと「好き」を連呼します(笑)。
逆に「嫌い」を表明することは、あまりメリットは感じられません。
むしろデメリットが大きい。
「嫌い」を取り消すときに理由が必要になってしまう、あるいは、
あれが嫌いだからこれも嫌い、嫌いのスパイラルに陥ってしまう、
こういうことは避けたいですね。

もちろん、生理的に受け付けにくい、ということもあると思います。
やたらとグロテスクなものは嫌いという人もいますね。
自分もジョエル=ピーター・ウィトキン(←※検索しないでください 笑)の
作品なんかは、あまり得意ではないです。
無調音楽や不協和音が精神的に苦手、
あるいは後期ロマン派管弦楽の大音響はしんどい、
という人もいることだと思います。
こういった場合、嫌いになるのは致し方ないことかもしれません。


あれこれ書きましたが、まとめです。

名作は理論的には定義できません。
好き嫌いも多くの場合、個人の経験の組み合わせによる思い込みです。
「名作」「好き嫌い」についてのこだわりは捨てた方がよいと思います。

ただし以下のことは言えます。
作品の評価は歴史的に常に見直しがかかり、
このプロセスを追いかけることは楽しい。
自分が好きだと思うものを好きと表明し、
コミュニケーションすることは楽しい。

こだわりは捨て、からだとこころが許す限りいろんなものに接して、
いろんなものを好きになり、自分の中で「好きなものリスト」ができていくことは、
端的に楽しく、生活が豊かになる・・・。
そういうものなのだと思います。