■私の体験
何のために瞑想をするのか?
私の場合、最初はインスピレーション開発が目的でした。
大阪の小さな広告代理店にいた私は、
今までと似たルーティンではない新しいデザインが必要と感じていたからです。
信頼のおける経営コンサルタントの知人にそれを尋ねたところ、瞑想を勧められました。
…
私の初めた瞑想では、足がしびれる蓮華座をすることもなかったので、
瞑想中にリラックスする心地よさを感じることができたのです。
そのせいか、瞑想を決められた時間以上にしていました。
そこの流派では、「瞑想をするとき、決められた時間以上はしないように」
という注意がありました。
その意味がわからず、講師に質問しました。
「それは、なぜですか?」
「長く瞑想をすると危険だからです」
「え?危険…なんですか???」
「そう、危険なのです」
「どういうことが起こって危険なんでしょう?」
「…上の者からそう教わりました」
「…」
その返答の背後には、講師の「これ以上は質問しないように」というメッセージも感じられました。
ですから、より突っ込んで質問しても、答えが出ないと予想したのと、
流れを遮り、他の受講者に迷惑をかけると思ったので、それ以上の質問は止めました。
■
最初は朝晩15分、という時間を守って瞑想をしていました。
短時間の瞑想でもストレスがとれたようで、
不眠症が改善され、身体のだるさがとれてきました。
病気ではないが、慢性的で治らなかった不眠症。
それが瞑想を始めることで劇的に改善されたのでした。
寝具の中で、朝までごろごろして寝られず辛かったのですが、
瞑想を初めてからは、夜、布団にくるまれるとすぐに意識が遠のき、
そのまま朝まで起きることなく熟睡ができるようになったのです。
私はそこから瞑想にかける時間を長くしました。
講師の「長時間の瞑想は危険である」という、
私にとって理解不能なアドバイスはどこ吹く風。
そこから、不思議と思えるような主観的体験を多くして、
瞑想や我々の意識そのものに興味を持ちだしたのです。
多くの体験を元に、分析・検証を進め、同じ体験を他者ができるのか?
その再現性を上げるには?
と考えるようになったのです。
瞑想は主観的体験です。
しかし、そこから普遍性を浮き上がらせることは大切でしょう。
そらが可能なら、一個人の体験で終わるのではなく、
他の人にも応用できる普遍的な方法となります。
そうこうするうちに、他人から請われて瞑想を教え、それが仕事となりました。
教えるに当たって、勉強のためにいろいろな講師業の方にお会いしましたが、
これが、玉石混淆であると思いました。
中でも、ヨガ道場と思って伺ったところが、オウム真理教のこともありました。
当時、オウムはテロを起こす前でしたが、私の対応に当たってくれた方が、
自分の考えが無く、私はその方を見て
「洗脳されているようだ。ここはおかしいな…」と思ってそそくさと帰ったのは、
こんな会話を交わしたからでした。
担当「生き物を殺すことはいけないことです。
どんな小さな生き物でもです。
尊氏はそうおっしゃっています」
私「…シク教みたいですね。
では納豆やヨーグルトは菌が生きていますが、その理屈からいくと、それらを食すと大量殺戮となりますよね。
そもそも野菜も生きていますから、どう解釈すればいいのでしょう?」
担当「尊氏に聞いておきます」
という応答が続き、私は疲れたのでした。
瞑想を初めて技術的なことだげけなら問題はややこしくありません。
が、宗教だけでなく、
若い方に流行しているスピリチュアリズムや、
年配の方が若い頃にブームとなった哲学なども含め、
いつの時代も「自分が信じる思想」というのもは、自家中毒を引き起こしやすいもの。
個人では弱者である善人を、テロ的思想へ誘うことも現実にあるのですね。
そこで、瞑想の技術論を語る前に、
次回は「瞑想初学者の心構え」を話します。
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