社会を考える-2013夏- ②苦しみの構造 | れぽれろのブログ

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選挙前くらい世の中のことを考えてみようシリーズ第2回。

前回、生きることに意味があるかどうかなんて絶対に分らない、と書きました。
そして、生きることに意味があろうがなかろうが、
生きることの快楽・幸福感を感じることができるのであれば、
人は生きていけるのではないか、というようなことを書きました。

生きることの快楽・幸福感・・・
・・・幸福って何だろう?・・・何やら難しい感じがします。
しかし、幸福の逆、不幸なら多少は分かりやすい気もします。
不幸って何だろう?
ざっくりと、多くの苦しみを抱えていることが不幸な状態である、
と言って良い気がします。

ということで、次のテーマは「苦しみ」です。
生きるだとか苦しみだとか、ド大層なテーマが続きますが、
ご興味のある方はお付き合ください。


前回は思考モデルとしてキリスト教の神様に登場して頂きましたが、
「苦しみ」といえば仏教です。
今回は少し仏教の考え方をヒントに考えてみます。

仏教では六道という考え方があります。
これは古代インド人の世界観が元になっているのだと思いますが、
仏教で言う六道は、それぞれが特定の苦しみの象徴になっています。

 地獄 肉体を苛まれる苦しみ(痛みの苦しみ)
 餓鬼 飢えの苦しみ
 修羅 暴力に晒される苦しみ
 畜生 弱肉強食の苦しみ
 人道 不条理・不確定であることの苦しみ
 天道 幸福を味わうことができなくなる苦しみ

仏教の世界観では、我々は6つの世界のいずれかに生まれ、
死ぬとまた別の世界に生まれ変わる・・・。
仏教的解釈によると、6つの世界すべてが苦しみであると、そういうことのようです。
痛み、飢え、暴力などは、分かりやすい苦しみです。
しかし、「人道」の苦しみ、不条理・不確定であること(まさに人の人生)、
それ自体も苦しみである。
一瞬先は闇。明日どうなるか分からない。
もしかしたら明日突発的に死ぬかもしれない・・・。
不安は苦しみを誘発します。
そして、一見華やかな「天道」にも苦しみが待っています。
老いて体が弱り、幸福が味わえなくなっていく苦しみ。
みんなが幸せそうにしている中、自分だけが幸福感を
感じられないという状態は、きっとものすごい苦しみです。

どの世界に行っても、苦しみが付いて回る。
仏教ではこのことを「一切皆苦」と呼ぶのだそうです。
すべてが苦しみである・・・。
仏教の開祖であるお釈迦様は王族の生まれです。
立派な宮殿で何不自由なく暮らせる王族の子供。
お釈迦様はおそらく当時のインドとしては最高の環境で暮らしていたはずですが、
それでも悩み苦しみ、出家します。
王には王の悩み、苦しみがある。
どの階層・どの世界に生まれようが、相応の苦しみが待っている・・・。
この考え方、すごく的を得ているような気がします。

苦しみから逃れるにはどうすればよいか。
仏教では、「悟りを開いて涅槃に入る」ことにより、
苦しみから逃れることができるのだ、と説かれます。
すなわち、世界の摂理を深く理解し、世俗的な悩みから無縁の境地に
至ることにより、ようやく苦しみから逃れられるのだと、そういうことのようです。
・・・この考え方、どうでしょうか?
何だかよく分らないですし、世俗的なことから離れられない現代人にとっては、
このような境地に達することはすごく難しい気がします。
自分はこう考えます。
「悟り」だとか「涅槃」だとか、小難しい考え方を引っ張り出さないといけないと
いうことは、すなわち、苦しみから逃れることは不可能なのだということ。


さて、この六道というモデル、苦しみには階層があるということを教えてくれます。
地獄、餓鬼、修羅、畜生、人道、天道
左に行くほど、万人に分かりやすく、共感しやすい苦しみです。
逆に右に行くほど、分かりにくい苦しみです。
痛みや空腹の苦しみは、誰しもが分かりやすい。
暴力の危険に晒されている苦しみや
人間らしい衣食、住環境を得ることができない苦しみも、
文化や階層の差はあれど、比較的万人に共通の苦しみです。
そして、こういった万人に理解可能な「分かりやすい苦しみ」の方が、
手当てのための方向付けが簡単なのだと思います。

しかし、より「高度な苦しみ」は、きっと手当てが難しい。
文化や階層により、苦しみの内容や解決方法が異なってきます。
例えば、恋愛の苦しみや自己実現に関する苦しみなど、ある種贅沢な
苦しみだと思いますが、こういった苦しみは、決して軽いとはいえない。
なんとなく気分が晴れないとか、なんとなく不安だとか、
そういった漠然とした苦しみもあります。
そして、こういった苦しみは、社会の側から単純に手当てすることは、
きっと不可能です。

人は社会とのつながりの中で生きる動物です。
人間が社会を作り、社会の中で生きていく以上、
苦しみは社会の中で緩和されるべき問題だと自分は思います。
そして、率先して救済されるべきは、痛みや飢えや暴力など、
万人に分かりやすい苦しみです。


社会の制度設計の究極の目的は、個々人の苦しみの緩和だと思います。
近代社会の場合、具体的には国家による手当てがまず考えられます。
しかし、国家の原資にも限りがあります。
ゆえに、救済にはランクが必要です。
個別具合的には、安定した衣食住の確保、病気の対策(医療)、暴力の排除。
国家・社会は、万人に理解可能な「分かりやすい苦しみ」の排除に対し、
優先的に原資を割くべきです。

もちろん、できないこともあります。
現在の医療では解決できない重度の病気(がん、その他の難病、障がい)、
社会が制御することが難しい突発的な暴力の噴出
(天災、不作為による交通災害、理解しがたい犯罪)
こういったことをすべて解決することは不可能です。
しかし、こういった状況も、政策的に多少なりとも緩和することはできます。
終末医療における緩和ケア、痛みや苦しみを抑制する薬や医療行為、
防災、減災、技術革新、社会的怨念の除去、
etc

恋愛や自己実現の苦しみはけして軽いとはいえません。
死に対する不安や恐れなど、最も分かりやすく強烈でかつ
解決が非常に困難な苦しみだと思います。
人として生きる限り、漠然とした不安から逃れることは不可能です。
しかし、こういった苦しみは、国家や社会が直接的に解決することは非常に難しく、
基本的には、社会の側から間接的にサポートされながら、
個々人が自ら試行錯誤の中で解決していく問題であると言えると思います。


まとめです。

苦しみから逃れることはできるか?
 →自分はできないと考えます。
苦しみを緩和することはできるか?
 →苦しみの種類によっては、できると思います。
   痛みや飢えなどの「分かりやすい苦しみ」ほど、解決の方向付けは簡単です。
苦しみを緩和すれば幸福になれるか?
 →必ず幸福になれるとは言えない。
   ある苦しみが緩和されたとしても、より高度な苦しみが人を襲うからです。

痛みや飢えや暴力などの「分かりやすい苦しみ」の緩和は、
幸福に生きるための必要条件です。
ただし、十分条件ではありません。
そして、「分かりやすい苦しみ」の緩和のために、
国家・社会の直接的なサポート(再配分)は必須であると考えます。


続きます。