子供たちに託したい希望。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【解答乱麻】ジャーナリスト・細川珠生



東日本大震災が起こり、被災地ではもちろんであるが、東北・関東にいる子供たちも日常生活が一変した。しかし、命があれば希望も生まれる。子供たちが日々しっかりと生きていることが、今の日本の希望である。

 その中で、卒業式の季節を迎えた。被災地では、卒業式のめどもたたず、そのほかの地域でも式典を簡素化したりという状況ではあるが、どのような形であれ、被害が大きかった地域は別としても、卒業式は子供たちのために、ぜひとも開催してほしいと思う。

 子供たちにとって、卒業式はひとつの節目である。慣れ親しみ、思い出の詰まった学び舎を離れ、友人、先生と別れることは、年齢を問わずさびしく、悲しい。しかし、私は卒業式での児童・生徒の姿を見ることで、いつも大きな希望と喜びに満たされるのである。「卒業」という一つの節目は、6年間、あるいは3年間の毎日の積み重ねによって得られるものであり、卒業式での子供たちの姿は、その間の努力の集大成である。悲しみの中にある、子供たちの胸を張った晴れやかな姿こそが、「希望」であるのだ。

 そのことから改めて思うことは教育の目的は何かということである。

最近の親を見ていて懸念を抱くのは、家庭教育が崩壊している一方、非常に熱心な親も多いということである。就学前の子供が毎日のようにお稽古ごとに通うというのも決して珍しくない。就学前から難しい計算や漢字などを習得させるなど、教育の超早期化も進んでいる。

 その半面、その年ごろにこそ身につけなければならない他者との関わり、子供らしい遊びから養われる独創力、親との関わりの中で覚えていく常識やマナーなどは軽んじられ、塾やお稽古ごとを目いっぱいやっていれば、それで有能な人材に育つと思っている親が大変多いのだ。

 子供は小さければ小さいほど、知識や新しいことの吸収が早く、驚くべき記憶力で、我が子が天才ではないかと親なら一度は“錯覚”したことがあるのではないだろうか。しかし、覚えるのも早ければ忘れるのも早い。つまり、本当にその子が興味を持ったり好きなことでなければ、ただやっているだけに過ぎないのだ。小さければ親に反抗もせず(嫌がらず)やるかもしれないが、だからといって、それがその子にどれだけプラスなのかは、別問題なのだ。

むしろ、年齢がくれば自然にできるようになることを、幼少のころから無理にやらせれば、当然マイナス面も出てくる。それを覚悟の上でも身につけさせたい技能や人間形成上の素養であるなら、意味があるだろう。「早くに始めれば後で楽」というような安易な気持ちや、「みんなもやっているから」という焦りから、子供に無理強いするような教育は、はっきり言って間違っている。

 卒業という一つの儀式ではあっても、そこへ向けた子供たちの毎日は、目に見える成長が表れる。それは、日々の積み重ねという成果以上に、子供たちが立派な姿を見せたいという自覚があってこその姿である。つまり、教育の目的は、親も先生も、子供たちが一人の自立した人間として、自分を取り巻くあらゆる状況に対する自覚を持てるようにするという以上に重要なものはないのではないだろうか。





【プロフィル】細川珠生

 ほそかわ・たまお 東京都品川区教育委員。ラジオや雑誌などで活動。父親は政治評論家の故細川隆一郎氏。