歴史とは何か/E・H・カー | れぽれろのブログ

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E・H・カー「歴史とは何か」(岩波新書)を読みました。

初版が1962年、古い本です。
緑色の表紙の岩波新書。いわゆる「青版」。
自分は現代の本を読むことが多く、古典だとか昔の本は
あまり読まないのですが、最近ちょっと古典を読みたい傾向にあります。
(1962年の本を古典と呼ぶかは少し微妙かもしれませんが) 
そんな中、本屋さんでこの本が復刊され積み上げられていたので、
面白そうなので買ってみました。
岩波新書は最近の赤版は割とたくさん持っていますが、
我が家にある青版は確認したら4冊のみ。
今回が5冊目になります。

著者のE・H・カーはイギリスの歴史学者。
20世紀前半~中盤に活躍された方で、「危機の20年」なんて本が
有名なんだそうです。
訳者の清水幾太郎は日本の学者・批評家で、
先日読んだ「治安維持法」の本にも、治安維持法批判の文脈で
ちょこっと登場されていた方。

内容は、歴史をどう認識するか、歴史家がどのように歴史を
描くべきかについての方法論が書かれています。
歴史の事実とは何か、それをどのように捉えるか。
歴史における個人と社会の問題。
歴史と科学、歴史と道徳の問題。
歴史の偶然と因果関係をどう考えるか。
人類の進歩ということについて。
などなど。

歴史学を志すような方が読むべき本のようですが、
一般の読書人、歴史が好きな方も、読んでおいて損はない本だと思いました。

で、いつもの如く、自分なりにポイントだと思ったところや
自らに引きつけての感想などをいくつか。


・歴史を作るということ

歴史家が歴史を著述するとき、そこには必ず歴史家の主観が入り込みます。
それゆえ、かつての歴史家の著作を読んで、
それだけが単純な事実と考えるのは大きな間違い。
例えば、ヘロドトス(←別にだれでもいいのですが)が描いた歴史は、
ヘロドトスが未来の我々を意識し、未来の我々に向けて伝えたい
メッセージを著述しています。
当然そこにはヘロドトスが知らなかったこと、重要だと思わなかったこと、
伝えたくないことは欠落していると見るべきです。
歴史書は所詮主観の産物。

では、事実のみをたくさん集積して主観を交えず著述した歴史書が
よいかというと、カーはそれを良しとしません。
膨大な量の事実の集積のみの書物は、それはそれで意味がある
(自分なんかはこういう本が割と好きだったりしますが)と思います。
しかし、すべての事実を集めるのはそもそも不可能、
そこには必ず欠落があります。
そして、事実に重み付けがなければ、それはただの情報で
歴史書にはならないとカーは説きます。

すぐれた歴史書は、未来に向けてのメッセージを著述します。
そこには必ず歴史家の主観が入り込みます。
このメッセージ・主観の妥当性を担保するために、
歴史家はできるだけ多くの事実を描きだす努力をしなければならない。
この努力が重要で、この努力のない歴史書は不誠実である。

「歴史は現在と過去の対話である」
これを自分なりにパラフレーズすると・・・
歴史を書くということは、現代に生きる我々の諸問題を考慮した上で、
それに対し重要だと思われる事実・情報を過去の歴史書から取捨選択し、
新たな歴史を描くということ。
歴史を書くということは、歴史を作るということ。
そしてそこには事実を重んじる真摯な態度と、
現代世界の諸問題への理解が必要。
こんな風に感じました。

我々が歴史の本を読むとき、著者がこういう努力をしているかどうかを
注意してみる必要があります。
一般の読書人にはなかなか難しいことですが、このことを頭の片隅に置いて
歴史の本を読むのは意味があることだと思いました。


・合理的原因と偶然的原因

有名な一文、
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史は変わっていたかもしれない」
クレオパトラが不細工だと、カエサルやアントニウスは
異なった行動を取ったかもしれない。
歴史は偶然の積み重ね、ふとしたことで歴史は変わる。
よくきく話ですし、こういうことは結果としてあるのだと思いますが、
カーはこのような「偶然的原因」を歴史書で取り上げ考察することは
全く無意味だと説きます。
歴史のifを想定することは面白いことかもしれませんが、
こういった偶然的原因をいくらあれこれ考えても建設的な結果は出てきません。
前後のつながりを考察するに値する「合理的原因」のみを
取り上げるのが建設的な歴史書。

これは歴史だけでなく、現代政治や自分の人生などにも
応用できるテーゼだと思います。
偶然的原因は対処できませんが、合理的原因を把握することにより、
未来を良いものにしていくことは可能です。
(偶然的原因と合理的原因の差異詳細は、
本書の「ロビンソンの死」をお読み頂きたいです。)


・シニジズムを退ける

歴史には発展していく段階と衰退していく段階があります。
盛衰を繰り返し、歴史は前に進んでいく。
カーによると、発展する時代には歴史を分析的に描こうとする意志が働き、
逆に衰退していく時代には、独善的な物語を紡いだり
ノスタルジーに陥ったりするような傾向に陥りがちなんだそうです。
で、こういった衰退時代のシニシズムをカーは軽蔑します。
現代の問題点を把握し、その問題点から過去の歴史的事実を分析し、
現代の問題点を踏まえた上で新たな歴史を描こうとする態度は、
我々が作っていく現代を良い方向に導いていく。
単純な進歩史観という訳ではなく、過去を把握し過去の反省を現代に生かす。
シニシズムを退け、前向きな姿勢があれば歴史は良き方向へ
向かうかもしれない。

この本が出版された年、1962年は英国がもはや完全に
世界のリーダーシップではなくなっているとき。
19世紀ヴィクトリア朝時代に獲得した各植民地は、
20世紀前半の両大戦を経て独立し、かつての大英帝国は見る影もなく、
ただの世界の中の1つの島国になっています。
覇権は完全に米ソにとって代わられている時代。
そんな時代に、カーが嘆くようなシニシズムが英国に蔓延していた。
かつての偉大な英国の時代に憧憬を抱く人たち人たちほど、
シニシズムに陥りやすい。

翻って現代日本。
かつての大日本帝国は遠い昔のことですし、
高度成長・経済大国の時代も過ぎ去った過去になりました。
大日本帝国の面影を愛する少国民世代を中心とした
一部の人たちによる戦争賛美。
経済大国・バブル時代を懐かしむ団塊・ポスト団塊世代を中心とした
一部の人たちによる経済最重視の名を借りた既得権益保護。
こういった一部の人たちが紡ぐノスタルジーに由来する物語やシニシズムに 
付き合って破滅している暇はありません。
我々は過去を分析し、子々孫々の幸せを願い、
新たな歴史を紡いでいく必要があるのです。
1962年以降、「英国病」などと言われたどうしようもない状態から、
サッチャー、ブレアの時代を経て、それなりの安定性を維持している
イギリスの姿を我々は見てきています。
我々が我々の歴史から何を学ぶか。
斜陽の時代である今こそ、読まれるべき本であると思います。