草加少佐は本当に泳ぎが苦手だったのか | 太平洋戦争史と心霊世界

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自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。

草加少佐は「みらい」に救助され、意識を回復してからも、泳いでも任務を遂行しようと甲板に出たものの、自分自身泳ぎが苦手だったことに気が付きます。(1巻)果たして海軍兵学校出身者にもかかわらず、泳げないということがあるのでしょうか。

 

 まず海軍兵学校では、水泳は必修科目でした。新入生は泳ぎのレベルで組別に分けられます。特級(上級)から6級(初級)まであって、さらにその下には「赤帽」組。これは全然泳げないか、50mをかろうじて泳げると言ったレベルで、一クラス10数人中に数人いました。草加少佐も最初はこの赤帽組だったのではないかと思われます。

 

生徒は海水着の代わりに木綿の褌(ふんどし)を身に付け、水泳帽は泳げる者は大抵白色で、クラスごとに識別線が付いており、泳げない者(赤帽組)は赤い帽子を被ります。

 

 カナヅチ組は初めに海で浮き身の訓練を受けます。浮き身とは大の字に四肢を伸ばし、海水の上にうつ伏せになって、身体を水面に浮かすことです。これがなかなかできないと、沖の水深が約50mある所に放り出されて5分間無理やり泳がされます。だから下手な生徒は溺れて気絶したりと大変な目に会っています。

 

とにかくスパルタ教育で、水泳クラスの開始から1カ月半以内には、少なくとも平泳ぎとクロールを修得させます。そして3ヶ月後には遠泳に参加し、最低6マイル(11km)を泳がされます。3か月前には全く泳げなかった赤帽組も、この遠泳では少なくとも5kmは泳ぎ通します。

 

 遠泳の距離は年ごとに長くなり、翌年は8マイル(13km)、最上級生になると13マイル(24km)にもなります。遠泳の日、生徒たちはほとんど海の中で過ごします。各グループには士官一人と一人か二人の水兵を乗せた通船が伴走し、生徒を励ましたり、握り飯を与え、生徒は舟に摑まりながら食事をとります。

 

こうして朝の8時から泳ぎ始めて、最初の一人がゴールに達するのが夜7時頃という長丁場になります。12時間水の中って、これはフルマラソンより過酷ではないですか?

 

 また水泳だけでなく、飛び込みの訓練もあります。飛び込み台は3mから始まり、5m、7m、最後は10mの高さから飛び込む練習をします。

 

 以上のように海兵では、人並み以上の水泳訓練を受けて卒業していくわけです。またこれだけ泳げなければ、次席で卒業も難しかったでしょう。草加少佐は泳ぎが苦手と称していますが、苦手なのは意識の上だけで、実際は一般人と比較したら、相当泳げたのではないかと私は考えました。

 

 ただこれだけ経験を積んでも苦手意識が残るということは、溺れて死にかかったなど、トラウマとなる恐ろしい体験をしたかもしれません。16巻では浜辺で会った角松二佐に、「いつ海に突き落とされるかと、実は肝を冷やしていた」と水を怖がっているような発言をしています。

 

 また13巻の帰郷では、故郷のお寺の住職に、「あいかわらず泳ぎは苦手ですが・・」と語っています。これは子供時代、どこかで草加少佐が泳いでいたのを、住職が知っていたということでしょう。もし全く泳ぎの体験なしに海兵へ入学し、いきなり水泳を習ったとしたら、このような発言はしないと思います。恐らく彼は、例えば川や池で水遊びをしていて、溺れた経験があるのではないかと推察されます。