すべてに責任がある、とは 1 |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
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 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

昨日の「ホ・オポノポノ」の記事で、

「この世に起きることすべては自分の責任である」

というくだりがあり、それについてご質問がありました。

それは自業自得と同じ考えですか、と。


この部分については、説明しておいた方がよいかなと思っていた部分なので、今日、補足の記事を書きます。

「ホ・オポノポノ」では、このすべては自分の責任ということについて、具体的な説明はなされていないかもしれません。
私はこの関連書物を、まだ一冊しか読んでいないのですが、その中ではなぜすべてに責任があるのかという、論理的な説明はなされていなかったように思います。

ただ、すべてを自分の責任として引き受けること、そして100%自分の責任だと考えないと、何も解決しない、ということが提示されているだけでした。
(他の関連書物の中に説明があるのかもしれません)

しかし、私は自分なりにこの考え方に共感しています。

それは過去の記事のいくつかを読んでもらっても分かると思いますし、鑑定依頼者向けのページにも「人は皆、自分の人生に100%の責任を負っています」という表記をしていることで、お分かりいただけると思います。

では、なぜ私がそのように考えるのか?

そしてそれは自業自得ということなのか?

それについて説明していきますが、ここから後は「ホ・オポノポノ」には関係なく、私が思っていることですから、そこは混同せずにお読みください。


人は生まれてくる前に魂の計画を立てます。
今回の人生に関する計画です。

どの家族の元へ生まれるか(子供はすべて親を選んでいる。どんなひどい親でも)。
どんな容姿性格を持つか。
結婚する、しない。
いつ、どのようなときに結婚するか。
結婚する相手(何人かの候補はいると思われます)。
子供を授かる、授からない。
人生で何をするか(個人によって目的は違います)。
どのような死に方をするか。

これらの計画は基本的な骨組みで、未熟な魂ほどこの計画を細かく立て、横道にそれないようにするようです。
ある程度成長した魂は、この自由度が大きいとされています。

このようなことが、科学的な手法で行われている生まれ変わりの研究で分かっています。

過去にこれに関連した記事はいくつもありますが、よろしければ<魂の計画としてのホロスコープ>を参照ください。

このような計画が、どこまで実現するかは個人によって差があります。

落ちるところまで落ちて、他人を殺傷するような人生になってしまい、死刑に処される。

このような計画が、もともとあったとは私は思いません。

いかに計画を立てていても、それが崩れることはあるでしょうし、あまりにも大きな罪を犯せば強制終了させられることだってあるかもしれません。


しかし、こういう極端なケースを除けば、普通に生きているかぎり、起きてくる出来事の中には、自分の魂の計画の中で用意されていたものであることも多いはずです。

たとえば結婚。

こういう重要なイベントは、計画の中に組み込まれていることがほとんどです。

結婚後、こんなやつとなぜ結婚したんだろう、と思うこともあるかもしれません。

しかし、そのような結婚相手とでさえ、かならずその結びつきには意味があります。

自分が計画している候補者の中から、そのときの自分に見合った相手を引き寄せているわけですから。


ホロスコープを解読すると、夫婦にはそれなりに明瞭な根拠があることが、ほとんどです。

ちゃんとそれぞれの配偶者像に合致するような相手を選んでいるということです(例外はあります)。

ホロスコープは魂の計画が表示されたものというのが、私の基本的なスタンスです。

ホロスコープが人の性格や運勢を物語るのなら、当然、ホロスコープは魂の計画が反映されているからです。

そうすると、まさに計画通り、その相手と結婚した、という見方が可能になります。


計画通りなら、まさに起きていることはすべて自分の責任です。
重要なイベントであればあるほど、その計画と無関係とは考えにくくなってきます。

これが、第一の根拠です。

しかし、魂の計画に沿ったことばかりが起きるのが人生とは限りません。

細かい部分では、そのときそのときで、人はその大きな計画の隙間隙間に、いろんなものを引き寄せて埋めていっている。

それでまた未来が変わる。

ロール・プレイング・ゲームと同じです。

大まかな意味で計画は存在していますが、すべてががちがちに固められているわけではない。

何を選択する。

誰とやっていく。

そのときに他人にどのように対応する。

それらが次々に新しい未来を生み出していきます。

それらもすべて自分の自身の選択、意志によるものです。

一見、自分とは無関係、まったく責任のないところから生じたような災厄的な出来事や人間関係も、自分が引き寄せています。

これは人間関係の波及効果、というものがあるということが、やはり研究でいわれています。

自分のしたことが、巡り巡って自分に返ってくる。

いわゆる因果応報の法則です。

これが第二の根拠で、やはり人は自分の人生に100%の責任を負っているということです。

コメントのご質問にあった、自業自得というのは、この因果応報の法則の別な言い方です。

「業」は仏教的にはカルマです。

カルマはサンスクリット語の「行為」という意味です。

人の行い、想いを含んでのことだと私は理解していますが、そのカルマがまた次の人生を作っていく。

次の瞬間を。

計画があったとしても、カルマの中に非常に良くないものが多く含まれ、わかりやすくいうと善悪のバランスシートが、悪へ傾いていたら、その人の人生の計画は傾くかもしれません。

それこそ犯罪者になってしまうかもしれません。

自業自得というのは、自分の行いがそのまま自分の得るものになる、ということでしょう。

すなわち因果応報の別な言い方なのですが、自業自得という言葉の印象は非常に悪く、悪いことをしたその報いを自分が受けて当然、というような意味合いで、みなさん、思われると思います。

因果応報は、もちろん良きカルマもあるわけで、実際には良いものを人に与え、そして自分がその良きものを受け取る、ということがあるわけです。


魂の計画と、その中で自分が選択するカルマ。

その二つが基本的には人生を作っていくので、100%責任があるという見方は、的を射ていると言えるのではないでしょうか?

ただし。

ここに重大な問題があります。

そう、ここまで読まれた方の中には、すでに疑問を感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

次回は、そのことについて書きます。