ミッドウェー海戦敗退後、軟禁される兵士達 | 太平洋戦争史と心霊世界

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空母赤城 
          空母 赤城

 ミッドウェー海戦で日本軍が敗退すると、敗報が国民に知られるのを防ぐため、生き残りの下士官兵達は外出を許されず、軟禁状態にされていました。彼らはその後、ソロモン線の前線に出され、そのまま消えた者も多かったのです。

 

 一方、将校達は軟禁されませんでしたが一か所に留め置かれ、料亭(レス)で芸者と宴会をしたりしていました。しかし中にはこれを苦々しく思っていた士官もいました。

 

レイテ海戦で武蔵が撃沈された後も同様でした。兵士たちは1カ月近く、マニラ湾のコレヒドール島に缶詰めになっていました。これは武蔵の沈没が、部外に漏れるのを恐れたためです。

 

この時副長をはじめ兵学校出身の士官たちは、いつのまにかこっそり逃げるようにして、全員飛行機で内地へ帰ってしまいました。(草加少佐みたい・・)後に残った士官といえば、下級の特務士官二人と兵曹長が5人だけでした。

 

そのため所轄の南遣艦隊司令部にも全く押しがきかなくなり、兵達はあちこちにむしりとられるようにして次々に引き抜かれ、結局別れ別れになりました。彼らはこんな時に押しのきく高級士官がいてくれたらと口惜しがりましたが、武蔵の残留組はその後マニラの防衛線に投入されて、そのほとんどが戦死してしまいました。

 

→ 立派な海軍士官も大勢いたと思いますが、上述したような将校達も存在したようです。

 またレイテ海戦の件は下士官によって書かれた記録のため、上官を見る目はおのずと厳しくなったことでしょう。津田大尉は参謀だったため軟禁されなかったのでしょうか。