龍樹/中村元 | れぽれろのブログ

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連休後半戦の初日、とくに予定もないのでおうちでのんびり過ごしました。
こういうときは、読もうと思いつつ読んでいない本(こういう本が大量にある)を
読む絶好の機会。
ということで、そんな中の一冊、講談社学術文庫の「龍樹」(中村元著)を
読みましたので、その感想など書き留めておきます。

龍樹とはナーガールジュナの漢訳です。
ナーガールジュナは2世紀のインド人で、大乗仏教の祖といわれる方です。
古代インドで起こった仏教。
2世紀には小乗仏教(上座部仏教)が主流になりますが、
そんな中、小乗仏教的な方向性を否定し、大乗仏教への道を開いた人、
そして原始仏教の教えを体系化した人がナーガールジュナとのことです。
「中論」など多くの著作を残している方ですが、来歴は不明瞭で
複数人物説などもあるのだそうです。
また、著作の多くは漢訳版で(鳩摩羅什なんて訳者の名前は世界史で習った
記憶があります)、意味が曲解されたり誤解されたりする傾向もあるとのこと。
この本はそんなナーガールジュナの思想を体系的に紹介した本です。

この本は大きく3つのパートに分かれています。
第1部がナーガールジュナの生涯
第2部がナーガールジュナの思想の概要
第3部がナーガールジュナの「中論」その他のいくつかの著作の邦訳

第1部はナーガールジュナの生涯についての著作の邦訳が紹介されています。
よくありそうな高僧の伝説的な生涯とさほど大差ない記載になっています。
第3部は原典なので、前提知識のないまま読み下すのは難しい。
ということでこの本のメインはやはり第2部になると思います。
講談社学術文庫なので、どちらかといえば研究者向けの本ということに
なりそうですが、この第2部については、一読書人が読んでも
面白い内容だと思います。
(仏教思想の初歩的な知識がないと、少し難しいかもしれませんが。)

この第2部ですが、内容は「空」「縁起」といったいくつかのキーワードを元に
ナーガールジュナの思想が紹介される形になっています。
仏教思想は基本的に論理学のようなもので、我々が一般に考える「宗教」と
捉えるよりもむしろ「哲学」と捉えた方が良かもしれません。
(本当は宗教も哲学も厳密には区別できないのだと思いますが。)
この本も、ナーガールジュナの思想の論理的な整合性、
他思想との比較を中心として話が進められます。


以下、この第2部を"超意訳"で整理し、感想も交えて記載。

2世紀の仏教は「説一切有部」と言われる方々が主流だったようです。
この宗派は「法が有る」との立場。
自分なりに意訳すると、要するに真理とか本質だとかそういうものがあるという
立場なのだと思います。
ギリシャ哲学でいうプラトンのイデアのようなものです。
(この本でもイデアとの比較がなされています。)
ナーガールジュナはそんな「説一切有部」と対立します。
絶対的な真理や物事の本質などといったものは規定できない。これが「空」。
イデア的なるものを否定するのが「空」。
この「空」の理由として「縁起」という概念が持ち出されます。

「縁起」も原始仏教で唱えられる説ですが、その後の歴史の変遷を経て変化し、
宗派によって解釈は多様なのだそうです。
ナーガールジュナは「縁起」を再定義し、事物の論理的な相関関係のあり方を
「縁起」と規定します。
ざっくり言うと、AとBは独立に存在するのではなく、
「Aとの関わりでBが規定され、同時にBとの関わりでAが規定される」という
関係性のみが存在する。
すべては関係性によって規定されるので、Aの本質、Bの本質などというものは
存在しない。故にAもBも実態は「空」。
この「縁起」→「空」を規定するのがナーガールジュナ思想の基本のようです。
要するに真理とか本質とかそいいうものは、実態が不明確で定義不可能だと、
そういうことのようです。

「縁起」「空」を自分なりに意訳して説明すると・・・
例えば犬を説明しようとしたとき、犬以外の動物、猫とか狼とか羊とか、
そういうものとの比較で説明するしかありません。
猫とか狼とか、他の諸動物との関係性(縁起)の中で、
はじめて犬が規定可能となる。
それゆえ、犬の本質などというものは存在しない(空)。
考え方はこんな感じなのだと思います。

さらに意訳
善、悪、正義、罪、美、醜、愛・・・
何でもいいのですが、こういう概念も論理的に定義することはできないとの
考えを示したのが「空」なのだと思います。
我々は「絶対的な悪」だとか「美の本質」だとか、こういうことを
考えてしまいがちですが、こういうものが絶対的に存在すると考えるのは間違い。
(それでもあえて定義しないと始まらないのが近代という時代なのだと
思いますが、これはまた別のお話。)

驚くべきことに、原始仏教の概念である「涅槃」(ニルヴァーナ、悟りの境地)も
「空」、「如来」(ブッダ、悟った人)も「空」であると説かれます。
涅槃や如来も規定できない。
「煩悩を捨て悟りを開き、涅槃に至り仏になる」というのが原始仏教の境地なのだと
思いますが、ナーガールジュナによっては、それすら「空」であるとされます。
小乗仏教(上座部仏教)と言うのは、なんとか悟りの境地に達しようと
必死で頑張るという宗教なのだと思いますが、そういうことも否定される。

ここまで書くと「空」は虚無主義と誤解されるかもしれませんが、さにあらず。
自分がこの本を読んだ感触としては・・・
すべては「縁起」→「空」、この構造を理解することが悟りなのであって、
「悟り」というある種の実態・境地があるものと信じ込み、
必死でその境地に達しようとするのは愚かなことである。
世界の諸物の関係性のあり方を深く理解し、その状態を受け入れることが大事。
究極的な真理だとか、事物を安易に定義して納得するとか、
「これさえあれば幸せになれる」だとか、「あいつは悪だから吊るせ」とか、
そういう安易な迷妄に踊らされない。
こういう感覚が大事なのだと、そういうことなのだと思います。
正直に言ってこういう思想は好きです。

以上、難しい本ですので理解が誤っているかもしれませんが、
所詮すべては「空」なので別にいいや。(←空を曲解した開き直り 笑)


さて、この本では論理的なナーガールジュナの思想が紹介された本なので
その後の仏教史にはあまり触れられていませんが、この本を読むと、
ナーガールジュナの思想と、
我々が一般に考える衆生救済としての
大乗仏教への繋がりが分かる気がします。
要するに悟りとか涅槃は「空」で、修行積んだ人が悟り(救済)の境地に
達するだとか、そういうことが否定される。
「特殊の人だけが涅槃の境地に入れるわけではない」
→「一切の衆生が救済される」までは、あと一息である気がします。

ということで、他の仏教著作も読みたくなってきました。
お休みの日に、こういう思想についてあれこれ考えてみるのも、
面白いものですね。